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第一章 喫茶『Canon』の裏稼業 1

 ボクの好きなもの。昔は加乃――ボクの姉さん、だけだった。


 今のボクが好きなもの。

 辰巳が淹れる、ウィンナコーヒー。

 姉さんの名前からとった『Canon』という、このお店。

 姉さんが大好きだった辰巳っていう存在そのものが、ほかの何よりも、一番、好き――。




 信州、松本市。駅前大通を南へ曲がって少し進んだ裏小路に、古びたテナントビルがそびえ立つ。その一角で慎ましやかに営まれているのが『喫茶Canon』。目印はビル入口の案内板に掲げられた、木目のプレートに白いフラクトゥーアの文字。今日もその下に、早朝からオープンの札を掛けているのだが。

「ぐはぁ、今日も午前中は閑古鳥かよぉ」

 カウンター席で問題集を解いていた克也の嘆く声は半ば叫びに近かった。

 大きく伸びをしながら、保護者兼家庭教師の懐柔を試みる。

「ね、辰巳。やっぱボクが外に出てお客を引っ張って来た方がいいと思うんだ」

 通勤通学前の忙しい時間は、駅前に並ぶスタンドコーヒーのチェーン店に客を取られてしまうから。そんなもっともらしいことを言うものの、克也の本音は別にある。

「結構でーす。閑古鳥を見越した上で店を開けてるんだから」

 辰巳の瞼が半ば閉じた剣呑な目つきになるのが、伊達眼鏡越しでもくっきりと解る。それを見た途端、克也の作り笑いが固まった。

「どうせ勉強から逃げる口実なんだろう」

 辰巳はそう言いながら、大きな吊り目の中でうろたえる克也の瞳を覗き込んだ。

「う……」

「学校なんか行きたくないって、高校進学を拒否ったのはお前さんでしょ。俺はこれでも一応お前さんの保護者なんだから、教育義務ってのがあるんです。解ったら、あと五分で設問3までやるっ」

「うぅ~……鬼っ」

 克也は束ねていた長い髪をゆるりと解いて、顔を隠すよりほかに逃げ場がなくなった。


 静寂が戻った店で、お湯の沸くコポコポという音が響く。店内に流れるバロック音楽が、それと見事にコラボレートする。

(う、ダメだ、やっぱ。眠たくなって来る)

 水飲み鳥のように首がかくんと落ちて、閉じ掛けた克也の瞼を垂れた黒髪が撫でていく。克也は慌てて頬杖をつき、寝ていないことを主張した。

(あれ? お説教が飛んで来ないや)

 克也は怪訝に思い、こっそりと辰巳の様子をうかがった。

「……くっ」

 彼がキッチンの簡易椅子に腰掛けて読んでいるのは、店の中央テーブルに置いている、いわゆる「落書き帳」という奴だ。客同士のコミュニケーションツールにと辰巳が置いたそれは、いつの間にか辰巳や克也へのメッセージや、相談ごとなどを記されるようになっていた。それを見て堪え切れずに噴き出す辰巳の横顔は、常連客の皆がよく知る『マスター』としての柔らかい顔つきだった。

(よかった、バレてなかった)

 克也はほっと胸を撫で下ろし、無精ひげを生やしたままのだらしない横顔をしばらくぼんやりと眺めていた。

 辰巳のもうひとつの顔を、お客のみんなは知らない。「何でも相談に乗ってくれる、お兄さんのようなイケメンマスター」と学生達に慕われ、彼らにカウンター席を争わせるのが、今目の前にいる辰巳。彼が寝ぼけて姉の加乃と克也を間違えては抱きついて来る甘ったれだと知っているのは、自分だけ。誰も彼の「正体」を知らない。普段の辰巳が脱色した金色の髪だとか、その前は明るめのナチュラルブラウンだったとか、わざとだらしない風貌で店に立つ理由だとか、そして何より、皆が克也を「克美」と呼ぶのに、彼だけが「克也」と呼ぶ理由も、知らない。

 そんな風に、ひとつひとつ「辰巳の家族は自分だけ」と思える証拠を言葉にする癖がついてからどれくらい経つだろう。婚約者だった姉の死をきっかけに、克也は辰巳の養子になった。その時「戸籍」という社会的な意味で、初めてこの世に「海藤克美」が生まれた。

 辰巳は、きっと知らない。克也が辰巳のお荷物になっているんじゃないかと思っていること。早く大人になって、辰巳を自分から自由にしてあげたいと思っていること。早く辰巳のように、大人であって子供の部分も忘れないで包んでくれる、そんな理想の“男”になりたいと思っていること――。

