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第四章 守護の契約 1

 ――あんたに拾ってもらった命だから。必ずこの恩に報いるわ。

 貴美子の言葉は、彼女のそれに値しないほど穢れている自分を痛感させた。

 罪の意識を噛み殺し、敢えて彼女に微笑み掛ける。

 彼女だけが、克也と翠を守ってくれる。そう信じられる唯一のひとだから――。




 翠を見舞った克也から仔細を聞いて以来、辰巳は電話を恨めしげに眺めては視線を逸らす日々を送っていた。そう遠くない内に起こるであろう来栖家の未来を思えば、ためらっている暇はないのだが。

「また高木に借りを作るのもなんだしな」

 辰巳は一人で留守を預かる『Canon』のキッチンで、簡易椅子に行儀悪くあぐら座りをして紫煙を燻らせていた。彷徨う視線が、また電話を睨みつける。

「……」

 克也に買出しを頼んだ今が、高木と連絡を取る絶好のチャンスだ。彼女が来栖家の現状を知れば、きっとまた自分を責めるに違いない。高木との会話を彼女に聞かれたくはなかった。

『ボクの所為だ……ごめん、翠。ごめんね』

 漂う煙が目に沁みる。克也の寝言と泣き顔を思い出す。

「克也が悪いんじゃない」

 聞く人のない店で、ぽつりと呟く。償うべきは自分だと解っていた。

「……見栄を張ってる場合じゃない、か」

 辰巳は忌々しげに煙草を捻ると、ようやく電話を手に取った。


『高木だ』

 相変わらずの無愛想な声が、辰巳の鼓膜を震わせた。今回の件までは比較的平穏な生活だったので、彼の声を聞くのは久し振りだ。

「ども、ご無沙汰でっす。なんでも屋の辰巳でーす」

『冷やかしの電話なら切る。こちらはお前と違って、秒単位で忙しい』

 腹が立つほど淡々とした声で、単刀直入に話せと切り込まれた。辰巳は心の中で溜息をつきつつ、声音を戻して本題を告げた。

「ちょっと頼みがあるんですけど」

『来栖翠の件か。随分派手にやらかしらそうだが』

 さすが高木だ、話が早い。

「正解。翠ちゃんを貴美子嬢に託したいんです。彼女なら信頼出来る堅気ですし、似た経験を持っている。何かにつけ彼女が適任かと思うんで、高木さんから彼女に打診してもらえます?」

 辰巳はそう切り出し、そう遠くない内に翠に新たな保護者が必要になる事態についての予測も高木に伝えた。

『翠君の堕胎時に名を貸した男が彼女を脅迫したという案件を、小磯が揉み消したそうだな。小磯がお前に食って掛かられたと零していた』

「詫びを入れといてください。その件を明るみにすることは、翠ちゃんとそのバカ兄貴の件を暴露することに繋がるって今なら解ります」

『お前や克也君の存在もな』

「……解ってますよ」

『事実を聞かされた母親が病院に入った、とか』

「ええ。翠ちゃんは小磯さんの世話になっているそうですね」

『辰巳、裁いたところで、彼女の母親の心が帰って来る訳ではない』

 高木にそう諭されるまでもなく、今の辰巳もそれについては諦めていた。

「それも解ってます。小磯さんから聞いてますか、彼女が東京への転校を希望していること」

『ああ。相談を受けたが考えあぐねていたところだ。貴美子君の推薦はありがたい』

 その続きの言葉がない。妙な沈黙に嫌な予感がして、辰巳から誘い水を掛けてみた。

「翠ちゃんの父親も、ことを穏便に運んだあなたの紹介であれば信頼して快諾するでしょうし、段取りの方、よろしく頼みます」

『紹介の件ははやぶさかでないが、丸投げはいただけないな。貴美子君の連絡先はお前も知っているだろう』

 高木からの意外なストロークに、一瞬言葉を詰まらせる。まさかこの仏頂面が、こんなストレートな運び方をするとは思わなかった。

「“被害者と接触しろ”なんて、警察が加害者を煽っていいんッスか」

 遠回しにノーの答えを高木へ伝える。

『婦女暴行罪のことを言っているのであれば、それは彼女が令状を取り下げさせただろう。人に黒星をつけておいて、当人が忘れているとは腹立たしい限りだな』

 皮肉る彼の低い声が、幾分か勝利感を孕んでいた。

「つまんないとこで報復しないでくださいよ」

『まだ彼女は怒っているぞ。連絡先ぐらい教えてやれ』

 お見通しと言わんばかりの声に臍を噛みつつ、白旗を揚げざるを得なかった。

「……ケチ」

『彼女は相変わらずあの会社で頑張っている。話がついたら知らせろ。私から来栖の自宅へ赴こう。では』

 高木は辰巳の返事も待たず、一方的に電話を切ってしまった。

「高木のケチ」

 トーン信号を発する受話器に向かって、もう一度呟いた。

 ほどなくドアベルが克也の帰宅を知らせた。

「ただい……あれ、こんな朝早くに電話? 珍しいね」

「お帰り。間違い電話だった」

 辰巳は何食わぬ顔でそう答えて克也に笑みを向けた。




 久我貴美子、という向こうっ気の強い設計事務所の営業担当と出逢ったのは、辰巳が十八歳の時だった。海藤組の傘下にある建設業者の本命物件を片っ端からさらって行った怖いもの知らずの新人担当。彼女はある意味業界を荒らしていった。当時の業界には暗黙のルール(談合)があった。貴美子の正攻法の前では何も言えない業者達が、海藤周一郎に泣きを入れて来たことが発端だった。

