第六章 意地悪ばあさんの胸の内 2
ある日突然辰巳が言い出した。
「明日からは一人でよろしく」
「えー、自分が引き受けといて、きったねえ」
と文句を言う克也に
「とか言いながら、ホントはもうさほど嫌じゃあないんだろ?」
と見透かす答えが返って来た。あっさり認めるのも癪に障るので、少し困らせてやろうと口を開き掛けたが。
「克也は多美子さんにどう対応したらいいのか、本当はもうとっくに解ってるんでしょ?」
畳み掛けるように続けた辰巳の言葉と、目を細めて向けて来るまばゆげなまなざしに黙らされた。
克也は辰巳のこの信頼し切った瞳に弱い。
「行きゃいいんだろ、行きゃ。要は別に介護だなんだってのと関係なく、普通に接してれば大丈夫ってことなんだろ」
克也は抵抗を諦め、以降の方針を確認した。辰巳は店に来る女子高生のお客が見たら卒倒しそうな笑みを零し、「BINGO」と克也の頭を嬉しそうに撫でた。
「んで、辰巳はどうするのさ」
幼児扱いされた気がして、ついその手を払い除ける。
「俺は介護施設の取材と、それをデータ化させて、久美子さんへの提出資料の準備に入るよ」
辰巳はその理由を私見混じりで克也に話した。
久美子は一見優しい娘だが、完璧過ぎるが故に、多美子から張り合いを奪っているとも言える。そこから来る心の弱りが体と連動しているのではなかろうか、と。
「確証に見合うソースを取ったら久美子さんに打診する予定。ってな訳で、克也は多美子さんの情報収集をよろしく」
店も放っておけないしね、というトドメの言葉が、克也に完遂という名の杭になって刺さった。
数週間も多美子と過ごすと、いつの間にか互いに『介護の勉強』という設定を忘れ、ただの茶飲み友達と化していた。多美子は辰巳が言っていたとおり、介助などほぼいらないくらい元気に動けている。日頃辰巳に甘えっぱなしで気の利かない克也に説教をしながら、お茶を淹れてくれたり一緒に掃除をしたり、時には散歩に出掛けたり――そんな毎日を過ごしていた。
(もしボクにお婆ちゃんがいるとしたら、こんな感じなのかな)
ふと克也は想像してみる。浮かぶ祖母のイメージは、どうしても「多美子ばーちゃん」にしかならなかった。
一方の多美子は、気心が知れて来たからか、文句よりも娘の自慢話が多くなっていった。
「あんな出来た嫁はいないのに、婿も似非孫も、久美子の慎ましさと献身を当たり前に思い過ぎる」
「さっさとアタシを放り出しゃいいのに、久美子に影でコソコソ文句を言うのが男の癖に意気地のない」
「克也君みたいに何でも腹を割って言いたいこと言い合えるのが親子なのに。何だか久美子より克也君の方がよっぽど家族みたいだよ」
多美子の頭の中は、久美子の将来に関する心配事で一杯だった。そんな話を聞いて、克也は何とも言えない気分になる。こそばゆいような寂しいような。多美子は克也の中で、ただの『調査対象』ではなくなっていた。
ある日克也は多美子に
「今日はちょっと家族に内緒のところへ行くから」
と訪問を断られた。
「家の人には言わないよ。今日は多美子ばーちゃんとこに来るつもりで、ほかのバイトを休んじゃった。ばーちゃんといないことがバレたらヤバイしさ。助けると思って連れてってよ」
そう言って拝む仕草でねだると、彼女は渋々承諾してくれた。
行った先は、隣の市の総合病院だった。克也はそれが腑に落ちない。市内にも大きな大学病院があるのに、足だって痛むのに、どうしてわざわざこんな遠くまで通っているのだろう。
「信大の方が近いじゃん。何でわざわざこの病院に通ってるの?」
多美子に訊いても「お前さんにゃ関係ないよ」と素っ気ない。克也が食い下がって訊くとその内本気で怒り出し、それ以上訊けなくなってしまったので、その夜、辰巳に相談した。
「ね、何かヤバくね? 憎まれ口の一つも出なくて、シリアスだったんだよね」
辰巳は煙草を燻らせながら、克也が書き出したこの一ヶ月の経過報告を読みつつその話を聞いていた。不意にそれを伏せたかと思うと、目を閉じて腕を組み、考えに集中し始めた。克也は黙って辰巳の目が開くのを待つ。こういう時の辰巳はフル回転でシミュレートする分、周囲に対してまったく無反応になるからだ。
