第三章 傷だらけの天使 4
映画のように、物事が克也を置き去りに流れていく。どこか他人ごとの気分でそれらを眺める自分がいた。
「まったく、えらい派手にやってくれやがったな、ぼんぼん」
小磯が頭を掻きながら憎々しげに辰巳を見上げ、昔周囲が辰巳を揶揄した呼び方で愚痴を零した。
「あは、またやっちゃいましたー。ごめんなさーい」
辰巳は負い目を感じたからか、場違いなふざけた物言いで小磯の説教を軽く受け流した。
「小磯さんに後始末を丸投げするのもなんなんで、ちゃんと事後も考えましたよ。あそこの少年が俺の代わりに出頭してくれ」
「バカヤロウ!」
やっぱり、と克也が感想を抱くと同時に、小磯の本気の罵声が飛んだ。
「前途洋々の未成年を犯罪者にする気か、この鬼畜が!」
会話の内容と笑顔があまりにも似合わない辰巳のその申し出に、小磯の張り手が辰巳の左頬を思い切り打った。辰巳の顔が真横へ放られるように角度を変え、長い金色の髪が彼の目許を隠した。
「……ぃって……」
「余計な貸し借りなんか考えてねえで、そのリミッター切れをどうにかしろ、っつてんだよ、俺は」
「だって、これ以上高木に借り作るの嫌だし」
「そう思うなら、なおさらだ。こんな田舎でそうそうキレられたら、そう何度もこっちだって隠し切れるもんじゃねえ。ことを起こす前にまず克也ちゃんのことを思い出せ。このバカが」
きつい口調と裏腹に見せた小磯の眉間に浮かぶ皺と、辰巳の無表情が、克也の脳裏に焼きついた。
「ふぅ。とにかく、お前はあの坊主と一緒に署まで一度来てもらうぞ。それと、克也ちゃん」
呼ばれて初めて傍観者ではない自分の立場を思い出した。
「は、はい」
絞り出した声で、喉がひりりと痛んだ。
「表沙汰に出来ねえから、覆面でこの子を運ばせる」
小磯はそう言って翠を顎でしゃくって示し、付き添いを克也に託した。翠の両親は、親戚の婚礼とやらでまだ連絡がつかないらしい。克也が黙ってこくりと頷くと
「大丈夫だ。俺が必ず辰巳を克也ちゃんとこに届けてやるから、心配すんな。な?」
もう置いていかせやしないから、という小磯の言葉が遠い昔を思い出させ、却って克也の不安を余計に煽った。
翠は縫合の処置を終えても目覚めることなく、ただひたすら昏々と眠り続けた。時折流す無言の涙を拭うことしか、今の克也の出来ることはなかった。
つけっ放しのテレビから夕刻のニュースが流れて来る。全国枠で報じられたその速報事件の現場名が、克也の意識をテレビ画面に向けさせた。
『本日午後二時頃、松本市××の八階建マンションに爆弾が投げ込まれる事件が発生しました』
容疑者は東和会系暴力団構成員であり、自分の投げ込んだ爆弾の被爆で死亡。覚せい剤乱用の疑いがあり、警察が追尾中の人物だったとキャスターが無機質な声で報じていた。
『連休によるレジャーなどで留守宅が多かったことと、事件の直前に警報が鳴るという誤作動があった為、在宅の住民の殆どは既に避難所へ避難していました。死傷者は八名、内二名が死亡とのことです。この事件で死亡したのは容疑者のほか、このマンションに住む公務員、来栖勇輝さんの長男、煌輝さん』
キャスターの声を、ボタン一つで無理やり止めた。うっすらとブラウン管に映った克也の瞳は、自分でも呆れるほど醒めていた。
薬物乱用による無差別の犯行という設定なのだろう。遺体は恐らくでっち上げだ。弾痕を消せないからマンションごとふっ飛ばして証拠隠滅を図ったに違いない。私情を一切含まず最善を講じる高木なら、間違いなく小磯にそんな指示を出すはずだ。
「……真実は、藪の中、ってか」
姉の事件の時と、同じ。なかったことにされてしまう。傷ついた心を置き去りにされたまま、存在自体まで消されてしまう。
翠の寝顔を遠慮がちに見下ろす。目覚めを恐れるように、麻酔が切れてもまだ起きない。克也は微動だもせずに眠る翠の横顔を不安な面持ちで見つめていた。
もう、トモダチではいられなくなるのだろうか。自分や辰巳を赦してはくれないだろうか。
――兄さんは違うの。依頼したのは、アタシを……。
翠はあんなことをされていても、それでも兄を守りたいと願った。それほど、彼女は家族を愛していた。家族を亡くす辛さを知っているはずの自分達が、彼女に同じ痛みを与えてしまった……。