 鼻歌交じりで返信のシャープペンシルを走らせる辰巳の横顔を見ているのが、段々苦しくなって来る。同じシャープペンを握る自分の手を見つめる。

(辰巳に比べて、なんでボクはこんなに細くてちっちゃいんだろう)

 それが、悔しい。自分が本当は女だなんて、まだ納得なんか出来てないから。

『私達を買いに来る男と自分は全然違う? 当たり前よ、大人になったら克也にもひげが生えるし、背だって急に高くなるわ。体つきも変わるだろうし』

 加乃のついた嘘を思い出す。

『克也にアレが生えて来たら、大人になった証拠』

 辰巳に身請けされるまで娼婦をしていた加乃は、嘘がとても巧かった。加乃に匿われて暮らして来た売春宿にある押入れの一角。同じ部屋で暮らす女達と加乃。それが克也の世界のすべてだった。そんな中で男だと言い含められ、当たり前のように暮らしていたのだから、幼い克也に彼女達の嘘を見抜けるはずがなかった。

「あ、こら。まーたサボってたな。克也ならこの程度の問題、とっくに出来てていいはずだ」

 唐突に降って来た言葉で、咄嗟に顔を上げてしまう。いつの間にか落書き帳の返信を書き終え、それを中央テーブルへ戻していたらしい。自分の隣から見下ろす辰巳と、まともに視線が合ってしまった。

「……なんて顔してんの、お前さん」

 そして辰巳の口角の片方だけが、ゆるりとわずかに上がっていく。眉間に縦皺がうっすらと浮かび、困惑を表した。克也は無意識の内に、両手を握りしめていた。辰巳にそんな顔をさせてしまう、幼稚な自分が嫌いだった。

「別に」

 そう言って笑うが、頬が攣れる。

「またなんかヘンなこと考えてたんでしょ」

 そんなお見通しとばかりに上から言われ、くしゃりと頭を撫でられてしまうと、ぽろりと本音が零れてしまう。

「……ボクはいつまでもちっさいから」

「は?」

 辰巳の眉根から皺が取れ、代わりに疑問符が彼の頭上に飛び交っていた。小首を傾げる彼の手を取り、自分と掌を合わせて見せる。

「いつになったら、辰巳とおんなじくらいになるかな。手とか、身長とか、それに、中身も」

 早く大人になりたい。一人前になりたい。そして出来ることならば。

「髪も、ばっさり切っちゃいたい」

 請う面持ちで辰巳を見上げる。言外でもうひとつを願う。解って欲しくて重ねた手をきゅ、と握った。

「だめ。今の克也に必要なのは、女の子でいても普通に暮らせる実感を持つこと。実際女の子なんだから、とりあえず形からって随分前にも言ったでしょ」

 そう言って放された手が、解ってなんかあげないと克也を突き放したように感じられた。ぬくもりの遠のいた手を見つめ、それをきゅ、と握りしめる。小さく細く、華奢な手。ひとりでは冷たい、血色の悪い白い手。

 借金のかたとして親に売り飛ばされた加乃。赤ん坊は邪魔になるから、と店主に隠れて克也まで加乃に押しつけたらしいと、昔、部屋の売春仲間達が言っていた。

『加乃のお陰で、あいつらの借金が完済したらしいわよ』

『克也までこっそり育てて、加乃もいい貧乏くじだね』

『そこから出たら、匿ったあたしたちまで店主に酷い目に遭わされるんだから。勝手に出て来たら承知しないからね』

 そんな“女”になれるとは思えない。店主に買わせるほどの、そして辰巳に自分込みで身請けさせるほどの、美人でもないし女らしさの欠片もない。料理は男なのに辰巳の方が巧いくらいだし、加乃のような機転の働く繊細な気配りも持ち合わせてない。そんな自分が女だなんて、とてもではないが思えなかった。

「……ボクは加乃姉さんみたいになんか、なれないもん」

 零れた声は、とても小さかった。

「ん?」

 背中を向けた辰巳が振り返った。聞こえなかったと聞き返す声に、燻っていたモノが溢れ返った。

「幾ら加乃姉さんの真似をさせても、ボクは加乃姉さんにはなれないからっ。髪なんか伸ばしたって後ろ姿が似るくらいで、余計辰巳が苦しいだけじゃんか」

 声を荒げて言いながら、辰巳の顔をまともに見れない自分がいた。禁句だと解っている理性が、克也の顔を上げさせなかった。

「!」

 不意に頭上から影が落ちた。離れていったぬくもりが、手ではなく頬へ戻って来る。それも、両頬に。促されるまま顔を上げると、間近に見える義兄の顔を捉え、条件反射で瞳を閉じた。

 ほんの刹那だけ触れる柔らかな感触。頑なな気持ちが溶けていく感触。巧く言葉で想うことを伝えられない、そんな時に交わす『家族のキス』。姉が辰巳と自分に教えてくれた、巧く言えない気持ちの伝え方。


 ――身体はただの器だけど、キスは愛がなくちゃ出来ないわ。ねえ、克也、そう思わない?


