第五章 Kiss Me 2
加乃とそんな出来事があった年の暮れ。辰巳は久し振りに海藤組の事務所へ足を踏み入れた。その足取りは、重い。訪問の理由が、父、海藤周一郎からの呼び出しによるものだから、というだけではない。妙な胸騒ぎを消せないまま、組長私室の扉をくぐった。
『お前、マンションで何を飼っている?』
そう問う海藤の声に、確信の自信が見え隠れする。遅かれ早かれ守谷姉妹の存在がばれることは、既に想定済みだった。
『てっきりご存知の上で黙認されているとばかり思っていました。何か不都合でも?』
両手を後ろで組み、直立不動のままで問い返す。視線はデスクの豪奢なソファにもたれて座る海藤ではなく、その頭上から覗く外の景色を見据えて無表情を保った。
『女遊びも結構。大学についても、後々を考えれば有意義と思い認めてやった』
こちらを鋭く刺していた視線が不意に外され、その眼光の主が不快げな声でそうごちる。葉巻を燻らせながら父親面でそう述べる海藤が、ゆるりと背もたれから身を起こして溜息をついた。
『そこまでは、まあいい』
しつこいくらいに灰皿へ葉巻をこすりつけて火を揉み消す。海藤は明らかに苛立っていた。
『だが、“堅気になる”などという戯言まで認めた覚えはないのだが。まだ無心が足りないか?』
巧い逃げ口上が浮かばず、ポーカーフェイスを保つので精一杯だった。
(しまった……しくじったな)
後ろで組んだ辰巳の両手に無意識な力がこもり固まった。
克也の対人恐怖を考慮し、盗聴機器の確認を業者に依頼しなかった。二人の隠蔽を優先したというのは言い訳に過ぎない。自分の甘さを痛感する。辰巳のこめかみから嫌な汗が一筋伝っていった。
『まあいい。学業に専念させようという親心が仇になったが、済んだことを愚痴ったところで無意味だろう』
海藤は辰巳の焦りに反し、守谷姉妹に関する話を唐突に終わらせた。
『仕事をさせなかった私にも非がある。余計なことを考える余裕があるようなので、この件をお前に任せよう』
彼はそう言って、手許にあった一枚の地図を辰巳の方へ滑らせた。
『頭に入れたら処分しておけ。そいつをお前に預けておく』
海藤は恐る恐る地図を手にした辰巳に向かってそれだけ言うと、背後にある応接テーブルに置かれたジュラルミンケースを面倒臭げに顎でしゃくった。促されて振り返ると、いつの間にか組の若衆が一人、扉の前に控えていた。
『二十五時、天見埠頭。取引相手は籐仁会だ。そこの古賀をお前の護衛につける。好きに使うといい』
海藤が含みを孕んだ笑みを湛えてそう告げた。海藤の自分を観察する目が辰巳の屈辱感を煽った。
(加乃の言うとおりだ)
自分はただの“ぼんぼん”で、自由の利くものと言えば、海藤に隠れて偽名で購入している証券程度、それしかない。辰巳という存在そのものは、海藤の所有物に過ぎないと思い知らされた。
『……解りました』
下げた頭の死角で、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
テーブルに置かれたジュラルミンケース。中身は当然札束だと思った。辰巳が重みを想定して勢いよく持ち上げると、予想外の軽さにバランスを崩し掛けた。
『親父さん?』
思わず怪訝な声を上げて、再び海藤の方へ振り返った。
『命を取って来い。物は大麻だ。殺ったあとで服の中を調べれば出て来るだろう』
ケースを開けて確認すると、二挺の拳銃が入っていた。辰巳の手に馴染み切ったコルト・ウッズマンと、今の辰巳の手に丁度納まるサイズのトカレフ。
『トカレフは遅まきの成人祝いだ。今年初めて顔を合わせるので、用意してやった』
それが海藤周一郎流の「堅気になる」という辰巳に対する制裁だという解釈に至った。
『……ありがとう、ございます』
ホルスターに拳銃を収める手が震えた。わずかに揺れる声で口先ばかりの礼を述べる。その時の辰巳には、そうするよりほかに選ぶ道を与えられていなかった。
マンションへ足を向ける気にはなれなかった。
目を背けていたこの一年。見ないようにしていた、己の血に染まった穢い手。無理やり思い出させられたら、加乃と克也に合わせる顔がなかった。
『古賀、だっけ? 赤木はどうした』
海藤が辰巳にあてがった若手の組員に、兄貴分とも言える腹心の所在を尋ねた。海藤が彼を外したのは、赤木が辰巳と似た価値観であることを知っているから――というところまでは推測出来るが、今日に限らずこの数ヶ月、赤木から一切の連絡がないのは解せなかった。