「翠……ごめん」
涙を拭う手がそっと触れても、翠は拒まない代わりに応えることもしなかった。
克也は翌朝駆けつけた両親と入れ替わる形で、翠の意識が戻るのを待つことなく病院を後にした。翠の意識が戻ったのは、それから四、五日過ぎた日の午後だった。
「克美さん、いつもありがとう。今朝方翠の意識が戻ったの。今日は無駄足にならなくて本当によかったわ」
今日も翠の母は、少し疲れた笑みを零す。だが無理をそれほど感じない。息子があんな死に方をしたというのに、煌輝の名すら彼女の口から出て来ない。疑問を抱かないではなかったが、勘がそれに深入りするなと訴えるので、克也はその疑問を心の奥底に封じ込んだ。
「翠、お待ちかねの克美さんよ。毎日来て下さっていたんだから、ちゃんとお礼を言いなさいね」
翠の母が屈託のない声でついたての向こうへそう呼び掛けると、久し振りの声が克也を呼んでくれた。
「克美ちゃん? わあ、待ってたの。入って、入って」
その明るい口調が却って克也の不安を呼んだ。
翠の母は、克也が見舞いに持って来た花を活けて来ると言って病室を出て行った。ぎこちない空気が病室内を満たす。ベッドサイドの簡易椅子へ腰掛けた克也の恰好を見て、翠から口火を切って来た。
「それね。前に辰巳さんが言っていたミニスカスーツ」
力なく微笑む翠から、それさえも消え失せた。
「うん。……野郎の格好は、その」
「キツいかな、なんて? もう、気を遣っちゃって」
似合うよ、と言ってそっと膝に手を置く。その手はひんやりと冷たかった。
「いいよね。克美ちゃんはどんな服でも似合っちゃう。ああ、でもレディースは大人っぽい、こういうデザインの方が似合うかも」
その饒舌さが不自然過ぎる。また翠が自分の前でも仮面を被ってしまった気がする。
「アタシみたいに行動がおどおどしちゃうと、ボーイッシュなものって似合わないのよね。克美ちゃんは」
「翠。もう無理しなくていいから。……今日逢ってくれただけで、充分だから」
ごめん、とようやく口にした。やっと彼女に伝えることが出来た。泣けば余計に苦しめる。克也は一旦言葉を切って、ぐっと奥歯を食いしばった。
「もう逢ってもらえないと思ってたんだ。翠、ホントにごめん、ボク」
「しー」
小さな声と克也の握り拳を包んだ翠の右手が、克也の言葉を遮った。
「大丈夫。一ヶ月遅れるけれど、ちゃんと高校へ入学出来るみたい。あれだけ頑張ったんだもの。いつまでも入院なんてしていられないわ」
そう言って半ば無理やり他愛ない話に戻していく。そしてやはり翠の口からも、煌輝のことは一切出て来なかった。
「翠、ここに飾っておくわね」
病室へ戻って来た彼女の母が、窓辺に花瓶を置いて荷物整理をし始めた。
「ありがとう。お母さん、今日は克美ちゃんがいてくれるし、お母さんも学校の入学準備やアパート探しで忙しいんでしょう? 帰っても大丈夫だから」
でも、と翠の母が、ちらりとこちらを見遣る。翠が心配というよりも、教師としての自分の責務を優先したそうな瞳をこちらへ向けていた。
「ボクが帰る時、看護師さんに声を掛けていきます。あとは看護師さんが気に掛けてくれると思うから」
彼女の本音に唖然としつつも、翠の顔色を見てそう答えた。
「そう? じゃあお願いしちゃおうかしら。今年度は一年生の担任になるから、準備するものが多くてねえ」
彼女はほっとした顔で自分の都合をひとしきり零すと、荷物をまとめて病室を出て行った。
しばらく二人でその後ろ姿を見送った。ふと翠の方へ視線を移すと、先ほどまでの不自然な笑みも消え失せて。苦しげな遠い瞳で、もう見えなくなった人をまだ追っていた。次第に翠の横顔が、眉根に深い皺を刻んで崩れていった。
「……母さんね、何も、覚えてないの。兄さんのこと」
その横顔に透き通った光の糸が一筋伝う。窓から射し込む陽射しがそれを悲しげに瞬かせた。
「覚えて、ない……って……まさか」
