第七章 高木の煩悩 1
――それは“家族のキス”とやらとは違うようにしか見えんのだが。
もう二度と泊りでここへ来る気にはならん。まるで、新婚夫婦の邪魔をしに来た無粋者にさせられた気分だ――。
「唐突に休暇をもらっても、困ってしまうだけなのだが」
滅多に自宅に帰ることのない高木は、久々の休暇を持て余し、しばし途方に暮れていた。
警視長が妻の祥月命日を覚えているとは思わなかった。
『仕事に逃げるもいい加減にして、命日くらいカミさんの墓参りに行ったらどうだ』
逃げている訳ではない。身重の妻を事故と見せ掛けて殺した海藤を追い詰めるのに専念しているだけなのだが。
社宅を寝るだけの場所にしてから早十年。元々反対された上での駆け落ち結婚だった手前、妻の実家からは喪主さえ務めさせてもらえなかった。特に出掛ける宛も気もなく、実際に部屋で過ごしてみれば存外の苦痛だった。日頃はリビングのソファで寝てしまう。特に寝室へは足を踏み入れない――否、踏み入れられなかった。
包装さえ解いていない帰省用のマタニティ・ドレス。埃を被ったままのベビーベッド。片付けるには未練があり過ぎ、それを見るには傷がまだ膿み過ぎていた。
(五日もこの部屋に居たら、気が狂いそうだ)
考えた末に、高木は軽い旅支度をした。洗面台に立った時、いつもの癖でオールバックにし掛けたが、ふと考え直して手を止めた。
(何もオフの時まで、必要はないな)
部屋に戻ってスーツを脱いだ。代わりに身につけたのは、ベージュのチノパンに紺のポロシャツ。生成りの麻ジャケットを羽織り、ボストンバッグを持ち直した。洗いざらしの長い前髪が、憂いだ瞳を隠してくれる。高木は普段の出で立ちとは違う、ラフな恰好で自宅をあとにした。
松本駅に降り立つと、駅員に尋ねて正面改札口を通り抜けた。辰巳が言っていた“松本城を乗せたポスト”は、探すまでもなく階段を降りたすぐ目の前で激しく自分の存在を主張していた。
日頃の任務では電車に乗る機会など殆どないので、三十路も半ばを過ぎると腰に堪える。腰を伸ばそうと大きく伸びをした時、何かが自分に向かって突進して来る気配を感じはしたが、あまりの俊敏さに避け損ねた。
「ぬぉっ!?」
「たっかぎさーんっ、久し振りーっ! って、あれ? 高木さん、縮んだ?」
突進して来た俊足は、あの小さかった克也らしい。インターロッキング舗装へダイレクトに尻もちをついた高木は、心底不機嫌な顔をして、
「君が成長しているんだよ」
と克也の間違いを訂正した。
「あは、そっか」
そう言って満面の笑みを浮かべる姿からは、八年前の憔悴し切って怯えた瞳をした、あの小さな子供と同一人物には思えなかった。
「言葉が出るようになったんだな。……本当によかった」
その笑みに釣られたのか、高木にも滅多に見せることのない微笑が浮かぶ。ついほころんでしまった照れ臭さから、懐に飛び込んで来た克也の頭を子供をあやすようにわしゃわしゃと掻き撫でた。子供相手だから致し方なく笑みを返してやっているのだとでも言いたげに。
辰巳が彼を慈しんで育てていることが解る、人を信じる気持ちを知った表情。それに、心から安堵した。妻に続いて、あの頃あんなにも幼かったこの子まで救えなかったとあれば、刑事を目指した意味がない。自分が微力ながらも誰かの役に立てたことを今の克也から実感し、高木が助けたかつての子供に、高木こそが救われた気分になった。
「いらっしゃい。いつまで座り込んでるの」
小憎たらしいデカブツの方にそう声を掛けられると、高木は彼に差し出された手を借りて身を起こした。
「突然休暇が出来てな。たまにはオフで来るのも保護者の務めと思ってね」
