第六章 意地悪ばあさんの胸の内 1
――今の時代は人生八十年、なんていうけどね、アタシぁそんなのはゴメンだよ。
こんな身体で世話掛けて、孫子に疎まれ蔑まれ。
そんな生活をあと十年も続けなきゃならないくらいなら、いっそ早いとこおじいさんに迎えに来て欲しい、ってもんだい。
人様のお荷物にだけは、なりたくないんだよ。
アタシにも、プライドってもんがあるんだから――。
今日も喫茶『Canon』は閑古鳥。そして、やはり今日も克也は、辰巳の鬼講座から逃れようと必死に話題を逸らしていた。
「――っていうかさ、辰巳ももうすぐ三十路のおっさんだし。いい加減真っ当な職に就いて、次の嫁さんを探した方がいいと思うんだ。ボクの世話なんかしてる場合じゃないじゃん」
思ってもいないことを口にする。克也は翠の件で辰巳に随分心配を掛けてしまった自分を苦々しく思うこの頃だった。あの時はすごく弱っていた、かなり子供に戻っていた、と自分に言い訳をした時期も過ぎた。今度の誕生日で十八歳になると思うと、早く辰巳離れをしなくては。というのが克也の中の決まり文句になっていた。
辰巳はそんな健気な弟心を汲み取るどころか、眉間に深い縦皺を寄せている。彼はチーズケーキの種を冷蔵庫に収めると、克也に向かって子供じみた屁理屈を返して来た。
「“っていうかさ”と、その前の話になんの脈絡もないんですけど。ちゃんと勉強しないとそういう恥ずかしい日本語の使い方をするようになるんだ。そもそも、お前さんに俺の人生を心配されるほど落ちぶれちゃ」
「あ、ツバメの雛が孵った!」
克也は露骨に辰巳から視線を逸らし、今年も窓の軒下に作られたツバメの巣から雛が顔を出していることに反応した。辰巳が元気になったのはいいけれど、それはそれで口うるさい。
「こら。人が話をしている途中でよそごとなんか」
と逆襲に遭い掛けたところへ、助け舟がやって来た。
からん、と救いのドアベルが鳴る。午前中のお客は、大抵『裏』宛のお客だ。
(らっき。これで当分は勉強から抜け出せる)
克也は喜び勇んで勉強道具を片づけ、弾んだ足取りでカウンター席を空けた。
「いらっしゃい。お好きな席にどうぞ」
辰巳がいつものようにそう言ってから、克也の顔を睨みつけた。お客に見えない角度から、小声で「あとで続きだからな」としかめっ面を見せている。克也は顔を一瞬ゆがませ、慌てて見なかった振りをしてお客への水を用意した。
「あの、息子から噂を聞いて来たんですけど。変なことを言っていたらゴメンナサイ。こちらの『スペシャルメニュー』って本当にお願い出来るんでしょうか」
お客は随分と疲れた顔でそう問い掛け、カウンター席の向かいにいる辰巳へ縋るような目を向けた。
「まずはお話を伺いましょうか。今日のお勧めはマンデリンなんですが、そちらを召し上がっていただきながら、なんていかがです?」
辰巳は今日もちゃっかりメニューを勧めつつ、『裏』の顔を覗かせた。
依頼人は、城ヶ崎久美子、四十七歳。同い年の夫と、夫の前妻の息子、彼女の実母との四人暮らし。バツイチ子持ちの夫と初婚の久美子は、結婚相談所を介して知り合ったらしい。夫側は子供好きであること、久美子側は実母との同居を条件に、夫の息子が七歳の時に結婚した。
具体的な依頼内容は、本人も考えあぐねているらしい。状況としては、実母、多美子に性格的な問題があり、留守中の世話を頼んだ訪問ヘルパーを追い返すという行為を再三くり返していたらしい。先月とうとうヘルパー派遣会社から介護の申し込み拒否をされ、途方に暮れているとのことだった。
「私も我慢の限界なんです。いまどき同居を認めてくれる夫や夫の実家なんておりませんし、夫や息子は、私をとても大事にしてくれます。母があんな状態では、夫や息子に申し訳なくて」
久美子に言わせると、多美子は『ケチで、人の揚げ足をとっては文句をつけて夫や息子を不機嫌にさせ、他人様にも暴言を吐いて敬遠される変わり者』とのこと。
「元々勝気で、早くに父――母から見たら死別した前の夫ですが――を亡くしてからは、女手ひとつで私をここまで育ててくれました。確かに昔からキツいところはあったのですが、今のように筋の通らない屁理屈や暴言を言うような人ではなかったんです。娘の私でもいい加減腹の立つことも多いし、何度も施設に入所してもらおうと考えたこともあります」
久美子が、自分で発した「施設」という言葉に、不快な皺を眉根に寄せた。