『二代目が抜けている間に、しくじった取引の尻拭いで務めに入ってます』
『務め……ムショ入りしてたのか。家族はどうしているんだろう』
『さあ。親父さんからはそれしか聞いてないっす』
事務的にしか答えない古賀に訊いたところで、彼が知るはずもなかった。
『最近の動きを聞きたい。天見に直接向かってくれ』
辰巳は古賀にそう告げ、マンションの前を通り過ぎた。
取引相手は、このところシマ争いで反目していたはずの籐仁会。古賀の話によると、自分が情報戦略から抜けている間に行なわれた取引が失敗に終わったらしい。海藤逮捕に執念を燃やしている高木警視に一杯食わされた恰好だ。海藤組絡みというリークが明るみになったところで、赤木が海藤に出頭したいと願い出たそうだ。リーク元は、反目している籐仁会とのこと。
『ふん……手打ち代わりの取引を餌に報復、ってところかな』
資料の画像に目を向けながら、面白くなさそうな声で呟いた。
『今回の取引相手は籐仁会の市原雄三という男です』
運転席から古賀が手短に説明する。古賀から伝えられた合言葉をインプットしながら、手にした画像からおおよその風貌を読み取った。
背景との対比から察するに、意外と小柄な男のようだ。目深帽を被った長髪の男。特徴的なロングコートを身につけている。
『この服装で来るんだよな』
『そうっす。ピンボケですけど、大丈夫っすか』
多少曖昧でも構わない。相手が誰であろうと、やることは同じだ。
『ああ。籐仁会の面子であれば誰が来ても関係ないだろう』
写真にライターで火をつける。画像の上半分以上が黒く薄い燃えかすになると、それを後部シートの足許へ落とし、素早く靴で踏みねじって火を消した。
(これが、最後だ)
辰巳はそう自分に言い聞かせ、頭を振ってちらつく二つの面影を振り払った。今回だけは仕方がない、と浮かんだ二人に言い訳をした。
手にした麻薬を売りさばいてでも、または自首という形で警察に持ち込んででも、あの二人を海藤から守らなくてはならなかった。その為なら十数年の服役も一向に構わなかった。
――今すぐ、あいつから三人で逃げ切ってやる。
流れるネオンの光を見つめながら、辰巳の意志が固まっていった。
天見埠頭、二十五時。一人の男が、辰巳の記憶したとおりの姿で現れた。身の丈に合わない大きめのロングコートに目深帽。写真では長髪だったのに、風にそれがなびくことはない。帽子が不自然な形になっているのは、長髪を押し込んでいる所為なのか、それとも。
(髪を切って、帽子に束ね入れた振りをして何か仕込んでいるか)
暗がりの中で目を凝らすものの、あまりはっきりと見て取ることが出来なかった。
『市原雄三?』
辰巳の警戒を臭わせる問い掛けに、相手が無言で首を縦に振った。だが次の瞬間、彼の右手が懐へ素早く入れられた。
(ちっ、帽子はフェイクか。やっぱりお互い騙す気だったのかよ)
辰巳の眉間にほんの一瞬、不快を伴う縦皺が浮かび上がった。
だるいくらいにゆるい市原の動作。後手で懐からコルトを引き抜いた辰巳の方が彼を捉えるのが早かった。彼は捨て駒としてこの場に駈り出された、使えない若手の組員と察せられた。
途端、不快が市原に対する哀れみとすり替わる。敵対関係にあるとは言え、彼もまた自分と同じく不本意な指示に従わざるを得ない立場なのかも知れない。
チュンッ、という音が辺りに響く。サイレンサーで爆音を軽減させたコルトが火を噴いた。目の前で拳銃をようやく構えた市原の腹部にそれが命中する。暗がりのアスファルト面に小さな赤い花が一斉に咲き誇った。辰巳は命を奪うことへのためらいから、敢えて眉間を避け、脇腹を狙って弾丸を放っていた。
『う……わぁ――っ!』
背後の絶叫に頭を抱える。
(俺を的にする気かよ、このバカ)
古賀というこの男も、辰巳より年長らしい面構えなのに、実戦経験がないらしい。
『止めろ、証拠が残る』
そう制した辰巳の声より先に、素早く回した蹴りが古賀の手から拳銃を蹴り払った。手早くそれを拾って彼の無駄な発砲を未然に防ぐ。弾痕などという決定的な物証を警察にくれてやる必要はない。
『足手まといになるくらいなら、どっかに隠れて待ってろよ』
その間、ほんの数秒。呆れた声でそうぼやく辰巳の鼻先に、冷たい風が馴染んだ香りを運んで来た。