高木は辰巳にそんな憎まれ口を返しつつも、初めての仕事がらみ抜きの時間を妙に心嬉しく思っていた。
「しかし、二人して店を空けてしまって構わんのか?」
「休みに決まってるっしょ。天下の高木警視正がお出ましなんだから」
「やめろ。今日は、高木徹という個人として友人に会いに来ただけだ」
高木の意外な言葉に、辰巳は少々面食らったようだ。かく言う高木も、自然と口から漏れた己の言葉に愕然とする。
「……気色悪っ」
「……私も今、自分でそう思った……」
そんな二人のやり取りを、間に挟まれた克也は羨ましそうな顔をして聞いていた。
辰巳は高木を松本城に案内した。克也はひねくれ者同士の再会に気を利かせ、
「先にアパートへ帰って、高木さんの布団を用意しておくよ」
と帰って行った。ホテルを取ってあると言ったのだが、
「それじゃあゆっくり飲めないでしょ」
と大人顔負けの気配りで、二キロはあろうに、もと来た道を元気よく走って戻って行った。
「随分一人で何事も出来るようになったのだな。あの頃はお前に張りついて、周囲に怯えてばかりいたので気掛かりだったが」
走り去る後ろ姿を見て、気の緩みからつい本音が口を突く。自分より頭ひとつ分大きな『戦友』が得意げに自分を見下ろし
「保護者の献身の賜物ですよ」
と自慢するので、大人げない意地悪な言葉が出てしまった。
「その保護者を保護しているのは、私だ」
辰巳は一瞬きょとんとした表情で高木を凝視したが、「ぷっ」と噴き出し
「三十路前のおっさんを捉まえて、もう保護者はないでしょ、高木さん」
と高木の大人げなさを笑った。高木は、ごもっとも、と頭を掻くしかなかった。
「アルプスが一望出来るんですよ、ここ」
松本城の天守閣から眺めるアルプスは、辰巳のいうとおり絶景だった。幸い好天に恵まれ、常念岳を視点の中央に、アルプスの峰々の描くラインが美しく青空に映える。高木も「ほぉ」と同意の感嘆を漏らした。
「ビルが立ち並ぶ街の中では、この絶景が見れないんですよね」
と少し寂しげに辰巳は言う。雑踏の中では、東京もここも変わらない、と。
「それでもここは、東京よりは平和でのんびりとしてて落ち着きますよ。都会ほどでかい事件もないですしね。田舎ならではの過剰な干渉が煩わしいこともあるけれど、それだからこそ、人の目が抑止力になって、大きな犯罪がそんなに起きない。――高木さん、何かあってここに来たんでしょ」
辰巳はやんわりと訪問の理由を問うた。
「いや……上司が特別休暇をくれただけだ」
家に居ても退屈でな、と差し障りのない返答をしたつもりだったのだが。辰巳の瞳に悲痛な色が宿った。
「そっか……十年、でしたね、奥さんが亡くなってから」
すみません、と俯き加減で謝る辰巳に、
「お前が謝ることではないだろう」
と笑って彼の肩に手を置いた。一時は辰巳の差し金だと疑う時期もあったが、今ならば解っている。辰巳は海藤の手足に過ぎなかった。この男があの当時妻への策略を知っていれば、間違いなく阻止したはずだ。何よりも、あの頃出頭して来た彼の部下、赤木信司が証拠とともにそう証言した。
(その赤木も、海藤の策に嵌められて自殺へ追いやられてしまったがな)
不意に十年前から積もり積もったモノが高木の眉をひそめさせた。
今の自分にとって、辰巳は同志ではあっても、決して仇ではないと信じられる。必然的に、かつて彼と結んだ計画の内容が連想された。
「あと二年で、克也君も二十歳だな。……そのあと、どうするつもりだ」
