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第九章 心の声 1

 ――たつみ……だいすき。

 ――うん、俺も、お前が、大好きだよ。


 声と心は連動している、そんな風に思った瞬間――。




 辰巳は高木を松本駅まで車で送り、ホームまでは行かずに車中からその後ろ姿を見送った。思い返せば高木と直接顔を合わせたのは八年振りで、しかもあんなラフな恰好を見たのは初めてだ。トレードマークのオールバックではなかった所為か、ほんのわずかだが白髪が混じっているのに気が付いた。だが気苦労の原因は自分にもあるだろうと思い、敢えてそこは見て見ぬ振りを一貫しておいた。

「高木ももう三十四、だものな」

 そして、辰巳ももうすぐ三十路の仲間入りをする。

『あと二年で、克也君も二十歳だな。……そのあと、どうするつもりだ』

 高木の問いが辰巳の脳裏で再生される。歳月を考えると、嫌でもそこに思い至ってしまう。

『どうもこうも、計画通り、ですよ』

 その答えに、嘘も迷いもないはずだ。ただ、一つだけ気掛かりがあった。

(俺がいなくなっても、もう克也の心が壊れることはないだろうか)

 その懸念が高木と松本駅で別れた今も引きずり続け、それが頭から離れなかった。

 こんな顔で帰ったら、また克也が要らぬ想像や詮索をするに違いない。そう考えるとアパートへ戻る気にはなれなかった。

「あそこなら、打ってつけかも知れない」

 思いついた場所を目指して駅前通りをまっすぐ走る。突き当たったあがたの森公園の前でステアリングを左へ切った。

 そのまましばらく進んで何度か右左折を繰り返せば、温泉街の入り口へ辿り着く。辰巳が目指したのは、そこで密かに商っているもぐりの病院に隣接した、ベンチしかない簡素な公園だった。八年前に世話になったそこの藪医師とは相性が悪く、日頃は滅多に足を運ばない。だが、克也のお気に入りの場所なだけに、春だけは穴場の花見スポットとして赴くところでもある。辰巳にとってそこは苦い思い出を蘇らせる鬼門だが、今日に限っては最も妥当な居場所だと思われた。

「ぬるい生活に馴染み過ぎるのも考えものだな」

 誰にともなく、そう呟く。辰巳の思考は既に八年前へと遡っていた。




 八年前。加乃を失くしてから一月後の某日。取り敢えず諸々の段取りがつき、細かいことを高木に任せて逃げて来た。

 辰巳は克也を伴い、古びているが大正時代を思わせる上品な雰囲気の老舗ホテルに辿り着いた。松本城にほど近い奥まった立地が人目を避けるのに丁度いい。

 チェックインを済ませると、まずはネット環境を整え住宅情報サイトを検索した。あまり無駄な経費を掛けられない。いわゆる“花街”近辺の安いアパートに条件を絞った。経費の面以上に、後ろ暗い人間がたむろするそういった場所の方が余計な詮索をされずに済むと考えた為だ。

 連絡先のメモを取り、続いて飲食店情報を検索する。

『うーん。やっぱこんな田舎じゃあ二件しかない、か』

 サーチのキーワードは「ホストクラブ」だった。


 一通りやるべきことを済ませたところで、ようやくスーツの上着を脱いだ。ネクタイと緊張を緩めながらベッドを見ると、旅疲れですぐ眠ってしまうだろうと思っていた克也が見当たらなかった。

『克也?』

 彼女を呼ぶ声が神経質なほど尖ってしまう。ベッドの脇から、ちょこりと頭のてっぺんだけが覗いているのを確認すると、ようやく辰巳の口から苦笑混じりの穏やかな声が漏れた。

『疲れただろ? なんでそんなところで丸まってるの?』

 ドレッサーの前から離れ、ベッドの脇へと移動する。

『ほら、ベッドへ入りな』

 克也はベッドと壁のわずかな隙間で背中を壁につけて膝を抱えていた。その姿勢のまま、首を小さく横に振った。

『……ごめんな。この一ヶ月、怖かっただろう』

 彼女は俯いた顔を膝で隠したまま、辰巳のパンツの裾を握りしめた。

『傍にいるから、眠っても大丈夫』

 裾を掴む克也の手をそっと外し、彼女を抱き上げ一緒にベッドへ横たわった。

 この一ヶ月、克也には随分怖い思いをさせてしまった。

 いつまでも東京から身を隠せない状況の中、高木を疑い何度も彼女の前で口論を繰り返した。彼の顔を見る度に父への憎悪が再燃する。心の中で繰り返される己が罪にも苦しめられ、克也の心を省みる余裕があまりにもなさ過ぎた。