『え……?』
古賀を見下ろしていた視線を、慌てて身体ごと背後へ戻した。市原と思い込んで撃った人物がゆっくりとくずおれていく。辰巳の目にその光景が、妙に鮮やかに焼きついた。
首ががくりと前へうな垂れる。その勢いで目深帽がぽとりと落ちた。風がふわりとその長髪を花のように舞わせ、その隙間から彼――否、彼女の素顔を垣間見せた。
『か……』
見開いた目が、辰巳に瞬きひとつ許さない。何故という無意味な問いが、辰巳の中で空回りする。ただ一つだけ判ったのは、鼻に馴染んだ甘い香りが何故今漂って来たのかということ。
この場にいるはずのない彼女の口角から、赤い一筋が伝っていった。
『ご……めんね……これしか……選べな、かった……』
その両端が、その場にそぐわぬ形を描き出す。辰巳が最も愛した微笑。すべてを受け容れる温かな笑み。
『加乃っ!』
認めがたい名を口にしながら彼女に向かって走り出す。彼女の半身が倒れる寸前、どうにかその身を抱き支えた。
『なんでお前がいる!? 何があった、どうして』
加乃は苦しげな笑みを零したまま、矢継ぎ早に問う辰巳の唇に震える人差し指をそっとあてがった。
『克也……全部知ったわ……。警察、に、保護……迎え、お願いね……』
『親父の差し金か? 何があった』
瞼を閉じて再び開ける、そんな形で加乃が辰巳の声に答えた。
『電話……メッセージは、私達宛……組長……』
加乃は、海藤が留守番電話を介して告げた、守谷姉妹に宛てたメッセージの内容を辰巳に伝えた。
既に辰巳のマンションへ姉妹の迎えを放っていること。克也の身柄を組で預かること。克也を無事辰巳の許へ帰したければ、加乃は大人しく海藤の指示に従うこと。
《娼婦風情が、家の大事な若頭候補をここまで腑抜けにするとは思わなかった。大した女だと褒めておこう》
『使えない、息子……要らない……声が、本気……私でも、判る……』
『解った。もういい。喋るな。出血が酷くなる』
男の体力という前提で脇腹を狙ったが、長い時間人としてのまともな暮らしをして来れなかった加乃の華奢で脆い体にとっては致命傷に至る失血量だ。
加乃に余計な負担を掛けると解っているのに、彼女を支えている片膝の震えが止まらない。海藤に対する怒りの所為か、加乃を失い掛けている恐怖の所為か、その時の辰巳には解らなかった。ただ思うように動かない自分の何もかもに対する苛立ちを抑え切れずにいた。
『ちょっと前、なら……迷わず、克也……選べたのに……ごめんね、たつみ……選べ、なかった』
加乃の目尻から透き通る筋が細い道をかたどった。
『解った。解ったから、頼む。喋らないで』
ジャケットを脱いで彼女を包み、強く抱きしめても出血が止まらない。
『克也……を、お願いね……。あの、子だけは、普通の……暮らし……』
血に濡れた手が辰巳の頬へそっと触れた。その冷たさは、外気で冷えたものとは違っていた。辰巳の背筋に冷たいものが走り、無意識に身を震わせた。
パトカーのサイレンが微かに響き、それがものすごい勢いで近づいて来た。
『二代目っ、早くずらからないと、まずい』
古賀が背後から辰巳の腕を取った。甲高くてけたたましい古賀の声が、やたら耳障りで苛ついた。無駄に加乃へ振動を伝えて負担を増やす彼の腕が無性に辰巳を苛立たせた。何より、途端に冷静な判断が可能になった彼の存在そのものが癇に障った。
『なあ、古賀』
加乃に負担を掛けたくなかった。辰巳は残る腕で加乃をアスファルトの床へ静かに横たわらせた。
『お前さあ』
呟くような小声で言葉を紡ぐ。ゆらりと立ち上がって小柄な彼を見下ろした。
『これが加乃だって、知っていたな』
自分の腕を掴んでいた彼の右手を掴み返してからそう問うた。
『動揺を装って、俺が撃たなきゃお前が撃て。親父の指示はそんなところだろう』
もう一方の手で、取り上げた彼の拳銃をこめかみに当てながら、確信を持って問い質す。
『う、あ、え、いや、ちが』
『ま、今更そんなことはどうでもいいか』
不意に質問の無意味さに気が付いた。恐怖で腰を抜かす古賀に合わせて、こちらも膝を折ってやる。
すべては、どう足掻いてももう遅い。克也は警察の手許に、そして加乃は、赤い海で溺れている。
『ご苦労さん、もう休んでいいよ』
辰巳の面に、目だけが笑っていないアルカイック・スマイルが浮かび上がった。
――チュ……ンッ!