克也を見た瞬間に高木は覚った。八年前の秘密の計画を遂行するには、今の彼らは互いに情が移り過ぎている。下地の協力さえもらえれば、何も辰巳を最前線に引っ張り出す必要はないのではないか。来栖翠の一件以来漠然とそう考えて始めていた高木は、改めてその判断が正しいのではないかと思えて仕方がない。
そんな高木の想いを知ってか知らずか、辰巳は即答で
「どうもこうも、計画通り、ですよ。時期に若干の狂いが出るかも知れませんが」
と無表情で答えるだけだった。『狂い』とは、来栖翠の件だろう。克也の後々を憂慮しているのは、あの事件以降の翠への対応で嫌でも解る。直接克也と翠のありようを目にしていないので確証には至らないが、辰巳がこれほど拘るということは、克也にとって翠とは相当に大きな存在と思われる。
辰巳はそれ以上語りたくないのだろう。顔を上げると明るい表情で、その話題を避けるように高木を食事に誘った。
「めちゃくちゃ美味い穴場のカレー屋があるんですよ。克也は辛いのが苦手でなかなか行けなかったんですよね。付き合ってくださいよ」
そう言うと辰巳は一足先に踵を返し、天守閣の階段を下っていった。
昼食を済ませてから再び駅へ戻り、高木の荷物をロッカーから引き出した。その足で辰巳に喫茶『Canon』へ案内された。
「ここが俺らの新天地」
辰巳は、からん、と心地よいベルの響きを立てて入り口のドアを開けると、高木を店内へ促した。
「ほぉ。懐かしい雰囲気の店だな。北の田舎を思い出す」
高木は木目調で統一された店内の雰囲気に、昔登った蔵王の山小屋を思い出し、そんな感想を口にした。辰巳はそんな高木にこの店を譲り受けた経緯を話した。
「元々俺がこの店の客だったんですけどね。マスター親子がいい人で。俺はマスターにいろいろ教えてもらったし、克也はマスターの娘さんに人付き合いを教えてもらってたんですよ。娘さんの高校進学をきっかけに上京したんですけど、その時に『店をたたむのは忍びないから』って、俺にこの店を譲ってくれたんです。お客ごと」
そう話す辰巳の表情は、今まで見たこともない穏やかな表情をしていた。何かと存在自体が目立つ男のはずなのに、その長身も派手な顔立ちも霞むほど、平凡で地味な辰巳がそこにいた。彼の最も望んでいたものが、ここには慎ましやかに存在していた。辰巳はそれを証明するように
「店にも人柄が出るんですよね。客もそれに合わせていい客ばかりが来てくれる」
と、前店主の恩恵に感謝していることと、客の人柄の良さを自慢した。
高木は中央の大テーブルに置かれた白い表紙のノートに目をやると、何げにページを繰って閲覧した。
「なんだ、これは」
「子供達の落書き帳ですよ。普段は午後になると高校生や大学生の溜まり場になるんです」
高木にエスプレッソを用意しながら辰巳が答えた。
恋愛相談や捨て犬の飼い主募集の話、なかなか面と向かっては言えない誰かへの感謝の言葉など、ペンネームもあれば連絡先を明記している実名らしきそれもある。それはまるで。
「片田舎の交番を守る人の好い巡査のようだ」
高木はそう言ってくつくつと喉を鳴らした。
「えー、ガッコの先生とか、そういう発想はないんですか」
「お前が教師なんぞになったら社会が乱れる」
「酷い」
そんな他愛ない話をしたのは、一体何年振りだろう。それすら思い出せないほど、海藤の存在が自分を侵蝕していると痛感させられた。
ふと気付いた名前に疑問が生じる。
「克美というのは、店の者か? 珍しいな、他人を頼るなんて。信用出来る人物なのか」
その名の多さがあまりにも目立っていた。
「あ、そっか。高木さんに話してなかったんだっけ」