「でもやっぱり、こうして家庭を持たせてもらえる一人前にしてくれたのは、母ですし。自分が独立したからって、もう親に用はないとばかりに放り出す気も本当はないんです、私」
もうどうしたらいいのか、と久美子が俯いて顔を覆った。彼女の頭部から覗く脱毛痕が二人の目に止まる。辰巳がそれとなく彼女自身の状態を尋ねてみれば、案の上ストレスから心療内科で安定剤をもらっているとのことだった。その上内科受診の帰りにここへ立ち寄ったらしく、胃にポリープが五つも発見されたと診断されたばかりでもあった。
(どんだけ悪辣なばーさんなんだ)
克也は話を聞いて呆れてしまい、祖母の存在を知らないだけに、余計にその老婆のイメージが浮かばなかった。
辰巳がメモの手を止め視線を上げた。
「介護は円満なご家庭でも気苦労が多くて大変だそうです。城ヶ崎さん、誰だって独りで抱えられるものではないと思いますよ。貴女はお仕事もされているのですよね。今はどなたが多美子さんを?」
「それが、今まで何でも自分でそつなくして来た人なので、要らないと言って利かなくて。息子がいる時には母に内緒で見守りを頼んではいるのですが……。もう、いつまた事故を起こすかと思うと心配で」
と久美子は涙を浮かべて訴えた。
つい先日も、体が思うように動かないのに彼女は久美子の作り置きしておいた昼食を食べず、自分でキッチンに立ったらしい。その際よろけた拍子に湯の沸騰した鍋をひっくり返し、腰から太腿にかけて火傷を負ったそうだ。
克也は久美子への同情を禁じ得ない。辰巳がこの依頼を引き受ける方向で考えてくれないかと思いながら、彼の顔色を窺った。彼もまた、多美子を独りにしておく危険性を感じてはいるようだ。メモと睨めっこをしたまま喉の奥で唸っている。頑なな彼女に受け容れさせるには、どうアプローチを掛けていくのがベストなのかを考えあぐねている、といったところだろうか。しばらく、辰巳の唸る声が静かな事務所で続いていた。
「では、一度家から試験的なサービスを提供してみて、多美子さんのご評価をいただいてみる、というのはどうでしょう。多美子さんの趣味や嗜好の傾向、自立の程度など、もう少し詳しい情報をいただけますか? もちろん、正式な契約前の話なので見積は無料ですよ」
辰巳はそう言って、爽やかな笑みを浮かべた。辰巳は失敗しそうな依頼は最初から引き受けない。何か勝算を見い出したらしい、と思うと、克也の顔もほころんだ。
「私達も多美子さんに快諾していただけるよう尽力しますね」
辰巳は当然のように、さらりと複数形で久美子に告げた。
(何か、すっごいヤな予感……)
辰巳が克也を一瞥した時、伊達眼鏡の奥が妖しげに光った気がした。それが妙に気になった。
「久美子さんって理想的な人じゃね?」
克也は思ったままの感想を辰巳に漏らした。自分が最優先という考えが横行している今の時代に、良妻賢母で孝行娘という存在は、天然記念物ものと言ってもいいほど珍しい。
「どうかねえ。完璧過ぎるのも仇、って場合があるからねえ」
辰巳は久美子から送られて来たFAXの資料に目を向けたまま、素っ気ない一言で締め括った。
「さて。んじゃ、正式な契約も済んだことだし、まずは一緒に多美子さんの話を聞くところから始めようか」
そう言って辰巳は
「で、これが今回の制服」
と今日買って来たらしい服の入った紙袋をがさごそし始めた。
「始めようか、って……やっぱ、ボクも一緒なのか」
克也は表向き溜息をつきながらも、辰巳が自分を仕事に巻き込んだ理由が解っていた。何かと落ち込んでいた克也への、気分転換を兼ねたこの仕事なのだろう。危なげではない案件だから、克也も一枚かめるだろう、と。
(結局ボクは、辰巳に心配掛けちゃってるんだな……と、はぁ!?)
辰巳の取り出した“克也用の制服”が、殊勝な気分でいた克也の物思いを一ミクロンの憂いも残さず吹き飛ばした。
「ちょっと待て! お前馬鹿!? 真性馬鹿!? それってメイドカフェの制服じゃんかよ!」
「これ、俺ヴァージョン。どう? どう? 似合いそう?」
辰巳が嬉々として取り出したそれは、まるで大昔の金持ちの家にいそうな、執事臭い漆黒の……。
「燕尾服で介護が勤まるかーっ! ウキウキしながらフィット確認してんじゃねえっ。いっぺんMRI撮ってもらって脳みその異常発見してもらいやがれっ!」
(こいつ、絶対心配なんかしてないっ! 前言撤回! ふざけんなっ!)