 気づけば克也から、笑う声どころか喋る声さえ聞けなくなっていた。ただ部屋の隅で膝を抱えて、ことの成り行きを眺める日々を送らせていた。

 小さく震える彼女を、強く、でも柔らかく抱きしめる。

『ごめんな、克也。加乃を守れなくて。いっぱい怖い想いもさせて、ごめん』

 辰巳の背に回された細い腕が、応える声の代わりに精一杯の力でしがみついた。じわりと濡れた感触が、シャツの胸元に広がっていく。

『……ごめんな』

 嗚咽もなく涙を零す克也を見て、そんな泣き方をさせている自分を、恥じた。

『これからは、ずっと克也の傍にいられるよ。だから大丈夫』

 克也にしがみつかれている辰巳の方が、彼女からエネルギーをもらっていた。自分を頼る彼女から、これからのことを考える鋭気が養われていく。肉親を失ったこの子でさえ、泣くまいと精一杯足掻いている。そう思うと、彼女を守るべき自分が泣いている場合ではないと思えた。

『ずっとこうしてるから。眠っても大丈夫』

 ずっと傍にいるから。誰も克也を襲ったりなんかしないから。

 何度も彼女に囁きながら、逃亡初日はそんな風に過ぎていった。




 辰巳はその翌日になってから、ようやく克也の異変に気がついた。

『克也、ちょっとだけ独りでいられるかな。仕事の面接に行って来るだけだから、そんなに長くは掛からないと思うんだけ、ど……克也?』

 ためらいがちに尋ねる辰巳へ、克也は大きく首を横に振った。目で『行かないで』と訴えるのは解るのに、同じ言葉を紡いだはずの口から鈴の音のような声が出て来なかった。

『克也……俺の名前、呼んでみ?』

 彼女が不安げな瞳で言われるままに、「た」とかたどるが、音がない。

『――っ!』

 克也の目が、みるみる怯えた色で濁っていく。瞳が左右に細かく揺れた。そこに映る自分の瞳が彼女のそれとシンクロする。

『声が……出ない、のか……?』

 辰巳の無駄な問い掛けが、克也の耳に入っていない。握る拳が辰巳の胸元を狂ったように叩いていた。声なき声で叫び暴れる彼女を抱きしめた。腕の強さが、辰巳自身の動揺も表していた。

(どうしたらいい……今は医者を頼れる状況じゃない)

 もがく彼女を押さえながら、自身へ言い聞かせるのを含め、ようやくなだめる言葉を紡いだ。

『克也、大丈夫。いろいろあったから、一時的に声が出ないだけだ』

(俺がうろたえてどうする。まずは克也を落ち着かせなくては)

 克也の背になだめるリズムを刻む。とんとんと彼女の背を叩くテンポに合わせて、克也の呼吸も整っていった。外に出るのを諦めた辰巳は、片手でどうにかスーツのジャケットを脱ぎ捨てた。引き止めようと縋ったままの克也を安心させる為に。

 唇で「こわい」とかたどる克也の髪を撫でながら、見上げて来る瞳に無理やり笑んでみせた。

『大丈夫。どこにも行かないから。ずっとこうしててあげるから』

“たすけて”

 怯える彼女の頬から掌で涙をそっと拭う。

『うん。心配するな。俺がなんとかする』

“ひとりにし”

