第五章 Kiss Me 3
克也を迎えに行く前に、済ませるべきことがある。
辰巳が赴いた先は、海藤組だった。右手にはトカレフを、利き手でなくても操れるほど馴染んだコルト・ウッズマンは左手に構えた恰好で、事務所の扉を蹴り破った。
『若がし』
『どけ。ここまで俺を通した段階で、親父はお前の処分を決めている』
意味を理解した幹部の男は、事務所の奥へ繋がる扉から怯えがちに退いた。事態を把握出来ない組の下っ端どもは、ただ呆然とことの成り行きを見守っている。そちらへコルトを向けたまま、トカレフの銃先で幹部の男に扉を開けるよう促した。海藤のデスクは、入口に面した最奥真正面に据えられている。視界に入り次第仕留める気でいた。
だが、辰巳の視界に入ったのは、隙だらけな表情を焦りに変える海藤の顔ではなく。
『ご苦労。少しは色惚けの目が覚めたか』
『!』
うそぶく彼の右手が、辰巳の握るそれと同じものでこちらの眉間に標準を定めていた。
『ブツはどうした』
なにごともなかったようにそう問う海藤の口角が片方だけ上がり、蔑みで細めた目が辰巳の怒りを余計に煽った。
『なんなんだ、この茶番は』
『ブツはどうした、と訊いているんだ』
『答えろ!』
くぐもる声でくつくつと笑う海藤に向かい、発砲する気でハンマーのハーフ・コックを解除した。その段階になってようやく海藤が言葉を発した。
『取引は本物だ。ブツはこちらの手許にある。あの女が籐仁会を殺ったそうだ。お前が入れ込みさえしてなければ、育て方次第で使えるかも知れんとは一瞬思ったが』
次の瞬間、海藤から笑みが消えた。
『あの女も所詮、お前の母親と同じだ。長生き出来るタマではない。お前の為ならなんでもする、と言ったそうだ。情にほだされるひ弱なモノなど役には立たん。お前の情が浅い内に消えてもらうに越したことはないと判断した。だがお前は違う。お前は組にとって、なくてはならない情報戦の要だ――今のところは』
含みのあるその物言いに、トカレフを握る手が震えた。
『二言目には息子びいきの発言をばら撒いておいて、“今のところは”ってのが本音かよ』
解っていたはず。それにも関わらず、思考が今更な絶望感を自分の中に見い出していた。
(どうしてこの男は、いちいちこうやって癇に障るものの言い方をするんだ)
人をただの道具としか見ていない。目ぼしい後継者として自分を確保する為に、自分で自由を奪い取った母のことさえ見殺しにした。そこまでしておいて、実の息子である自分に対してもモノとしてしか見ていない。
改めて絶望すると、何のためらいも迷いもなくなった。ハンマーの落ちる音が微かに響く。辰巳は海藤の目を見据えたままトリガーへ掛けた指に力をこめた。海藤はそれを察しながら、意に介さないと言いたげなおどけた口調であり得ない質問を投げて来た。
『ところで、お前はこんなところでのんきに構えていていいのか? 籐仁会はお前が市原を殺ったと探し回っているようなのだが』
楽しげにそう語りながら、構えた拳銃をデスクにしまう。こちらが銃口を向けたままなのに視線まで逸らした。海藤のその不可解な行動が、逆に辰巳をためらわせた。
『高木の部下を一人、手懐けてある。お前をおびき出す餌だと言ってあの子供を藤仁会に差し出してやれば、お前にとってもいい厄介払いになるとは思わないか』
『こ……ども……』
すっかり失念していた、この男のやり口を。
『赤木を当てにしているのなら、無駄なことだぞ』
くつくつと喉の奥で笑う海藤の瞳が妖しく光った。
『どういう、意味だ』
『高木の下に潜らせた者から、赤木が出頭を志願した理由を知った。国家の犬に向かって、お前を助けろと頭を下げに行くのが目的だったらしい。奴は今頃東尋坊辺りで海水浴を楽しんでいることだろう。子供を助けに行く余裕があると思うか?』
『赤木を……殺ったのか』
『人聞きの悪い。仁義に反した自責から飛び降りたのだろう』
『き……さま……っ』
あとほんの少しでトリガーを引けたのに。指の力が緩んでいく。この男ならやり兼ねない。幾らでも法の目をかいくぐり、克也を警察の手から掠め取って赤木のように消すのは明らかだった。
『ほかに名案があるなら聞いてやろう』
ただ引っ掛けただけの指先が震える。トリガーを引くことが出来なかった。
克也――加乃が遺した、たった一つの宝物。警察の保護など信用出来ない。
ぎち、という鈍い音が、骨を通して直接辰巳の鼓膜を揺さぶった。口の中に鉄の味が広がっていく。今の非力な自分では、海藤に勝てないと思い知らされた。