 加乃の言葉と辰巳の想いが克也の中でクロスする。頬から消えたぬくもりに合わせて目を開いて辰巳を見ると、また別の表情を浮かべた辰巳が苦笑していた。

「昨日の雪菜ちゃんが言ったこと、気にしてるな、お前さん」

 最近常連になった女子高生の名を口にした辰巳の顔は、明らかにヤバい顔つきだった。

「俺が買い出しに行ってる間に、あの子に絡まれたんだって? アールクンが教えてくれたよ。彼女曰く、『克美ちゃんなんかどうせマスターにとってお姉さんの代わりでしかない癖に』だったっけ?」

 口許は笑っているが、目が全然笑っていない。そしていつの間に情報を集めたのか、しっかり内容を把握している。

「あ、や、えっと全然ボク、気にして」

「アールクンは雪菜ちゃんが好きなんだとさ。俺の嫌いな女のタイプを訊かれたそうだから、克美を泣かす奴、って答えておいた。健気だよねぇ、アールクン」

 そう言いながら、常連客のどちらにも全然同情なんかしていない。寧ろその後の顛末の報告をすごく楽しみにしているような、弾んだ口調でそう言った。客観的に克也が思うに、どちらかと言うと。

「……辰巳、おとなげない……」

 自分でさえ相手はお客だからとぐっと堪え、笑って聞き流したことなのに。声高に笑う今の辰巳の方が、よっぽど自分よりもガキに見えた。

「裏で汚い嫌がらせなんかする雪菜ちゃんの自業自得。ザマーミロって思っておきな」

「ひでえ、辰巳が好きなだけなのに」

 そう言いながらもつい笑ってしまう。潤んで揺れていた視界が笑った拍子に零れ、克也の視界がクリアに戻った。

「俺らのことをなんにも知らない他人じゃなくて、俺の言うことを信用しなさい。ね?」

 辰巳の言ったその一言が、遠い昔、一度声を失くした時に彼の言ってくれた言葉を思い出させる。

 ――克也は加乃が俺に遺してくれた、唯一無二の宝物。

「八つ当たりして、ごめんね」

 少しだけ無理をして笑顔を作ると、辰巳が極上の笑みを返してくれた。


 いつもこんな風に、曖昧なまま仲直りする。いつもこんな風に、どこか違和感が消えないまま終わる。いつまでそんな宙ぶらりんな関係が続くのだろう、と時々克也は不安になる。戸籍の上では父と娘。感覚的には義兄と義弟。考えると落ち着かなくて、胸を掻きむしりたくなる。だから早く一人前の大人になりたかった。辰巳と対等になれる、大人の“男”になりたかった。例えば辰巳の戦友、高木のように。例えば二人に初めて出来た信州での友人、(ひかる)や北木のように。そうすればきっと、こんなもやもやとした感覚も消えると思った。

「早く大人になりたいな」

「勉強しなくて済むからか?」

 鈍い辰巳は克也の繰り言に、そんな的外れな合いの手を入れて来た。

「そうそう」

 きっと辰巳には解らない。だからそういうことにした。

「甘いな」

 閑古鳥の店内でそんな他愛のない話をしながら、二人は暇な時間をやり過ごした。




 からん。

 午前中には滅多に鳴らないドアベルが、二人の思考を義兄妹から店員へシフトさせた。

「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ」

 辰巳が柔らかな営業スマイルをドアの方へ投げ掛ける。それに合わせて克也も慌てて席を立ち、来客への水を用意した。

「あの……」

 おどおどとした、それでいて少し驚いた表情で辰巳を見つめる客は、初めて見る中年の女性だった。

「もし変なことを申し上げていたらすみませんが」


 ――こちらのスペシャルメニューをお願いしたくお伺いしたのですが。


 満面の愛想笑いを浮かべていた辰巳の顔が、少しだけ残念そうな顔になった。

「そうですか。失礼しました。どうぞ、奥の事務所へご案内します」

 辰巳のその声を受けて、克也も彼女とすれ違うように入口の扉の方へ向かう。表の『営業中』を知らせるプレートを『準備中』に裏返した。


 スペシャルメニュー。


 それは、合言葉。懇意にしている人の間だけに口伝いで広がっているそれは、『裏稼業』の客であることを知らせていた。

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