第一章 喫茶『Canon』の裏稼業 2
辰巳は事務所のソファに客を促すと、『海藤辰巳興信所』と記された名刺を差し出し、客に改めて自己紹介をした。
「改めまして、所長の海藤辰巳と申します。といっても、自分とこの子しかいないんですけどね」
辰巳はそう言って苦笑しつつ、克也にも目で自己紹介を促した。
「アシスタントの海藤、克美、です」
ぺこりと小さく頭を下げる。どうしても、この名前を口にしづらい。それでも、促されたことで沈んだ気分も相殺される。今回は手伝わせてくれそうだから。
「まあ、ご兄妹さんですの? 妹さんは家の子達と同い年くらいかしら。お手伝いなんてしっかりしていらっしゃるんですね」
依頼人の女性が一瞬だけ頬を緩ませて克也を見た。ほんのひとときでも彼女の不安げな表情を和らげたのが自分だと伝えてくれているようで、なんだか少しこそばゆい。
「働かざる者食うべからず、が我が家の方針なんですよ。すみません、世間で思われている興信所のイメージとあまりにもかけ離れているので驚かれたでしょう?」
そんな柔らかな口調でお客の訝る表情をほぐす辰巳が、伊達眼鏡を外してテーブルへそれを無造作に置く。その隣へ克也がノートパソコンを置き、裏稼業へのシフトチェンジを完了させた。
「え、ええ。あ、いえ」
ほんのりと頬を染め返答を二転三転させる依頼主を見て、ちょっとした嫌悪感を抱いてしまう。それは彼女に対してではなく、自分の面構えにそれなりの自信がある上で釣る、という見方も出来る、辰巳の顧客確保のやり方に対してだ。
「個人でやっている手前、そうたくさんの仕事をこなせないものですから」
彼女の仕事に対する不安げな表情を受けて魅惑の笑顔でそう説明する辰巳に対し、その過剰サービス振りに閉口した。
彼女の名は、渡貫妙子。四十三歳。夫はゼネコン勤務で、一男一女を持つ四人家族。
依頼内容は、子供達の素行調査。高校生になる二人の子供達が、不自由をさせてもいないのにバイトをしたがり悩んでいる。最近の高校生は大人顔負けの非行に走るという報道を見ていて不安を感じてしまった。彼らにバイトをしたい理由を訊いても答えず、最近は帰宅も遅くなった。数日前、親に隠れてバイトをしていることが判り、バイトに拘る理由を問い詰めたが「別に」の一点張りで埒が明かなかったらしい。
大事に至る前に子供達の行動を把握し、事件や事故を未然に防ぎたい、というのが彼女の意向だった。
「最近の子は、私どもの時代では考えられないようなことを平気でするので、どうにも不安で」
彼女は最初の内こそ、辰巳の隣に腰掛けて一緒に話を聴いている克也を気にして冷静に話していたのだが。
「……すみません、こんな些細なご相談で心苦しいのですが」
と、とうとう感極まって涙ぐみ、目頭をハンカチで押さえてしまった。
辰巳は幾つかの質問のあと、後日見積を送る旨を申し添えるだけの形で依頼に関する話を締め括った。
「ところで今日入荷したばかりの新しい豆があるんです。気分転換に一杯、いかがです?」
毎度のことながら、思わず隣を凝視する。
(すげえ、嬉しそう……)
その横顔は、誰がどう見ても「何でも屋よりも喫茶店の方が好き」と強く主張している笑顔だった。
喫茶『Canon』は、午後三時を過ぎた辺りからちらほらと学生の客が来店し始める。
カウンター席で勉強をする人、テーブル席を陣取り、チーズケーキセットのワンオーダーだけで数時間喋り続ける女子高生の集団、ここをデートの待ち合わせにして、合流してからもそのままここで甘い時間を過ごす高校生と大学生のカップルなど。
そして中には『マスター』に相談を持ちかけて来る子達もいる。そんな時は自然と常連同士で気を利かせてカウンター席を遠慮したりするのだ。
「オーレ、サントス、オールワン、チーズケーキ、ツーでーす」
克也がホールからのオーダーを口にしながらカウンター席に戻ると、ちらりとこちらを見る視線が二人分。それとなく視界の隅でそれを捉えると、ついさっきまで辰巳と何やら話の弾んでいた二人の学生が、克也の行き過ぎるのを待っているようだった。
「了解。んじゃ、克也は奥のチーズケーキを見ておいてくれる?」
辰巳がそう言って、意味ありげな視線を克也に送って来た。
(つまり、お邪魔ってことなんだな。……依頼、かな?)