『だーいじょうぶ。独りにしないから、もう少しおやすみ』

 そう答えると懐に彼女を再び潜らせた。背に回された彼女の腕から不安の震えが消えるまで、ずっと『傍にいるよ』と囁き続けた。


 泣き疲れて眠る克也に腕枕をしたまま、寝そべった恰好で高木と連絡を取った。

《何かあったのか》

 昨夜の今日で連絡したことが、高木にトラブルを知らせる恰好となった。彼の短い一言は、早々に本題へ移れと促していた。

『こっちで高木さんが信頼出来る人を紹介してもらえませんか』

 これ以上高木に借りを作るのが嫌だと言ってはいられなかった。問われるままに克也の状況を説明し、彼に医者と協力者の提供を求めた。

《解った。小磯を知っているな。彼を県警捜査一課へ出向させてある》

 小磯――確か本庁の高木に対して所轄で高木の手足となって動いていたベテラン刑事だ。

『海藤関連であなたとタッグを組んでいた人ですよね。海藤関連の事件で彼の部下が殉職したと聞いたことがあります』

 ソートしたデータから、疑念が浮かぶ。

『信用していいんですか。俺も恨まれてると思いますけど』

《彼は真相解明を優先する、私の元上司だ。貴美子君の事件の時、告訴取り下げに裏があると踏んでお前を追尾し続けた私にストップを掛けたのは、彼だ》

『そう、だったんですか……知らなかった』

 一度だけ盗み見た寂しい頭髪の頑固おやじ風な刑事の見せた苦々しい顔を思い出すと、まだ幾分か不安は残るが、ほかに頼れるものが何もなかった。

『解りました。彼を訪ねればいいんですね』

《貴様はそこから動ける状況ではないだろう。今から彼に状況を説明し、出来るだけ早く対応するよう伝えておく。彼の細君ならば、克也君も少しは安心してくつろげるだろう》

 高木は言うだけ言うと、辰巳の礼の言葉もそこそこに、時が惜しいとばかりに通話を切った。

『相変わらずせっかちで合理主義だな、あの人は』

 思わず苦笑が漏れてしまう。笑える状況ではないのだが。

 恩を仇で返すという諺はあるが、仇を恩で返す高木という奴は、つくづく変わり者だ。自分は彼の妻を殺した男の息子だというのに、なんのためらいもなくこちらの言を信じて行動を起こし、正義の道をまい進する。


 加乃の言葉が脳裏に浮かぶ。

 ――だから辰巳はおぼっちゃんなのよ。

 加乃の言ったその意味が、今なら痛いほどよく解る。今の自分は、独りでは何も出来ない。加乃は自分よりも遥かに小さな頃から、一体どうやってこの幼い子を守って来たのだろう。

 克也の肩を抱く手に力がこもる。口惜しさに奥歯がぎちりと鳴った。

(加乃。克也を守る為に、俺はどうしたらいい)

 慕情と異なる意味で、強く加乃を求めた。




 翌朝、ホテルに小磯と名乗る人物が訪ねて来た。辰巳は克也が眠っている間にフロントまで降り、物陰から彼本人だと確認すると、彼に声を掛けて部屋へ招き入れた。

『こんなに小さな子なのに、えらい大変な想いをして……』

 小磯はそう言って克也のはだけた布団をそっとかぶせてやった。その人柄から、子供好きで人の好い、信頼出来る人物だとうかがえた。自分に向ける鋭い嫌疑の目は緩まないが、そのくらい慎重且つ優秀な人物の方が克也を預けるのに安心出来る。

『まずは自分達の生活を確保します。何かあればすぐ知らせてください』

 そう言いながら熟睡している克也を抱き上げた。

『待て、お前はどうするんだ。高木さんからはお前も一緒に、と言われている』

『克也があなたのところにいる限り、俺は逃げませんよ。自分で調べないと安心出来ない性分なんです』

 そう答えながら克也の手荷物が入ったボストンバッグを肩に背負う。

『こっちで段取りがつくまで待て。お前は家でこの子と一緒に』

『それが済んだら改めて克也を迎えに行きます。この子には二週間だけ待って、と伝えてください』

 ドレッサーのメモ帳に記しておいたホストクラブの電話番号を、その言葉とともに小磯へ手渡した。

『このどっちかに潜り込んで、稼ぎがてら情報収集をして来ます。いつまでもあなたに頼っていたら、あなたまで高木さんと同じ目に遭わせ兼ねない』

 部屋を出て階段を下り始めた辰巳を追う小磯の足音が一瞬止まる。

『……そこは俺にとっちゃ鬼門だ。きっちり二週間で帰って来ると約束しろ』

 舌打ちをする彼は、こちらの言いたいことを察してくれたようだ。彼の妻まで死に至らしめたくはなかった。

 倒したナビシートへ克也を横たわらせると、その額へ名残惜しげに口づけた。

『克也のこと、よろしくお願いします』

 辰巳は渋々運転席へ座る彼に深々と一礼し、走り去るふたりを見送った。


 小磯がもぐりの医者を知っていると言っていた。克也はそこで失語の治療を受けられるだろう。二週間もすれば、子供のことだ、きっとすぐ慣れて多少は彼らに心を開くと思われた。まずはこの辺りを探ることから始めなくては。