「……克也、この件はもう撤収していいよ」
開いた目から浮かぶ辰巳の瞳の色は、どこか翳りを見せていた。
「何だそりゃ。フザけんなよ。途中で放り出すな、って言ったのは辰巳だろ?」
中途半端な辰巳の物言いに焦れた克也の反論は、喧嘩腰な口調になっていた。
「お前さん、多美子さんに情が移ったろう。仕事と私情は切り離せって言ってるのに」
辰巳の目つきが仕事のそれから、穏やかな、それでいて哀れむようなものに変わった。幾ら感情的になっている克也でも、自分の心配をしていることがすぐに解った。
「多美子ばーちゃん……何かヤバい病気ってこと?」
辰巳は答える代わりに再び目を閉じ、深い溜息を一つついた。
「ちょっと、次の手を考えるから……ごめんよ」
それは辰巳の「独りにしてくれ」という合図だった。そうなったらもう、それ以上の口は挟めない。克也は仕方なく「解った」とだけ返事をして、自分の部屋へ戻って眠ることにした。
長い長い煙突から、多美子が天へ昇って逝く。
澄み切った秋の空に、彼女が永遠の旅に向かって逝く。
克也と辰巳は、斎場から少し離れた小高い丘で、そっとそれを見送った。何故なら、表立って弔問出来る関係ではなかったから。辰巳のバイクに腰掛けて、遠くから彼女を見送ることしか出来なかった。――“家族”ではないから。
辰巳はあれから多美子の入院先へ会いに行ったそうだ。
『騙していてすみません。私、実はこういう者でして』
そう言って彼女に名刺を差し出し、事情を説明したらしい。
『克也は、保護者の権限を悪用して巻き込んでしまいました。あの子をどうか恨まないでやってください。貴女を本当の祖母のように慕っていましたから』
辰巳は克也に肉親がいないことも多美子に話し、克也自身も気づいていなかった気持ちを代弁した。そう言って、克也の訪問を辰巳が止めたことと、それに対する謝罪を伝えた、とのことだった。
多美子は怒ることもなく、むしろ申し訳なさそうな顔で辰巳に言ったらしい。
『人生七十年もやってると、人様に迷惑ばかり掛けてどうしようもないねえ。さっさと病気持ちでお荷物にしかならない年寄りなんかほっぽり出して、自分の家庭を大事にしてくれりゃいい、って人が一生懸命愛想を尽かしてくれるようやってんのに、他人様までこんな風に巻き込んで』
その時辰巳は、初めて多美子の涙声を聞いたそうだ。謝罪で下げた頭を上げられなかったと呟いた。
『海藤さん、いつまでもそんなことをしてないで、顔をあげてくださいな。もしよかったら老いぼれの最後の愚痴を聞いておくれでないかい?』
多美子がそう言って辰巳に話したその内容を、彼は克也に伝えてくれた。
――アタシはね、好きで久美子を産み育てて、自分のわがままで再婚もせず、あの子に新しい父親を探してもやらずに、本当に自分の好きにやって来たんだ。
それをあの子は「自分がいた所為でお母さんは結婚が出来なかった」と、幾ら違うと言っても責任に囚われて、同居してもいいという人としか結婚しない、なんて言って嫁に行き遅れちまって。
悪い人達じゃあないが、仕事にしか興味のない婿に、愛想のない義理の孫、家政婦のように使われてる久美子が不憫でねえ。アタシさえいなけりゃ、あの子はもっと自由だったんじゃないか、って今でも少し思っているんだよ。
克也君にえらい怒られたよ。
『そんなの、久美子さんが勝手に多美子ばーちゃんの気持ちを決めつけてるのとおんなじじゃんか』
ってねえ。
何度も、久美子と腹を割って話せと、克也君にお説教をされたよ。この老いぼれが、あんな小坊主に、だよ。ふふ、笑っちゃうねえ――
“もう、ここには来れないんだね。どうか、くれぐれもありがとう、とお礼を伝えておくれ”
それが彼女の、辰巳に託した克也への伝言だった。
『それから久美子さんと話し合ったそうだよ。お前さんの言うとおり、久美子さんに叱られた、って。「私がお母さんの傍にいたいのに、どうしていさせてくれないの」と怒られた、って照れ臭そうに言っていた。……いい笑顔をしてた』
――最期の時を、娘といがみ合わずに過ごせるのは克也君のお陰。
くれぐれも、本当に心からありがとうと伝えておくれ――。
