第九章 心の声 3
駅へ向かう道中で小磯と連絡を取って待ち合わせた。
『この馬鹿野郎が! 克也ちゃんに嘘つきやがって!』
出会い頭のその怒声と、本気の殴打が辰巳を迎えた。
やられたら三倍でやり返す。そんな辰巳でさえ言葉を失くすほどの激しい怒りが彼の全身から発せられていた。嫌な予感が頭の中で堂々巡りするも、小磯に問う勇気もなく、ただ黙ってナビシートへ乗り込むしかなかった。目指した場所は、温泉街。小磯に連れて来られたのは、もぐりの医者が隠れ住んでいるという一見旅館にしか見えない診療所だった。
そこが目的地だったのは、克也が失語の治療で入院しているからだとばかり思っていた。だからここが目的地でもなんの疑問も抱かなかったのに。
『……なん、で……?』
手にしていたジャケットが、とさりと床へ滑り落ちる。腹に薄ら寒い感覚が走り、それがいつまでも留まり背筋まで寒くなっていく。耳障りな自分の浅い呼吸音に、小磯の言葉がかぶさった。
『毎日カレンダーと睨めっこしてたよ。万が一を考えて三週間と伝えておいた。きっちり三週間を過ぎた途端、克也ちゃんがこうなっちまったんだよ。ぜんまい仕掛けの人形みたいにな』
陽射しを浴びる機会が少なくて、透けるように白い肌。墨を落としたような濡れ羽色の髪も、最後に見た彼女と何一つ変わっていないのに。
『お前が優先順位を間違えるからだ。勝手に暴走しやがって』
ただ呆然と立ち尽くす。小磯の叱責に言葉も出ない。
何本もの点滴のチューブ、腕に残る痛々しい注射針の跡。目尻にこびりついた目やには、涙の跡をかたどっていた。
『克也……』
呼べばすぐ起きて、いつものように自分の懐へ飛び込んで来そうなのに。
『外的要因は、ないんだとよ』
その横顔は天井を仰いだまま、辰巳を見ることはなかった。
『もう十日近く意識が戻らねえまま、なんだ……』
ベッドの脇へ促す意味で小磯に背を押されたが、その場に立っていられなかった。
『辰――!』
閉じていく視界の隅で、小磯の驚きの混じった蒼ざめた顔を捉えた。それが、その夜辰巳が最後に見た光景だった。
目覚めると翌朝になっていた。隣には、変わらず眠り続ける克也がいる。反対側の脇を見ると、筆のような太い眉の老人が座っていた。
『おう。目が覚めたか。お気楽なもんだな』
『……誰だ、あんた』
警戒の視線を逸らさないまま、どうにか身を起こそうとしたが。
(あれ?)
視界が不意にぐにゃりと揺らぎ、上下左右の感覚が解らなくなる。
『ろくなもん食ってなかっただろ。点滴が終わるまでそのまま寝ておけ』
眩暈で再び枕へ頭を落とした辰巳に、呆れ声がそう制した。
『俺ぁ高木に借りのある藪医者だ。克也の主治医を頼まれた。てめえも当分ここにいてもらうぞ』
自らを藪と称する老医師は、簡単に克也の状況を説明した。
心因性の可能性が高いこと。一見意識がない状況でも、絶えず働きかけを行なうことで目を開く可能性があるということ。
『俺も四六時中張りついていられるほど暇じゃねえ。てめえが保護者だって言うんなら、それなりのことをしやがれ、クソガキ』
口汚くそうそしる癖に、その声色が温かい。
『てめえ、あの海藤のガキなんだってな。高木から聞かなきゃ判んなかったぜ。母親似か?』
そんな言葉を投げられたのは、生まれて初めてのことだった。常に父親似としか言われたことがない。
『老眼ですか。母親の面影なんてゼロですけど、俺』
『パーツの話じゃねえよ。てめえの表情と克也から聞いた話を考慮した上での見立て、ってヤツだ』
『……』
『甘ったれたガキだな、ったく。泣いている暇があったら、てめえがもっと強くなれ』
見透かすような老医師の瞳が、長い眉毛で隠された。彼は年寄りらしい掛け声とともに立ち上がると、静かに病室を出て行った。
ゆっくりと起き上がる。まだ少し眩暈がする。
克也のベッド脇へひざまずき、彼女の左手をそっと握った。
『……ごめん』
少し冷えた細い腕を、両手で撫でて温める。
『もう嘘なんかつかないから』
頬に触れさせた小さな掌は、ぴくりとも動いてくれない。
『もう、どこにも行かないから』
小さな白い手を、大きな両手で包み込む。
『……起きろよ、克也。俺、帰って来たよ』
閉じた瞳は動かなかった。ただ、小さな吐息が聞こえて来るだけだった。
『なあ、起きてくれなきゃ謝れないじゃん。起きろよ、克也』
彼女の顔が揺らぎ出す。視界が次第にぼやけて来る。
『お前まで俺を置いていくなってば。……頼む……目を覚ましてくれ……』
――今度こそ、約束する。二度と独りぼっちになんかしないから。
彼女に何度もそう詫びながら、ただひたすらにその瞳が自分を捉えてくれるのを願った。
それ以来、辰巳はその言葉どおり、克也を残して部屋を出ることをしなかった。毎日を彼女の隣で過ごし、寝顔に話し掛けながらネットでデイトレをして小銭を稼ぐ日々を過ごしていた。
