第五章 Kiss Me 1
――セックスよりも、キスが好き。だって、キスは愛がなくちゃ出来ないわ。
雛鳥に餌を与えるような、ホンモノの愛を感じない? ねぇ、辰巳――。
翠が東京へ旅立ったその夜、克也の涙腺が壊れた。彼女は店からアパートに戻るや否や、玄関先で泣き崩れた。
「ボクが誰かを好きになると、皆すぐどこかへ消えちゃう。加乃姉さんも、翠も、辰巳だって一回ボクの前から消えたじゃんかっ」
――辰巳までどこかへ行ってしまわないで。
克也はそう言って子供のように縋りついて泣き続けた。そんな彼女が眠りに就くまで、辰巳はずっと小鳥が餌を啄ばむようなキスを施しながら繰り返した。
「傍にいるから。もう独りになんかしないから、大丈夫」
孤独に堕ちていきそうな彼女へ、訴えるように囁き続けた。
寝息が聞こえ始めた頃合いを見てベッドから出ようとすると、すぐ目覚めては再び泣く。
「明日には元気になるから。今日だけだから。お願い、傍にいてよ……」
そう言ってまた涙腺を緩ませた。
「……」
幼い頃と違い、今の克也は十七歳だ。さすがに一瞬ためらいが生まれたものの。
「ずっとこうしてるから」
結局甘い保護者は、彼女の求めるままに抱き寄せた。
ようやく穏やかな寝息が聞こえて来ると、今度はこちらの方がその心地よさで離れがたくなってしまう。腕の中で眠る義妹の香りが、加乃の甘いそれとよく似て来た。いつの間にか恋をする年頃になったのだと改めて認識する。辰巳は克也の初恋の相手を思い出し、眉間に深い皺を寄せた。やったことに悔いはないが、克也から翠を奪う形になるとは思わなかった。
「加乃、俺はどうすればよかった?」
呟いてみても、心の中にいるはずの加乃は、やはり答えてはくれなかった。
――もう一度、加乃に逢いたい。
眠る克也を抱き包んでいるうちに、いつしか辰巳も深い眠りに堕ちていた。
加乃や克也と一緒に暮らして、間もなく半年が経とうとしていた頃。その頃には克也もすっかり辰巳に懐き、目の前で安心し切って眠れるほどになっていた。普段ならばそんな彼女の寝顔を見る度に顔をほころばせてしまうところだが、その日は少し微妙な気分だった。克也と加乃にとって初めての花火大会が始まろうとしていたからだ。
『昼間から楽しみにしていたから、はしゃぎ過ぎて疲れちゃったのね』
そう言って笑う加乃に、
『折角ベランダで手持ち花火もしようと思って買って来たのに』
と文句を言いながら、渋々克也を寝室に運んだ。未練がましくもう一度克也を起こしてみるが、大口を開けて寝息を立てたまま起きる気配がまったくない。
『ちぇ。来年まで見れないんだぞ。すっごい綺麗なのに、目の前の花火』
力一杯指で額を弾いても、克也はぴくりと眉さえ動かさない。辰巳はさすがに諦め、渋々リビングへ戻った。
リビングのテーブルには、加乃がオードブルとワインを用意してくれていた。
『今年は大人だけでゆっくり楽しみなさいってことよ、きっと』
彼女はそう笑いながらリビングの照明を消し、辰巳の隣へ腰掛けた。ふたりで花火を見ながら、彼女の手料理を口に運ぶ。
『うまっ。なんかすごい勢いで腕を上げてるよな』
加乃は辰巳の感想に面映い笑みを浮かべ
『今日は貴美子さんから直接教わりながら作ったの。彼女、今日が花火大会ってことを知っていたから』
と上達の理由を教えてくれた。その名に一瞬眉をひそめてしまう。そうやっていつも自分のいない時間を見計らって訪ねて来ては、見返りのない支援を守谷姉妹に施す。そんな貴美子を思うと、彼女を愛せなかったことに罪の意識を抱かざるを得なかった。
『あの人なら私達の世界でも充分生き抜いていけそう。なんでも出来て気働きがよくて、器用な人。彼女がいなかったら、私って本当に何も知らないままだったわ』
そう言ってしばらく黙した加乃が、ためらいがちに訊いて来た。
『ねえ、辰巳。彼女は本当にただ保護していただけの人?』
俯き加減でそう問う加乃の表情は、花火の灯りだけでははっきり読み取ることが出来なかった。花火の色彩さながらの様々な想いが、辰巳の中で弾けては尾を引いて消えていく。加乃の問いの根底にある想いが、まだ彼女から返答をもらっていない辰巳には推測できない。だからそれが嫉妬であればと期待する反面、貴美子に対する罪悪感がそう願ってしまう自分を責め立てる。そんな自分の眉間に嫌悪の感情が不快の皺を刻ませた。
『貴美子の言ったことがすべてだろう』
自分でも意外なほど冷たい声が響いた。それ以上触れるな、とその冷たさが訴えていた。加乃も察してくれたのだろう。その話題にそれ以上触れることはなく、辰巳から視線を逸らすとしばらく花火に魅入っていた。
『辰巳の部屋からだと、東京湾の花火が一望なのね。ずっと夢だったのよ、目線の高さから眺める花火』
加乃が気まずい沈黙を拭うように、声を弾ませてそう言った。
『花火を見下ろせるほど高いところに住む人は、みんなお金持ちで幸せなんでしょうね』
加乃のその言葉が、辰巳の中に新たな不快の染みをつけた。
『金で買えないものだってある。俺は別に自分が幸せだとは思ってない』
彼女の言葉を聞き流せずに、反論を並べ立てる自分がいた。
