第七章 高木の煩悩 2
高木が顔面蒼白になる驚きは、それで終わった訳ではなかった。
アパートに帰宅すると、克也が当たり前のように辰巳と“お帰りのキス”をする場面を目の当たりにし、例えでなく卒倒することから始まった。
「た、高木さん!?」
「まただよ、この人は……」
失いかけた意識の向こうで、そんなやり取りを聞いた気がする。
「お、お前達は日本人だろうっ。なんなんだ、その珍妙な挨拶はっ」
高木にしてみれば信じ難い習慣だった。ここは日本だ。しかもそんな、人前ではしたない。高木の発したその言葉に、辰巳ではなく克也の方が怒髪天を衝いた。
「珍妙って、はしたないってなんだよ、その言い方っ。加乃姉さんを侮辱するなっ。絶対高木さんにはしてやんねー!」
「要らん!」
「だから人前でしちゃダメだって言ってるのに」
「ちくしょー! 高木さんのこと、いい人だと思ってたのにサイテー!」
「あのちょっと克也クン、ねえちょっと聞いて、って、こら目上の人に掴みかかるんじゃないのっ」
高木が意識を取り戻すなり、彼らの居室にそんな三人三様の主張が飛び交った。一体辰巳はこの子にどんな躾をして来たというのだ。辰巳に対するそんな憤りと、そんな彼に克也を任せた自分に対する自己嫌悪が高木の中でせめぎ合う。そもそも、まだ若い辰巳に克也を任せた自分に責任があるのかも知れない。
だがそんな殊勝な思いも、高木と克也の間に挟まってのん気に自分達をなだめている男のへらへらとした顔を見るなり消え失せた。
「まあまあという話ではないだろうがっ」
「何他人事みたいになだめてんだよ! バカ辰!」
克也の言い分に異論は皆無だ。辰巳は変なところで鈍感で抜けている。ある一面で辰巳は大馬鹿者だと高木も常々思っていた。
辰巳は高木に苦笑を投げ掛けると、
「加乃と克也の家族の在り方なんですよ。まだ性的には未熟な子を相手に、そういう刺激をしないでやってくださいよ」
と譲歩を求めて来た。“家族の在り方”という不思議な定義に、新たな疑問が湧いて来る。そんな取り決めがないと薄れてしまうものではないだろう。加乃と克也は実姉妹のはずではないか。そんな疑問が高木に浮かぶ。
「ほら、克也も口が過ぎたでしょ。ちゃんと謝るっ。目上の人への口の利き方じゃなかったよ」
渋々と、克也は「言い方だけは」という部分を強調しつつ、謝罪の言葉を口にした。彼女は辰巳に促され、そのままビールを取りにキッチンへと立ち去った。
彼女に声が届かないことを確認すると、辰巳はこちらが問うまでもなく、先ほどの疑問の答えを語った。
「加乃がよく言ってたんですよ。身体は商売道具でしかない、本能で幾らでも交われるけれど、キスは愛情を持てる人間にしか出来ない行為だ、って。義務教育を受けられなくて語彙の少なかった彼女達にとって、そういうことで心の結びつきを伝えるしか術がなかったんじゃないですかね。あとづけで学んだ言葉よりも、そういうことで伝える方が実際に克也も安心してくれましたし。年の割にお子さまなんで、恥ずかしいという概念がないんですよ、まだ」
辰巳は「あと一秒我慢出来たら、高木さんも克也の“ちゅう”がもらえたのにね」と、悪戯な瞳を向けて笑った。
「……性に合わん話だ」
高木らしからぬ真っ赤に染まったその顔を見る度に辰巳が笑うので、高木はどうにも居心地が悪い。先ほどから緩みっぱなしになっている辰巳の口許が、妙に小憎たらしく感じられた。
まだ機嫌の直らない克也がビールとつまみを運んで来た。高木はオレンジジュースが入っているグラスを克也から奪い、それを一気に飲み干した。呆れた顔で目をぱちくりさせている克也の前に、未使用のグラスを取ってぐいと差し出す。
「克也君、今日は無礼講だ、君も飲みたまえ」
「へ? ボクってまだ未成年でしょ? 高木さんらしくない」
高木は「言葉で伝えられないもどかしさ」という感覚がどういうものか、その瞬間少しだけ解った気がした。返す言葉を探しあぐね、無言でもう一度グラスを差し出した。
言葉が拙いというのは、それを補おうと心の機微に敏くなるのだろうか。高木にそんな感傷を抱かせるほど、克也が華やかな笑顔を見せた。
「わーいっ、じゃあお言葉に甘えて」
言うなり自らグラスにビールを注ぎ、高木と辰巳のグラスにもなみなみと注ぐ。笑いを噛み殺す辰巳を尻目に、最年少の癖に彼女が仕切って
「再会を祝してーっ、乾ぱーいっ!」
と、いの一番にグラスのビールを飲み干した。
これは翌朝に辰巳の悪趣味な盗聴録音で聞いた克也との会話であるが、高木にはその記憶がないので醜態を晒したという実感がない。辰巳がいつまでも腹を抱えて