毎日彼女を背負って、温泉街を散歩する。
『おー、すっげ。克也、見ろよ。満開だ』
診療所のすぐ下にある公園に佇む桜の老木が、満開に咲き誇っていた。
『こんなに外へ出る時間が長い毎日って、考えてみたら初めてだよな』
背中の彼女へそう語り掛ける。彼女の答えを想像する。
『初めてだろ。触ってみる?』
小声で「ごめんね」と桜に謝ってから、一枝を手折らせてもらった。真下のベンチへ座らせた克也の鼻を、桜の花びらでくすぐってみた。
『……笑えよ。くすぐったいだろ?』
くすぐったのは克也の鼻なのに、辰巳の鼻がツンと痛む。
『……っ』
何も言わない彼女の小さな身体を、力一杯抱き寄せた。
辰巳は克也の五感の中で唯一覚醒しているかも知れない感覚機能に、自分の存在を訴え続けた。
九十三回目のおはようのキス。九十三回目の朝食の挨拶。九十三回目のおやすみのキス。数えながら口づけたその瞬間。彼女の瞼へ触れた辰巳の顎に、微かな動きが伝わった。
『克也?』
慌てて顔を覗き込むと、明らかな表情の動きをここへ来てから初めて見た。克也の眉間に、深い深い皺が刻まれる。彼女の目尻から、つ、とぬるいものが溢れ出す。
『克也!』
声を聞きつけた看護師が
『どうされました?』
と駆け込んで来た。
『克也、俺だよ。ほら、起きろよっ、克也!』
彼女の手を握りしめる。もう一方の手でその腕をさする。戻って来たのは夢じゃない。だからそっちへもう行かないで――願うように何度も何度も、繰り返し克也の名を呼んだ。
『克也! 起きろ、克也!』
瞼がゆっくり開かれていく。隣へ立った看護師がそれを見とめると
『藪先生! 守谷さん、意識戻りました!』
と叫びながら診察室の方へ駈けていった。
“う・そ・つ・き”
克也の唇が非難の言葉をかたどる。
『うん……ホントに、ごめん。もう嘘つかないから』
“や・く・そ・く”
『うん。もう独りには、絶対しない』
答えながら彼女の目尻を拭うと、彼女がようやく微笑んだ。
“な・く・な・よ”
――おかえり、たつみ……。
『……ただいま』
やっと彼女に、「ただいま」のキスを施せた。
約一年、その診療所で暮らした。振り返れば、危険から身を守られたその一年が、二人にとって生まれて初めての“心の休息期間”だった。辰巳にとっては、声の出ない克也の“心の声”に耳を傾けることが出来る貴重な時間。克也にとっては、人の“心の声”に耳を澄ますことを学ぶ貴重な時間。
大切なものを見失わないよう、優先順位を間違わないよう、自分の、そして人の“心の声”に、五感と心を研ぎ澄ます。その穏やかで優しい感覚を覚えていく、平穏で平和な、人に守られた温かい時間だった。
奇しくも克也の声が戻ったのは、初めて辰巳と出逢った日と同じ、二月十四日の未明だった。
身体的には日常生活に支障がないほど回復した克也だったが、声が戻らないのでまだこの診療所に居座っている。彼女は退屈な入院生活を持て余し、寝つけない毎日を送っていた。布団に入って辰巳の掌に指文字を書きながらお喋りをするのが、寝る前の習慣になっていた。
『あ。日付が変わった。克也、今日で丸二年だ』
小磯の苦手な、パソコンによる書類作成という小遣い稼ぎをしながら、克也の枕元でそう告げた。
“なに、にねん”
『克也と初めて逢った日から、だよ』
克也の顔が、なんとも言えない表情にほころんでゆく。
“おぼえてるんだ”
『とーぜん。克也は、俺と加乃の宝物だもの』
自然と笑みが浮かんでしまう。一年前の今頃は、克也のこんな笑顔をもう一生見れないのかと怯えていた。それが今はこうして、一度は心が壊れるほど傷つけた自分に再び笑顔を見せてくれる。
克也が帰って来てくれた。ただそれだけで、充分だった。
克也が重ねていた手を離し、ゆっくりと起き上がった。そして辰巳へ向き直り、必死で何かを訴えた。ぱくぱくと口を開け閉めするが、どうも喉を使おうしているらしく、苦しげな表情になっている。
『ん? 無理するなよ。喉を痛めちゃったら、折角心が治っても声帯が潰れて声が出なくなっちゃう』
克也はしゅんとした顔で渋々と口パクをやめた。かと思うと、今度はぱあっと明るい瞳を辰巳に向ける。何か閃いたらしい。辰巳を指差し、次に自分を指差すその仕草に思わず笑った。彼女に促されるまま、くつくつと笑う声を殺してパソコンのモニターに視線を移す。
“た・か・ら・も・の”
モニターに映るその文字を、彼女の細い指がゆっくり辿っていった。
辰巳、克也、そして、宝物。
『うん、そう。俺にとって、克也は大切な宝物』
辰巳がそう答えると、克也は不満げにふるふると首を横に振った。自分を何度も指差し、その指先を、今度は辰巳の鼻先へずいと突き出して怒っている。
「え、克也が主語、ってこと?」
パズルのように助詞を入れ替え考える。
(克也は、辰巳が、宝物……?)