古賀の拳銃が辰巳によって、持ち主に弾丸の牙を剥いた。
『た……つみ……』
その声で思考が息を吹き返し、砕け散った醜い赤からようやく視線を逸らすことが出来た。
『か、の……』
まだ失わずに済むかも知れない。諦めていたものが、声を聞かせてくれたことで淡い期待に取って代わった。
辰巳は無駄にした数分を取り戻す勢いで加乃の傍へ駆け寄った。
『加乃、もうすぐ警察が来る。一緒に病院へ』
加乃は辰巳の言葉を遮り、小さく首を横に振った。
『また、繰り返……す、だけ……辰巳、は……克也、を……』
『大丈夫だから! 克也もちゃんと保護してもらって』
『辰巳、以外は、信用、出来ない。私が、この道……選んだの……だから……責めないで、自分の、こと』
そう言って震える腕を力なく伸ばして来る。汚れた自分の手にためらいを感じつつも、そっと彼女を抱き起こした。初めて見るその白さは、明らかに死の色を帯びていた。
『ごめ、んなさい……辰巳と克也……私、どちらも……同じくらい……』
ごぼ、と聞くに堪えない音が、その言葉とともに吐き出された。
『喋るな。俺が何とかするから』
『も……無理……時間、ないの。……聞いて……お、ねが……い』
彼女の声が、返して来る彼女の腕の力が、どんどん小さく弱っていく。覚えのあるこの光景。七年前の母と加乃が、揺れる辰巳の視界でクロスする。細っていく命に縋る想いで、強く彼女を抱きしめた。
『ごめん、なさい……私、あなたの……母、おや……に、は……なれ、な、い……』
『頼むから、もう喋らないでってば……』
薄々気付いていた彼女の胸の内。ただひたすらに克也だけを想い、それだけの為に自分の傍らにいると決めたに過ぎない。
独りよがりだった自分を改めて思い知らされる。自分が彼女に求めたものが、彼女に誤解されたままで。
『加乃。違う』
『聞いて、お願い』
命懸けで封じられれば、それ以上言葉を紡げなかった。
彼女は一度大きく息を吸って、それから苦しげに吐き出した。
『あの子……うさぎと、一緒……独りに、しないで……あげ……』
耳許で囁かれる必死の声に、ただ黙って何度も頷く。その度に零れ落ちる自分の涙が彼女の首筋を濡らしていった。
『辰巳……克也と、同じくらい……愛してる……たつみ、は?』
問い掛ける声のあとに、小さくくすりと零れた笑い。思い出す、花火の夜。試すように困った声で、やはりこんな風に笑った。あの時と同じ「困った子」という呆れを交えた、どこまでも自分を受け容れる母親のような音色だった。
『おんなじ、よね……。じゃあ、私の、最期のお願い……解る、よね……?』
――笑顔を保っていられる内に……克也に醜い最期を見せたくないから。
淡い期待が、音を立てて崩れていく。足掻いても、否定しても、加乃の消え掛けている命が零れていく。月下美人よりも白くぬける肌が、徐々に弛緩していく彼女の全身が、彼女に死が迫っていることを告げていた。
初めて口にされた加乃自身の為の、願い。自分が叶えてやれる、最初で最期の願いごと――。
『……辰巳……楽に、させて……』
辰巳は加乃を耳許から離すと、彼女を再び冷たいアスファルトに横たわらせた。ぐしゃぐしゃの涙顔のまま、深くて長いキスを施す。名残を惜しむように啄ばむと、彼女の口角が微かに上がる感触を辰巳のそれに伝えて来た。
誰よりも、愛していた。それがどんな意味合いであろうと、初めて愛した女は、間違いなく加乃だった。
彼女に伝わっているだろうか。言葉に託し切れないこの想い。愛されなかった者同士だから、という訳じゃあない。加乃だから、愛していた。
――チュ……ンッ!
サイレンサーの掛かった銃声が微かに響き、銃弾が加乃の心臓を貫いた。