引っ掛かる物言いに、高木は訝る視線をノートから辰巳に移した。信州へ逃亡する前から既知の信頼出来る者がいたのなら、何故最初に伝えなかったのか、という不快感も若干伴う。それであれば、何も小磯を信州に送り込む必要などなかったのに。有能な部下を手離した未練が、そんな不満を抱かせた。
だが辰巳から返って来たのは、あまりにも想定外の答えだった。
「克美って、克也のことですよ。あいつ、本当は女の子なんです」
「…………何っ?!」
高木の手から、白いノートがばさりと落ちた。
言われてみれば、合点の行く点が幾つかある。先ほどタックルを掛けられた時、その年頃の男子にしては随分軽いと思ったが、女子だというのなら合点がいく。面差しが中性的なのも、自覚と肉体的な差の産物かも知れない。まだ変声期の途中なのかと訝んだアルトも、女性であれば納得がいく。だがしかし。
「ちょ、ちょっと待て。整理をさせろ。誰が克也、いや克美君を男として育てたんだ? 何故? 彼、いや彼女は自分の性別のことについて疑問は」
「ストーップ、高木さん、一度に質問し過ぎ。つか、何をそんなに動揺してんの」
四角四面でくそ真面目と揶揄されている高木にとって、それはあり得ないむちゃくちゃさだった。くそ真面目、そう思う者には思わせておけばいいとは思っているが、この件に関してだけは話が別だ。相手は子供だ。一種の児童虐待とさえ感じる。ただでさえあんな想いをしたというのに、自分のアイデンティティにまでゆがみを持たされるなんて。子供を守るべき大人として、許し難いことだと高木は辰巳に目で訴えた。
「お前がそう仕向けたのか」
「違いますよ。加乃が売春宿に住んでいたのは知ってるでしょ。女だとばれたら客を取らされるから、やむを得なかったの。ちゃんと説明もしてるし、今は極力自覚を持たせるように働き掛けはしてるけど、無理強いして今の克也を否定したら、彼女のアイデンティティが崩壊しちゃうでしょ」
辰巳にしては珍しく、焦った様子で口早にそう説明した。その様子から、自分が彼に噛みつくような視線を投げていたことに気づき、高木は柄にもなく感情に振り回されている自分を恥じた。
「大丈夫。去年辺りからようやくスカートを履く気になる程度には、受け容れ始めて来てるから」
「む……ぅ……。まあ、なんだ。筋はとおっているようだし、私がとやかく言うことではなさそうだが……」
どこか釈然としないながらも、不承不承苦言の口を閉ざすしかった。興奮のあまり乱れ落ちた前髪を掻き上げ、一つ大きく深呼吸をした。荒ぶった気分を静めたところで辰巳に目で促され、ようやくカウンターへ腰を落ち着けた。差し出されたエスプレッソを片手に、
「手を出すなよ」
と、辰巳を鬼のような形相で睨みつけて、念の為釘を刺すことだけは怠らなかった。
「冗談っ。俺はおねーさんが好みなのっ! 俺にだって選ぶ権利くらいあるっしょ!!」
形勢逆転、と言うべきか。辰巳が面白いくらい見事な反応をしたことに、高木は自分の優位な状況を覚る。辰巳は信頼に値する戦友であると同時に、唯一自分を苦心させた好敵手でもある。まさかこんな下らないことで自分の優越感を満たせるとは思わなかったが、オフの時くらい遊んでみてもいいだろう。
「何故そんなにムキになって否定する」
「いや別に……あんまり高木さんがムッツリスケベな妄想してっからつい……」
「誰がムッツリスケベだ、失敬な」
そんな喧嘩腰の会話をしながらも、実はそう心配をしてはいない。高木は、一口エスプレッソを口にした途端、その話題を忘れるほどに感心した。
「ほぉ。意外な一面を知ったな。美味い」
水が澄んでいるとコーヒーもここまで美味く淹れられるものか、と憎まれ口を叩くコーヒー党に、
「俺の腕がいいんですよ」
と、マスターはしれっと自賛した。