『……俺が? 克也の、ってこと?』
克也が仔犬のような愛らしさで、何度もこくこくと縦に首を振る。
『あっは……ありがとさん』
胸の真ん中に甘酸っぱい刺激が走る。目の奥がツンと痛くなる。そんな感覚は初めてで、どんな言葉なら克也に伝わるのか、巧い言葉が見つからなかった。
辰巳は照れ臭そうに笑いながらパソコンを脇へ除け、克也に『おいで』と言う代わりに腕を広げた。ぱふんと彼女が懐に収まると、その耳許に囁いた。
『お前のお陰で生きていられる。帰って来てくれてホントにありがとう』
辰巳の耳許に、克也の吐息が微かに掛かる。掻き抱く腕の力に応えるように、辰巳の首へ巻きつけた彼女の腕にも力がこもった。掠れた音が、辰巳の耳許を撫でていった。
『た、つ、み』
――だ、い、すき。
『!』
それは、以前より少しだけ低いトーンではあるけれど、一年振りに聞く懐かしい確かな――声。
ようやく伝えたかった最初の言葉を声にして、克也は苦しげにむせ返った。彼女がそれ以上の声を発することは出来なかったが、その時の辰巳には充分過ぎるほどだった。
『うん、俺も、お前が、大好きだよ』
義妹を抱きかかえたまま、その背を優しくさする。彼女に噛み砕くように、ゆっくり区切ってそう告げた。上ずる声は小さな女の子の心にも染み入り、彼女にちゃんと伝えてくれたらしい。克也は辰巳の頬に伝う想いを受け留めるように、頬を寄せてそれを拭った。
それからの克也は、これまでを取り戻そうとでも言うかの勢いで、ことある毎にマシンガントークを炸裂させるようになった。辰巳は気の赴くままに想いを声にする彼女に、その後延々と手を焼かされることになる。それでも、言い方の注意はしても、その声を無理やり封じることだけはしなかった。――声と心は連動している、そんな風に思ったから。
辰巳は人の話を聞くのが好きになった。話、そして、声。
言の葉に乗せられた抑揚に、発した人の心を見る。わずかな高低の中に溢れる気持ちが宿っていると、最初に克也が教えてくれた。それは退院後に商う裏稼業や、のちに営む喫茶『Canon』でも大きな基盤となっていった。それは辰巳の中にある自信の種をも、少しずつ大きなそれへと育んでいった。
克也十一歳、辰巳二十二歳。
その日は、成長への一歩を踏み出す瞬間を小さな少女が与えてくれた日、とも言えた。
辰巳は公園のベンチに腰掛け、その頃を回想しながら頭上にひしめく桜の紅葉を眺めていた。意を決してポケットから携帯を取り出し、高木の携帯宛にメールを打ち込んだ。
――依頼に関して追記事項。
始めの内は日帰りネタで頼みます。少しずつ、克也に俺の不在を慣れさせていきたいので。
勝手ばかりですけど、出世返しで相殺、ってことでよろしく。辰巳――
送信ボタンを押すのに、幾分か時間を要した。画面が『送信完了』の表示に変わると、深い溜息がつい漏れた。
「ったく、今更訊いてくれるなよ。高木のばーか」
今更覆せるはずがない。そして、覆すべきでもない。自分のほかに、この計画の核になれる存在はどこにもいないのだから。それであれば、克也を少しでも自分のいない生活に馴染ませていくべきだ。でなければ、またあの子の心が壊れてしまう。
「……もうこれ以上、傷つけたくないんだ……」
頭上の桜がざわざわと音を立て、辰巳の吐き出した言葉を隠していった。