「たった数日前まで、あんなに兄さんに怯えていたのにね。あっという間に忘れちゃってるの。目覚めて最初に言われたのは、『今回の事故は、あなたが今までして来たことのしっぺ返しなんだから、心を入れ替えて高校でやり直しなさい』って。――母さんの中で、兄さんとアタシがごちゃ混ぜになってるんですって。主治医の先生が教えてくれた」
「うそ……」
翠の母は、マンション爆破事件そのものは認識している。なのに、翠の今回の怪我は、別件の工事現場での事故が原因だと自分の中に構築してしまっているとのことだった。翠が目覚めたことを知らされた主治医は、検査と称して彼女の母に席を外してもらい、母の症状を翠に説明したらしい。
「話を合わせてあげないと、母さんの心が壊れちゃうんですって」
一時的なショックという名目で、翠にも彼女の母と同じ精神科の主治医がついたそうだ。翠が独りで抱え込まないように、という病院側の配慮らしい。
「母さんといると……ほんの数分でも、疲れるの。兄さんとの思い出とアタシとの思い出がごちゃ混ぜになっていて、どう答えていいのか困っちゃうの。アタシ、ずっと頑張って来たのに、母さんはそれを全然覚えてなんかいなくって……。母さんの中に、アタシが、いない、の」
震える唇が、紡げば紡ぐほどわななく。溢れて来る涙は克也が初めて見るもので。
あんなに家族自慢をしていたのに。
『いいもん。アタシには父さんと母さんがいるんだから。羨ましいなんて思ってあげないっ』
辰巳の誕生祝を途中から抜け出して遊んだ時に、そのことを話した直後の翠が言った言葉を思い出す。克也を羨ましがらせたその一言が虚言だったと、今になって初めて知った。
「もっともっと頑張れば、アタシを見てくれると思ったのに。頑張っても、頑張っても、当たり前になっちゃって……母さんも父さんも、出来て当たり前の人だから……頑張らないと出来ないアタシじゃ、ダメ、なのかな、とか……だけど、まだ、今よりは……よか……っ」
掛け布団を握りしめる小さな拳が、皺の跡をシーツに刻む。濡れた染みがそれを斑模様にし始める。克也は慌ててハンカチを差し出した。
「謝って済むことじゃないけど……ホントに、ごめんなさい。ボクが」
ボクがもっと早く気づけていたら。
受け取ってもらえなかったハンカチを引き戻しながら言い掛けたその言葉は、翠の言葉で塞がれた。
「お願い、克美ちゃんまでアタシを嫌いにならないで……」
一度は引いた克也の腕が、寄せて来た彼女の身を反射的に抱き返す。翠は小さな肩を震わせて、ためらいがちに、でもはっきりと「嫌いにならないで」と言った。
「翠……」
口に出来ない自分の不安。翠のその言葉を素直に受け取れないでいた。
兄の仇とも言える自分にしか、縋ることが出来ない孤独。母親の心が壊れ、兄も死に、話を聞いた限りでは、父親も翠を見ていない。兄の仇である自分にしか話す相手がいないのだ、翠には。決して自分が赦されたからでは、ない。
「好きで兄さん以上の器量を持った訳じゃないわ。アタシはみんなが好きなのに、どうしてもアタシの所為で家族がいがみ合うの……アタシはただ、喧嘩や暴力のない、昔の家族に戻りたかっただけなのに」
懐がじめりと湿った感触を受け取る。翠は子供のように泣きじゃくり、思ったままの言葉を吐き出した。
「兄さんを恨んでなんかいなかった。赦してくれるなら何でもした。だってアタシの所為で兄さんがいっぱい傷ついて来たんだもの。昔はあんな兄さんじゃなかった。好きだって言われて、嬉しかったの。アタシの欲しいものとは違う意味でも、憎まれているよりはマシだと思ったの。兄さんが悪いんじゃないの。アタシなのに……なのに……辰巳さん……」
翠が辰巳の名を口にした途端、彼女の全身が強張った。克也には、傷に障らぬよう怯えるその身体をそっと抱き返すことしか出来なかった。
「ごめんなさい……。克美ちゃんみたいに、辰巳さんのそういう部分まで知って、それでもまだ好きだなんて……思えな……ごめ……なさ……」
「もういいよ。自分を責めないで。頼むから、もう口にしないで」
克也の声まで上ずった。彼女を苦しめている存在と彼女を秤になど掛けられない。それが、克也を苦しめた。
「アタシには、克美ちゃんしかいないの」
辰巳を憎めたらいいのに、と初めて思った。煌輝に対する翠の気持ちも、こんな苦しいものだったのだろうか。