『高卒の小娘の分際で、私の顔に泥を塗ったようなのでな。処分をお前に任せる。その場で処理しろ』

 と、海藤は面倒臭げにさじを投げ、組長としての指示を辰巳に下した。

『なかなかのタマだぞ。手懐けられるならば、くれてやってもいいが、どうする』

 という不本意な選択肢を申し添えて。随分麻痺したとは言え、やはり自ら手を下すのはいい気がしない。

『見てから決めます』

 取り敢えずはそう言って組長の私室を出た。


 海藤の部屋を出てからようやく無表情を解放すると、真っ先に浮かんだのは眉間の皺だった。手懐けるということの意味を思えば、また母の末路を連想する。同じ手を使えと平気で自分に命じる実父への憤りに拳が震えた。

 言われた個室の扉を開けると、真正面の床へ直接座らされ両手足と口を封じられている彼女と目が合った。震えている癖に、屈することのない強い瞳だけは怯むことなく辰巳を見据えていた。確かに“上玉”だと思った。女としてだけではなく、この状況でも自分の正義を曲げないという彼女の人間性そのものが。

 刹那の時間、逡巡する。自分の力量、自分がどう行動したら海藤が次にくだすであろう指令の予測を数パターン。そしてそれぞれの対応に対し、周囲を固める部下達がどう反応するかというシミュレート、そして彼らの装備――。

(逃がすとしたら、百パーセント無傷で返すのは不可能、か)

 苦渋の選択の末、彼女の傍へ跪いた。強張る彼女の頭を手繰り寄せ、そっと彼女に囁いた。

(命は助けてあげる。その代わり、今からすることには我慢して。ごめん)

 答えられずに腕の中でもがく彼女を押さえつけ、背後の数人へふざけた口調で伝言を頼んだ。

『これ、俺がもらう。親父にこの部屋借りるって伝えておいて』

 背後で下卑た笑い声が空気を揺らす。彼らは小さく返事をすると、二人を残して部屋を出た。

『――ッッッ!!』

 盗聴器とRECランプの灯る監視カメラが設置されたその部屋で、貴美子を自分の「女」にした。




 貴美子をそのまま自分のマンションへ連れ帰った。二人を送った組の者が部屋を去ると、彼女は辰巳の手を振り解き、強い拒絶の意思を示した。

『ここに住め? 冗談じゃないわ。なんであんたみたいなガキに命令されなきゃいけないのよ!』

 飼い馴らすには、彼女のプライドの高さと負けん気の強さがあまりにも自分と似過ぎていた。

『訴えてやる! こんなこと、アタシは恥だなんて思わない!』

 そう咆える彼女は、まるで虚勢を張って鳴く手負いの犬のようだった。乱れた髪や衣服、取れかかったメイクや必死で潤むものを堪える瞳が、彼女の身体以上に心を傷つけたと嫌でも辰巳に認識させる。思い切り叩かれた頬を押さえることさえ罪に思えた。

『殴って気が済んだなら、これからしばらくの間は俺の言うとおりにして。でないと本当にバラされちゃうから』

 懇願の言葉とともに、彼女の腕を取った。途端、腕に予想以上の負荷が掛かった。

『いゃ……っ!』

『!』

 彼女のすくんだ足が、恐怖の限界を越えてくずおれた。手に伝えて来る彼女の震え。そんな自分に口惜しさを感じているに違いない、唇を噛む苦い表情。――まるで海藤に屈している今の辰巳そのものだった。

『……本当に、ごめんね。ホントに……ごめん』

 海藤以外の人間に自ら膝を折るのは初めてだった。だが、悔しいとは微塵も思わなかった。

 思えばその時の二人は、同じ表情をかたどっていたのかも知れない。海藤の手の内で踊らされ、二人して密かに歯噛みする。マンションの狭い廊下のフローリングを小さな雫が数滴濡らした。

 こうべを垂れて土下座する辰巳の頬に、冷たく細い指先がそっと触れた。

『あんた……本当にアタシを助けるつもりで、あんなことしたの? どうしてあれで助かるの?』

 彼女の柔らかな声音を、その時初めて聞いた。穏やかなメゾソプラノの声が、自分に発せられてよいものとは思えなかった。

『親父は“英雄、色を好む”が持論だから。俺があいつと同じ選択をすると、あいつの対応が甘くなる』

 そう、と呟く彼女の声には、何かを諦めた溜息が混じっていた。

『あのクソ親父から、責任持ってアタシを守りなさいよ。その代わり、しっかり“なんちゃって彼女”に徹してあげる。アタシはどうすればいい?』

 滑舌よいその口調と問われた内容に思わず顔を上げてしまう。くすりと苦笑を漏らした彼女は、ポケットから取り出したハンカチを乱暴に辰巳の前へ放り投げた。

『さっさと頭を切り替えなさい。まったく、ヤクザの癖にお坊ちゃま育ちだなんて、これからこの世界でやっていけるの?』

 そんな憎まれ口に引きずられる形で、辰巳も立ち直されていく。彼女の放ったハンカチは、使われないまま彼女に返された。

『海藤辰巳。年は十八。表向きの肩書きは成蹊工科大学情報科学部の学生さん。貴女には当分見張りがつくと思うけど、さっき俺たちを送ったうちの一人、赤木は俺の腹心だから信用して大丈夫。ほかに必要な情報は?』

 掌で顔を拭って再び貴美子に面を見せる時には、変わらぬ不遜な笑みを取り戻せていた。

 それから加乃達と暮らすまでの数年間を、貴美子と偽りの同棲生活で過ごした。最初の数ヶ月ほどは監視の絶えなかった海藤の目も徐々に緩んでいき、録画ディスクも処分された。

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