 辰巳はそんな甘い考えのまま、取り敢えず前へ進むことにした。不安を抑える原動力は、加乃が自分に託した、克也という存在そのものだった。彼女は、自分を信じたからこそ託してくれた。その自分に出来ないはずがない。そんな根拠なき自信が辰巳を動かしていた。




 潜伏先は“Eden”という名のホストクラブに決めた。もう一方はオーナーがゲイだった為、さすがの辰巳も身の危険を感じて採用を丁重に辞退した。

『久々の濁った空気っすね』

 辰巳の口からそんな毒舌と皮肉な笑みが零れる。採用初日の今夜は支配人に言われるまま、深紅のスーツにブラックのシャツの襟を開け、ノーネクタイでラウンジに入った。命令されるのは好きではない。だが、この店でそれなりの立場を確立するまでは大人しく指示に従うに限る、と割り切った。

 源氏名は「龍一」とつけられた。龍イコール辰と連想されたことで、一瞬自分の素性がばれたのかと冷や汗を掻いたが、この店は特に藤澤会系列との絡みがないと判り、そういう意味では居心地が悪くはなかった。

 閉店間際の未明、オーナーが店に入った。閉店後、辰巳は独り店に残され、支配人から事務所内にある私室へ行くよう指示された。過日の面接は支配人とトップクラスのホスト数名のみで行なわれた。オーナーとの絡みは書類選考だけだった為、これが初めての面接となる。

『失礼します。龍一です』

 お入りなさい、という声は、艶っぽい熟女のものだった。

『ようこそ、Edenへ』

 扉を開けると同時に、眩暈を起こしそうな強いフレグランスの香りで鼻を麻痺させられた。

『採用、ありがとうございます』

 下げた頭を上げながら形ばかりの礼を言う。視界に捉えた艶やかなカクテルドレスに身を包んだオーナーの女性は、

(これはこれで、面倒くさそうな女だな)

 という感想を辰巳に抱かせた。

『もう指名が入ったそうね。支配人から聞いたわよ。いろいろ事情がありそうということも』

 彼女は煙草を揉み消してソファから立ち上がると、不躾なほど距離を詰めて辰巳の前に立ちはだかった。

『面構えがいいだけの男なら幾らでもいるけど。多少のリスクを負ってでも、プラスアルファを持つ男を育てたい。……なんて思う私は、経営者として失格かしら』

 尖った彼女の赤い爪先が辰巳の顎に食い込み、彼女を無理やり見下ろさせる。彼女の自信過剰は、いかにも作り物と判る安っぽい整形でごまかした豊胸の産物なのか。いずれにしても、彼女は辰巳にとって食指の動かないタイプだった。

 狩人の瞳に微笑で答える。

『プラスアルファを見抜いて戴けて光栄ですよ』

 視線を決して逸らさないまま、彼女の腰に腕を回す。

『ホストとして育てるだけで、満足出来ますか』

 スリットから覗く大腿に膝を伝わせ割り入ると、彼女の瞳が狩るものから獲物のそれへと変わった。

『……どうせ話した事情も嘘、なんでしょ』

『うん。それをネタに下僕扱いも癪だしね』

 敢えて敬語を取り払う。頼りないストラップを彼女の肩から顎を使ってするりと落とした。

『じゃあ、ここで、何を……したい、の』

 自慢の胸に口づけても形ほどの抵抗もない。上がる吐息に彼女の陥落を確信した。

『ビジネスの話は、もうその辺で終わらせていいかな』

 潤んだ瞳で見上げる彼女の耳許へ唇を寄せて甘く囁く。

『垢抜けないホストしか知らないアナタに、いろんなことを教えてあげる』

 彼女を射落とす形で、この店での自由を手に入れた。

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