「らじゃ」
克也はそう返事をして、再び事務所へ戻った。ドアの向こうから、辰巳と彼らが話す声が聞こえていたが、声が遠過ぎて内容までは克也の耳まで届かなかった。
あとで辰巳が教えてくれたのは、ほこりとしたぬくもりを感じる優しい小さな『依頼』だった。
優しくて甘くて、そしてちょっぴり羨ましい気もするその内容は。
「――それで、バイトは今日で終わったんだろう? 家の売り上げに貢献してくれるのかな?」
「なーんでだよっ。母さんへのクリスマスプレゼントを買うに決まってるだろ」
「そうそう。結構な金額になったからねっ。『Canon』に貢献って、どれだけチーズケーキを食べなきゃいけないのよ」
「よかったら特別価格にしておくから、家でパーティー、なんてどうでしょう? 渡貫御兄妹サマ」
辰巳はその兄妹にそんな提案したのだ、と悪戯な瞳で笑って教えてくれた。
「辰巳はお人好し過ぎ。ばっかみてえ」
クリスマス・イブの夕刻、片づけながらぼやく克也のそんな声が閉店後の店内に虚しく響いた。辰巳は相変わらず笑って克也をやり過ごそうとしている。
「本当は自分だけ知らなかったのが悔しいんでしょ」
図星だったその一言が、あっという間に克也の頬を膨ませる。そのまま食器を洗っている辰巳の横に立ち、お湯の出ている蛇口を指で塞いで飛沫を飛ばしてやり込めた。
「ぶはっ! なーにすんだ、このお子さまっ」
辰巳はお湯で見えなくなった伊達眼鏡を外し、文句を言いながら眼鏡についた水滴を拭き取った。
辰巳は渡貫夫人になかなか見積を送らなかった。迅速に対応する彼にしては珍しい。克也は、てっきり辰巳が自分をこの案件に使うべきかを悩んでいるとばかり思っていた。だが彼は一向に調査計画を立てず、店の落書き帳ばかり読んでいた。それからしばらくして、あの渡貫兄妹をカウンター席に呼んだらしい。
「あの子達に相談を持ち掛けてみたんだ。『克也がほかでバイトをしたがっているんだけど、理由を訊いても言わないんだ』ってね。そうしたらあいつら、喋る喋る」
辰巳はそう言って大笑いした。まっすぐに育った子は素直だね、となかなか笑いが止まらない。そしてその依頼をよい結果で完遂させることができた、と辰巳を満足させていることがその様子から伝わって来た。
辰巳を温かな気持ちにさせるほどの、彼らが辰巳へ暴露したその内容。
綿貫夫人が義理の母親であること。よい母親であろうと必死過ぎて、見ている子供達の方がうんざりしていたこと。夫人の愛情は子供達に痛いほど伝わっているのに、それが夫人自身に伝わっておらず、兄妹は彼女が落ち込んだり心配してばかりいるのを歯痒く思っていること。
親として認めているという気持ちを解って欲しくて、自分達の力で稼いだお金を使ってプレゼントを贈る計画を決行したのだ、と誇らしげに話していたらしい。
「だから克也も自分達と同じ気持ちなんじゃないか、って。まさか高校生にお説教をされるとは思わなかったね。俺が克也をここで見張って外に出してあげなさ過ぎ、心配性過ぎるんだとさ」
辰巳はそう言って苦笑したかと思うと、不意に神妙な顔をして俯いた。
「まあその何だ……ごめんね。克也をダシにしちゃって」
いつもの、あの気を遣う困った笑みを克也に向けた。見ているこちらが寂しくなる、距離を感じてしまう笑み。
「だぁー、もうっ。それはいいの。そうじゃなくってさ」
克也の嫌いなその表情。一瞬釣られてこちらの眉根にも皺が寄る。今日くらい、苦手な空気は勘弁したい。だから容赦のない毒を吐いてそんな雰囲気を掻き消した。
「ボクが呆れているのは、折角渡貫の親父さんが報酬を払うって言ってくれたのに断っちまったことの方!」
思惑通り、辰巳の顔が途端に批判がましい表情に変わり、克也を相手に弁解をし始めた。
「だって全然調査してないし、契約だってしてないもん」
そして克也に眩暈を感じさせる留めのひと言。
「そんなに新しい服、欲しかったの?」
果てしなく方向違いな一言をのたまう辰巳の楽観さが、克也を歯痒さの頂点に突き上げた。
「ちっがーうっ! 今月のアパートの家賃どうするんだよ! 今月は年末だから早めに入金してくれ、って大家さんが言ってたじゃないかっ」
「あ、どうしよっか……」
やっぱり全然考えていない。克也は自分で言い出したその言い訳で、本当に支払いが心配になって来た。今月はそんな大家の要望に加え、学期末テストの所為で学生客がいつもより少なかった。
「今月は収支がギリギリなんじゃないの。どうするんだよ」
そんな義妹の憂いを知ってか知らずか、辰巳はのん気に
「大家さんにチーズケーキでもプレゼントしたら、来月まで待ってくれるかなぁ」
と、出来立てのワンホールを掲げ、涙ぐんだ顔をして克也に問い返して来た。
「知るか」
本当は、今月のバイト代は何が何でもいただくつもりでいたけれど。辰巳の自業自得だと自分に弁解し、彼へのクリスマスプレゼントを買うのは諦めた。
「もう。今月のバイト代、ツケにしといてやるから払って来いよ」
「う。すまん」
吐き出すように代案を提示すると、辰巳はボーイのようにワンホールを掲げたまま、がくりとうな垂れて謝った。それから残りの片付けを克也に託すと、チーズケーキを片手にしょんぼりと店のドアをくぐって出て行った。
「ま、渡貫親子が仲直り出来たし、よしとするか」
克也は諦めと満足感の入り混じる複雑な心境で、独りぽつりと呟いた。