しんみりと反省していた自分が馬鹿らしくなり、そんな想いでいたことを激しく後悔した。
「天誅っ」
「あだっ!」
腹立たしくて仕方がないので、取り敢えず辰巳の脳天に踵落としを食らわせた。
城ヶ崎家は、高層マンション十四階のエレベーターに近接した一角にあった。
辰巳が無駄な経費を使った所為で、結局ジーンズにTシャツ、上にカッターシャツを羽織るというラフな恰好で偵察することになった。
久美子からの情報によると、多美子は意外にも今回のシナリオ『年長者として介護の仕事を目指している知人の子達にいろいろ教えてやって欲しい』という頼みを、すんなり受け容れたらしい。
「初めまして。久美子さんからご紹介いただきました、海藤辰巳です」
と辰巳が始めに自己紹介すると
「何だいこのデカいのは。久美子のパート仲間の息子って聞いてたはずなんだけどね」
といきなり苦言を呈してきた。克也は、いかにも「こちらが世話をしてやる」と言いたげなその横柄さにいきなり気分を害され、思わず足が一歩前に出た。右手は既に臨戦態勢で握り拳を作っていたのだが。
「すみません。それはこっちの克也で、自分は彼の専門学校でのクラスメートなんですよ」
そう言った辰巳に頭をバスケットボールのように鷲掴みされ、思い切り前に捻じ込まれてしまった。辰巳の指先が、頭をにぎにぎとさせて「ダメ」の合図を送って来る。
「……守谷克也です」
どうにか溜飲を下げ、渋々ながらも予定通り旧姓で自己紹介をした。多美子がそんな克也のボルテージを上げる暴言をまた放つ。
「こっちはこっちで、なんだい。モヤシみたいな体つきで。ちゃんと食べてるのかい? 育ち盛りがそんなひょろひょろで介護士を目指してるなんて、おこがましいってもんじゃないかい。身のほどを考えないと、職に就く前に腰が砕けるよ」
「……っ」
(ヤダっ、絶対ムリ! ボクこの仕事下りるっ。辰巳一人でやれっ)
克也は握り拳で怒りを堪え、辰巳に目でそう訴えた。一瞬目が合ったのだが。
(あ、このヤロ。視線を逸らしやがった!)
「克也と一緒に、自分もいろいろ教えていただきたくて。よろしくお願いします」
克也とは思い切り目を逸らした癖に、“多美子ばばあ”には愛想を振り撒く辰巳を見た克也は、彼にまで段々腹が立って来た。
「ところで、多美子さん。今日はお近づきの印にケーキを作って来たんです。ご賞味いただけます?」
辰巳は、若い女の子なら全力で勘違いしそうな笑みを浮かべ、チーズケーキを多美子の目の前に掲げてみせた。
「大の男がケーキ作り! 世も末だねえ」
そんな毒を吐きつつも、多美子はスリッパの方を顎でしゃくった。
「いつまでもそんなとこに突っ立ってないで、さっさと台所にそれ持って来な」
「お……っ」
(お前がいつまでも玄関先で仁王立ちしてたんじゃないかっ)
と言い掛けた克也の頭を、辰巳がぽんぽん、と軽く叩いた。
(彼女なりの歓迎の仕方だよ。及第点をくれたことに満足しよう、ね?)
多美子に聞こえないよう、そっと耳許にそう囁いてにっこり笑い、克也のスリッパも出してくれた。
(またそうやって、子供扱いするし)
噴火するほどの怒りは静まったものの、どこか釈然としない克也だった。
見た目は七十歳の割に老けている多美子だが、動きは聞いた話よりしっかりしていた。何より口が達者で、本当に介護が要るのかと思ったのが克也の正直な感想だ。
辰巳の淹れたコーヒーを「まずい」と言った人に初めて会った。克也は彼女の嫌がらせに近い難癖に堪り兼ね、とうとう地を出してしまった。
「いい加減にしろっ。お前何さまなんだよ! 辰巳はこれでもサ店のマスターもしてるんだぞっ」
初めて口ごもる多美子の顔を見て、克也はその表情に妙な違和感を覚えた。明らかに困っているのだが、同時にどこか嬉しそうなはにかむ表情。初めて彼女の素顔を見た気がしたのだ。
「多美子さんの繊細な舌には少し濃過ぎたのかも知れませんねえ。淹れ直しましょうか」
辰巳が助け舟を出すようにそう言って、凍りついた空気を穏やかな笑顔で温めた。
「そ、それだよ。濃過ぎて苦いって言いたかったんだよ。でもまあ、これでいいよ。ケーキが甘過ぎるくらいだからね」
そう言いながら、しっかりケーキとコーヒーを残さず腹に収めたごうつくばばあだった。そんな多美子とケーキの奪い合いをしたり、また言い合いを始める克也を、辰巳は止めずに見守っていた。克也自身も、彼女に対して言いたい放題の根拠が徐々に変わっていった。最初こそ、『くそばばあ』と思った多美子だが、辰巳の作ったケーキを頬張っている時の顔は、克也が『理想的な女性』と評した久美子とよく似た優しい面差しをしていた。また、彼女は何かと
「ホントに今の子は、何も家のことが出来ないんだねえ」
と言いながら、家事や介助の諸々を口汚く教えてくれるのだった。しばらくそんな形で三人の時間を過ごしていく内に、克也の中で、多美子は久美子が言うほど悪辣なばあさんではない、と解っていった。