「アタシ、頑張って乗り越えるから。だからお願い。嫌いにならないで」
翠が、幼い子のように首にしがみついて泣く。あんなにも欲しかった言葉を、出会って間もない頃にはこんな形で告げられるとは思わなかった。こんな立場の自分になってしまうと、その想いは罪の意識を増させるだけで。
純粋なまでに人を憎めない、傷だらけの天使。
自分よりも幼いこの少女が、どれだけの時間たった独りでたくさんの人の想いを受け止めて来たのだろう。憎まれる辛さを誰よりも知っているから、誰かを憎むことさえ自分に許せない。まだこんなに脆くて弱くて儚いのに、独りぼっちで全部抱え込んで、どれだけ苦しんで来たのだろう。
克也は、彼女がくれた想いの応えとばかりに抱きしめながら、心の中で懺悔の言葉を繰り返す。いるはずのない神に、彼女に救いをと切に願う。
「……日本にそういう習慣はないんだから、人さまにしちゃダメって言われてるんだけどね」
克也は少しためらいながらも、促すようにそっと翠から少しだけ身を離した。びしょ濡れになっている翠の頬に張りついた栗毛の髪をそっと撫で除けて、顔を自分の方へ上げさせた。
「どんな言葉で伝えたら巧く翠に伝わるのか、ボクはよくわかんないんだ。だから」
そっと彼女の額へ唇を寄せる。切ないくらいに胸が痛い。「ごめんね」と「信じている」と「ありがとう」とそれから――すべての願いと想いをこめて、彼女の額へそっと触れるだけのキスをした。
「か……つみちゃ」
「翠、だいすき。辰巳を赦せない気持ちとか、ボクも辰巳と同罪なのに、そんなボクの為に頑張るって言ってくれる、そういうの全部ひっくるめて、すき」
だから、独りぼっちだなんて思わないで。いつかまた、心から笑えるその日まで。
「翠が赦してくれる日まで、ボク、ずっと待ってるから。無理して自分を責めないで、ボクに待たせてくれないかな……」
克也の言葉で弾かれたように再び懐に収まる翠が、何度も何度も繰り返す。
「アタシも好き」と、「辰巳さんから逃げる自分を赦して」と、「必ず乗り越えるから見捨てないで」と、縋りついて繰り返す。その言葉に乗せられた想いが、克也の心に深く小さな穴を数え切れないほど開けていく。
「どんな翠でも、ボクは変わらないから。だから、もう謝らないで」
克也は彼女へそう囁き続けた。克也の初めての恋は、あまりにも手痛い形で失われた。
あれ以来、翠は一度も『Canon』に来なかった。一度だけ、あの事件に居合わせていた小阪隆明が挨拶に来た。
「翠、東京の学校へ転校することになったんだ。俺も向こうの専門学校へ行くことにしたから」
翠を守ってくれる人が現れるまで自分が守るから安心して、と彼は克也に苦笑を投げた。
「本当は翠も克美ちゃんに会いたいと思うんだ。明日、見送りに行ってやれないかな」
もう三ヶ月近く会っていない。声さえも聞いていない。隆明の言葉はかなり克也を迷わせたものの、結局首を横に振った。
「約束したんだ、翠からの返事を待つって。だいすき。頑張って。それから、翠が帰って来るのを、ずっとここで待ってるって、伝えてくれる?」
勝気な翠に、またあんな姿を晒す惨めさなんて味わわせたくなかった。
後になって、不安に思う。また選択を誤ってしまったのではないかと怖くなる。
「辰巳……ボク、いつか赦してもらえるのかな」
気休めでもいい。答えが今すぐ欲しくて呟いた。
「赦すも何も、お前さんはそういう立場じゃあないだろう」
キッチンを片しながら、辰巳が無表情でそう答えた。
「それに俺は、赦されないならそれで構わないと思ってる。あのままだったら遅かれ早かれ妹殺しに発展していたからね」
俺が翠ちゃんを傷つけたのは確かだけど、と添えられた言葉は、少しだけ小さくくぐもった。
「大丈夫。憎まれ役、汚れ役は俺の専売特許だから。お前さんが気にすることはないんだよ」
そう言って笑った辰巳の瞳の奥は、眼鏡の反射でどんな色を浮かべているのか解らなかった。
ノートから『mie』が書いた依頼ページを千切って、裏稼業のファイルに綴じ込んだ。
ファイルの表紙には、辰巳が書いた『×』の印。
後味の悪い結末の依頼だった。