堅気になれない自分の立場。海藤の所為で母親が死んだこと。自分の関係者を組の跡目につかせたい面々との駆け引きによる疲弊の毎日。そんなものが幸せだとは思えない。辰巳はそれらを彼女へあげつらえ、自分の置かれた立場を「幸せ」だと位置づける加乃を批判した。
『こんなくらいなら、貧乏でもいいから堅気で静かに暮らしたい。六畳二間の安アパートでもいいじゃん。加乃と克也と、三人で普通に暮らせる方がよっぽど幸せ』
そんな辰巳を、加乃は笑う。
『だから辰巳はお坊ちゃんなのよ』
加乃はそう言って、そっと触れ合うだけの軽くて儚い“家族のキス”を辰巳の唇に施した。
守谷姉妹の奇妙な風習。特に克也が不安や恐怖で震えている時、加乃はまず克也にそっとキスをする。克也の震えや嗚咽が治まるまで、それを何度も繰り返す。
最初はそれを見て面食らった辰巳も、次第にそれが劣悪な環境で育った彼女達なりの、言葉では伝え切れない思いを伝える手段なのだと、なんとなく理解した。そこに淫靡な意味合いはまったくない。そして今の加乃のそれも。
『……挨拶のキスは、もう飽きた。加乃はなんで俺の傍にいるの?』
辰巳は駄々をこねる子供のように華奢なその身を自分から引き剥がした。いつも答えをはぐらかされ、結局曖昧にされてしまう。加乃が何を考えているのか解らない。酔いが手伝ったこともあるが、それ以上に不安が限界に達し、とうとう口から零れ出た恰好だった。
彼女の穏やかな笑みが不意に消えた。再び宿ったのは、今にも消えそうな寂しげで儚いつくり笑顔だった。
『セックスがしたいの? 私が娼婦だから』
どこかほかの女と違い、考え方のピントがずれている加乃。彼女を欲しいと思った魅力の一つは、彼女のそういうストレートで飾らない言葉の与える気楽さが心地よかったからだ。だが、さすがにこのシチュエーションでそれはないだろうと、辰巳は軽い眩暈を覚えた。
『そうじゃ、ない』
零れた声の小ささに、頬がかっと熱くなる。
『何回も同じことを言ってる。いつもそうやってはぐらかす、加乃は』
訴えようと強めた声は、まるで玩具をねだって屁理屈をこねる子供の不満げな声に聞こえた。
『克也をちゃんと戸籍に入れて、家族の形をとろうって……結婚しようって……家族が、欲しいんだって、言ってるじゃん……』
尻すぼみになっていく自分の声。自信を持てないことなんてここ数年経験した記憶がない。辰巳は収拾がつかなくなった気まずい沈黙を持て余し「克也が目覚めて掻き消してくれないか」などとご都合主義な期待を脳裏に過ぎらせた。
ソファの軋む音が隣で啼いた。加乃の白く細い手が辰巳の膝に触れるのを、俯く視界の中で見た。思わず顔を上げれば、彼女は目の前から辰巳を見下ろしていた。
『加乃?』
彼女の重みが膝に掛かる。反射的に細い身体を抱きしめた。
『……!?』
誘うような舌に唇をノックされると、辰巳はためらいがちに受け容れた。初めて、“挨拶”とは違うキスをした。
『克也以外にキスしたのは辰巳が初めて。だってキスって、愛がなくちゃ出来ないと思わない?』
そう耳許に囁く声は、なぜか、どこか、哀しげで。辰巳の膝へまたがる恰好で腰掛けたまま見下ろす彼女の微笑は、今にも消えそうに見えて、支える腕に力が増した。
『親鳥ってね、雛鳥の為に餌をよく砕いてから、雛の喉奥深くまで入れてあげるの。自分だってお腹が空いているでしょうに』
彼女はそう呟くと、辰巳から視線を逸らして俯いた。
『こういうキスも、そういう感じ。セックスでは、ホンモノの愛なんて感じない。本能でしかないんですもの。だから私は、セックスよりも、キスが好き』
彼女から突然答えを差し出され、辰巳は言葉を失った。感情が麻痺して、思考だけがやかましく巡る。
『辰巳、愛してるわ。克也と同じくらい――辰巳は?』
克也と同じ、くらい――?
同じという意味が解らず、その言葉は辰巳を混乱させた。
『今のとおんなじキスが、私に出来る? それなら、私の心もあげる』
加乃の告げた最後の言葉が、一瞬辰巳の脳裏に過ぎった疑問を掻き消した。
ベランダのガラス扉から零れ入る花火の彩る光が、ソファに埋もれていくふたりのシルエットを妖しく浮き上がらせた。
白い腕に抱かれながら、彼女の胸に口付ける。ぼこり、とタールのように粘った気泡が、胸の内に弾けて、飛んだ。黒く粘った飛沫が、辰巳の内で弾け散ってはまた湧いて来る。
やっと彼女が受け容れてくれたはずなのに。タールが辰巳の欲を絡め取り、黒い警鐘を激しく鳴らした。
――克也と同じくらい、愛してる。
ぼこりとその言葉も弾け飛び、その飛沫が辰巳に黒い染みを落とした。加乃にとって自分は弟みたいなもの、という意味だったのだろうか。
不意に湧いたその疑いを拭いたくて、彼女の手を取り、指を絡める。白く華奢な細い腕が、花火で鮮やかに照らされた。それを目にした瞬間、大きな黒い気泡が膨れ出す。それがぱちんと粘りのある音を立てて、辰巳の中でゆっくり爆ぜた。
白い腕。白い肌。儚げな微笑と、宝物を死守する強い瞳。月下美人を彷彿とさせる無垢な花、それは――。
『――か、あさん……?』
その夜の花火は辰巳と加乃に、なんの進展ももたらしてはくれなかった。