また辰巳を心配させると解っているから、一生懸命耐えていたのに。その話を聞いたとき、辰巳の黄金の髪と仄暗い部屋の黒が、克也の視界の中だけでマーブル模様を描き出した。
『……しょうがない子だね、お前さんは』
『辰巳が、多美子ばーちゃんの、口真似なんかするからじゃん……か……っ』
その日、克也は結局そのまま、辰巳のベッドで泣き寝入りした。その間、ずっと辰巳は謝ってばかりいた。
『克也が元気になればと思って請けたんだけどな。また泣かせてしまって、本当にごめん』
と。
それから、数ヶ月後のことだった。久美子から多美子の訃報を知らせるFAXが事務所に届いたのは。
辰巳は、弔問することを許さなかった。
「克也。仕事の度に心を痛めていたら、この先この仕事は続けられないよ。俺はその方が安心だけど、それじゃあお前さんが納得出来ないんじゃないのか?」
悩んだ末に、割り切ることを選んだ。だが辰巳はここに連れて来てくれた。
「少しずつ大人になっていけばいいさ。その感情豊かなのが、克也のいいところでもあるんだから」
そう言って、辰巳は久美子から預かったという多美子からの手紙を克也に手渡した。
『克也様
短い間でしたが大変お世話になりました。
克也君の御陰様をもちまして、娘と胸の内を語り合い、ともに最期の時間を最良の形で過ごせております。
あなたが私に赤裸々な想いを伝えてくれたお陰です。私は、あなたのその純粋な想いの美しさを見て、自分が悲劇の主人公を気取っている恥ずかしさを知りました。
教えて欲しいと言って現れたあなたに、私の方こそが人としてあるべき姿を教えていただいた訳です。
なんとお礼を申し上げてよいのか解りません。
何もお返し出来ないまま逝く無礼をお赦し下さい。
本当にありがとう。あなたが私を身内のように「ばーちゃん」と呼んでくれたこと、何より嬉しゅう御座いました。
初めて祖母と呼ばれたのです。孫が出来たようで、毎日が楽しゅう御座いました。
たくさんの思い出をありがとう。
どうぞ、あなたはそのまま美しく清らかな心でいてください。
さようなら。
神保 多美子 拝』
「……ばーちゃん……」
克也は手紙を握りしめたまま、動けなかった。もうすぐ煙になって昇っていく彼女すら見えなくなってしまうのに、目に靄が掛かってしまい、顔を上げることさえ出来なくなっていた。
辰巳がそんな克也を抱き寄せ、ただ黙って頭を撫でた。
「ふ……ぇ……っ」
堪えていたものがプツリと切れ、辰巳の胸に顔を埋め、声をあげて思い切り泣いた。
雲一つない晴天の秋空。久しぶりの休日。克也は辰巳に誘われてタンデムでツーリングに来た。
辰巳の燻らす煙草の煙が天へゆらゆら昇っていく。それを見た克也の目が、少しだけ潤む。多美子を思い出し、少しだけ泣きたい気分になる。
辰巳はそんな克也の顔を見て困ったような呆れ顔をしたかと思うと、煙草の火を靴の裏で揉み消した。
「いつまでもメソってると、多美子さんも安心出来なくてまた口汚いことを言いに来るぞ」
辰巳がそう言って克也の額を力一杯指で弾いた。
「メソってねーよっ」
克也は無理やり空元気の憎まれ口を叩いてごまかした。辰巳にそんなものは通用しないと解りつつ。
(多美子ばーちゃん、ボクはもう大丈夫)
零れそうになるものを堪え、青空を見上げて語り掛ける。
(ちょっと懐かしくなって泣けちゃう時もあるけれど、ばーちゃんが見守ってくれてると思うと頑張れる)
晴天の空に映った多美子の顔がぼやけていく。代わる代わる浮かんでは消えていく、『Canon』のお客達。
(見守ってくれる人がいっぱいいるのを知ってるから、ボクは毎日頑張れる)
加乃姉さん、辰巳、喫茶店の常連のお客達。克也は一人一人浮かんでは消える人々の名を心の中で反すうした。
(そこに多美子ばーちゃんが加わってくれて、ボクは世界一幸せ者だって心から思う)
克也は一番心配してくれた人の方を振り返り、締め括る言葉を口にした。
「辰巳。煙を見てもメソらないから、本当にもう大丈夫」
自分の中で、多美子はいつでも傍にいる。心からそう思えたら、辰巳に秋空の晴天に負けないくらいの自然な笑顔を零すことが出来た。
辰巳はそんな克也を見て微笑むと、また煙草に火をつけてゆっくりと煙を燻らせた。