構えた右腕がだらりと落ちる。後ろを牽制していた左腕も同時に落ちた。拳銃が両の手から零れ落ち、辰巳の頭もがくりと前へ垂れ落ちた。
『……時間と戸籍を俺にください。当面なりを潜めます。その後必ず……お役に立ちます』
今はまだ、海藤を敵に回せない。克也を完全に隠蔽してからでないと。
心の中で繰り返す。湧き立つ憎悪を無理やり封じ、今なすべきことに集中する。
『ふむ……。賢明な判断だな。流石、“私の息子”だ』
直角に身を屈して懇願を示す辰巳の頭上に、勝ち誇る海藤の言葉が降った。
海藤組を出た辰巳は、次に向かうべき場所へと車を走らせた。
焦れた想いをなだめる為に、自分へ繰り返し言い聞かせた。
時を待て。それは逃げることではない。もう逃げるのは止めにする。
今はもういない加乃に誓った。
克也を保護したのは、十中八九、高木徹警視だ。海藤組を窮地に立たせるほどの敏腕刑事とやり合った記憶は、彼のほかに一人もいなかった。
海藤から逃げるだけでは、本当の平穏が手に入らない。志を同じくする強い力を自分の味方につけなくてはならなかった。
『情にほだされるひ弱なモノなど役には立たない、か』
海藤のその言葉にだけは、納得した。
『加乃、守れなくて、ごめん。でも』
誰も守れなかった自分が、今からでも間に合う唯一のこと。今の自分でも出来ること。加乃を失くした辰巳にとって、それが唯一の生きる理由となった。
血の繋がりがすべてではない。海藤周一郎と自分の関係がそれを如実に語っている。
その後も辰巳が自身へことあるごとに繰り返す、自分への檄と生きる意味。
『克也には、必ず普通に笑って過ごせる暮らしをさせてやるから』
その誓いを立て、今日を最後にすると決めた途端、溢れる涙が止まらなかった。
頬に感じる、柔らかく湿った感触。
夢うつつのぼやけた思考で、自分が長い長い昔の夢を見ていたことを認識した。頬に感じる湿りは、自分が夢で流した涙だったのか。柔らかな感触が、辰巳を再び心地よい眠りに誘い込む。確か、寝てはいけなかったような気がする。
(なんで、だっけか?)
眠気を取り除こうと、柔らかなそれに顔をこすりつけて瞼の涙を拭い取った。
鼻に馴染んだ部屋中を満たすコーヒー豆の香りが、今の立場を思い出させ、安堵の溜息が零れ出た。寝ぼけ眼で昨夜を振り返る内に、ものすごく重大なことを思い出した。
確か昨夜は克也に引き止められて、結局そのまま同じベッドで寝てしまった気がする。
(ちょ……待て……あれ、もしかしてこれって……)
現状を把握するにつれ、自分の顔から血の気が引いていくのを嫌でも理性が感じ取った。
「うぉぁーっ!! 何で俺が抱っこされてんだっ!」
慌てて離れようと身を起こし掛けたが、まだ眠っている克也が掻き抱いた辰巳の頭を離さない。
「は、離せっ、離しなさい! ってか、起きろ克也!!」
「んにゃ……? あ、おはよ」
ようやく起きた克也が、突然手を離して眠たげな目をこすった。力一杯抵抗していた辰巳が、同時に勢いよくベッドから転がり落ちた。漫画の擬音でよく見掛けるコミカルな音が、頭をぶつけた床から鈍く響いた。
「何やってんの? 朝から元気だね、辰巳」
目覚めがよいのは結構なことだが、もう少し女の子の自覚を持って欲しい。そんな辰巳の心の声は、自称・男の克也に届かなかった。
「昨夜、加乃姉さんの夢を見てたでしょ」
身を起こした辰巳の正面に、克也もぺたりとあひる座りをし、辰巳の両頬を掌で拭った。
「ごめんね、思い出させちゃって」
そうされるまで、拭ったはずの涙がまだ涸れていなかったことに気づかなかった。
「ち、が……う」
拭っても拭っても止まらない、涙。違うと言ったところで克也に信じてはもらえなかった。
「ボクがずっと傍にいるから。もう泣かないでよ」
克也は辰巳の頬を挟んだままそう言って、いつものようにそっと触れるだけのキスをした。
淡く儚い、啄ばむような『家族のキス』。独りぼっちじゃないから、と、心を癒す優しいキス。
「昨日でもう泣くのはおしまい。だから、辰巳ももうおしまい、ね?」
辰巳の口許に自然と笑みが零れる。涙も徐々に乾いてゆく。
辰巳も克也の頬を挟み、寝癖であがった前髪から覗く額にそっとくちづけた。
「おはよ、克也。もう大丈夫」
克也に満面の笑みが花開く。
「おはよっ。さーて、今日も頑張るぞっ!」
着替えるんだからさっさと出ろ、と克也に蹴りを入れられた。
「お前さんね。わがまま過ぎる」
ようやくいつもの『平凡で平和な』朝が辰巳のもとへ戻って来た。