「いやぁ、俺、克也が笑い上戸のキス魔ってことと、高木さんが泣き上戸の説教魔人って初めて知りましたよ。もう、最高っすよ。聞かせてあげる」
と再三ネタにするので、取り敢えず裏拳で殴っておいた。
『克也君、いや、克美君、まず、その呼び名がいかんのだよ。名は体を現す、と言ってだな』
『にゃはははぁ、それ、さっきも言ってたぁ』
『む? そうか? そんなに私はもうろくしたか……そうか……』
『ぎゃははは! すっげーっ、高木さんが泣いてる! おっもしれぇ!!』
『言葉遣いも改めたまえ! 女の子は“すげえ”などと口汚い言い方をしないものだっ』
『もー、高木さん、可愛いからちゅーしちゃうーっ』
『ぬお、やめ……っ!』
カチリ、と無言で再生ボタンを止めた。軽い眩暈が高木を襲う。
「とうとうされちゃいましたねえ」
とからかう辰巳を取り敢えずもう一度殴り飛ばし、当該ボイスレコーダーは没収の上、克也に持って来させた金槌で大破した。
二人が朝食を作ってくれるという。リビングで新聞を広げてそれを待つ。下世話な話だと思うのに、キッチンから漏れ聞こえて来る二人の会話を気にしてしまい、新聞記事に意識を集中することが難しい。昨夜のことがまた高木の脳裏を過ぎり、深い溜息を一つつかせた。
高木がどうにも気になり始めた発端は、昨夜たまたま目にした辰巳の不可解な行動と、そのとき彼が浮かべた、言葉では巧く表せない表情だった。
最もうるさかった騒ぎの元凶が酔い潰れ、ようやく宴会が終わったのは日付が変わってからのことだった。辰巳は高木に酔い覚ましのカフェ・オ・レを出した。その頃にはアルコールで混濁した高木の思考もはっきりとした状態に戻っていた。
辰巳はそのまま眠り呆けている克也を抱え、彼女の部屋へと運んでいった。
(余計なお世話だとは思うのだが)
辰巳にとって、克也がどういう存在なのか、計画への影響という意味で気になった。失敗が許されないだけに、辰巳の迷いや心残りになるものは、一つ残らず払拭しておきたい。そして克也次第ではまた別の選択肢――辰巳を外す、ということも考慮する必要があるのではないか。
高木は彼らと過ごした一両日の中でそんな憂慮を抱き始めていた。克也が独立するには、まだ年齢の割に精神面があまりにも幼過ぎると感じられた。
『遅いな』
高木は手持ち無沙汰も相まって、なかなかリビングに戻らない辰巳を呼ぼうと克也の部屋へそっと足を忍ばせた。
ベッドサイドの間接照明が、仄かに二人を映し出す。
安心し切って眠る少女の傍らで、宝物を愛でるようにいつまでも眩しげな視線を送る男が、彼女の髪をそっと撫で続ける。その場を立つのも名残惜しそうな顔をして、彼は彼女の額にそっとお休みのキスをした。
どうにも、“見てはいけないもの”を見てしまったような気がする。高木は、まるで他人の情事を盗み見てしまったような罪悪感に駆られた。だが、不意にその理不尽な罪悪感が憤りにすり替わる。別に、他意はなかった。何故自分がこんな想いをせねばならんのだ、と。別に盗み見をしたのではない。自分へそう証明するかのように、高木は敢えて声を掛けた。
『……それは完全に“家族のキス”とやらとは違うようにしか見えんのだが』
入り口の壁に寄り掛かり、彼が向けるであろう非難の目から逃げるようにカフェ・オ・レをすすった。『お、美味い』と思わず賛美の声が口を突く。彼は高木の声に振り向かないまま、小さな声で呟いた。
『妹、ですよ……加乃の』
同時に毅然と立ち上がる。先ほどとは雲泥の差と思わせる振り切りようだ。
『でなきゃ、とっくに“色好きのぼんぼん”で悪名高い俺が、食ってない訳ないでしょ』
こちらに向いたポーカーフェイスが、不遜な口調で高木を弁を否定した。高木は、初めて会った時から気付いていた。辰巳が表情を隠す時ほど、自分は核心に触れている。
『もう二度と泊りでは来んよ。まるで、新婚夫婦の邪魔をしに来た無粋者になったような気分になる』
高木はそう言うと、彼の反応を待たずに寝室の扉をパタンと閉めた。
(まったく……)
海藤の件は、辰巳に手を下させないよう、シナリオをこちらで変えて行く方向で再検討をしなくては。可能かどうかは定かでないが、出来ることなら彼の計画参加を回避したい。辰巳というよりむしろ克也の為に。
「これ以上あの子に失う辛さを味わわせたくは、ないな」
歯痒さに爪を噛む。新聞はいつの間にか無意識にたたんでテーブルの脇へ戻していた。
男女のことに疎い高木でもあからさまに解る二人の絡み合う視線。その内訳がようやく解った気がする。当の本人達がそれに気付いていない辺りが、ある意味では救いだが。
「やはり私の失敗か……くそ」
過去の契約を今更ながらに悔やみ、また爪を噛んでいた。