木漏れ日のとある日
「……ふぅ、よし!」
夏樹は、額に滲んだ汗をリストバンドで拭うと、トレイルランニング用のバックパックの位置を微調整した。
外に出るだけで容赦なく体力を奪うような、灼熱の日曜日。以前の夏樹なら、クーラーの効いた部屋で読書かアニメ三昧だったはずだ。それが、ここ最近は毎週のように近くの山へ通っている。
原動力は、至極単純。恋だ。
高校3年の、最後の夏。ずっと片思いしている、サッカー部の高杉君に告白する。
そのためには、この中途半端な体型をどうにかしなきゃいけない。運動不足解消のために始めたランニングだったが、アスファルトの単調な道よりも、自然の中を走るトレイルランに魅了された。
最初はダイエット目的だったけれど、今では、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、山道を駆け抜けること自体が趣味と言えるほど好きになっていた。
「今日も、頑張るぞ!」
自分に気合を入れ、夏樹は登山道へ足を踏み入れた。
山道は、地元の人によってよく整備されている。ほとんどが気の遠くなるような階段続きだが、道は背の高い木々に覆われていて、天然の屋根のようになっている。木陰を渡る風は涼しく、街中の酷暑が嘘のようだ。
「……あ、ここ好き」
永遠に続くかと思われた階段を抜けると、視界が一気に開けた。
そこは、少し広くなった尾根道で、木々の隙間から陽の光が降り注いでいる。木漏れ日が、緑の葉や茶色の土をキラキラと照らし、まるで森が呼吸しているかのような美しさだ。夏樹はこの場所がお気に入りだった。ここを走るときだけは、疲れも忘れて、体が軽くなる気がする。
「高杉君、見ててね……!」
独り言をつぶやき、木漏れ日の中を軽快に駆け抜けていく。
……その時だった。
「……? あれ?」
視界の端に、何か白いものが映った。
木漏れ日に照らされて、眩しいくらいに白い、何かが。
夏樹は足を緩め、そちらを振り返った。
それは、一人の少女だった。
木の根元に座り込み、うつむいている。
真っ白なワンピース。この強い日差しの中でも、どこか青白く見える肌。そして、長く伸びた黒髪が顔を隠していた。
「……大丈夫?」
夏樹は、心配になって声をかけた。こんな山の中に、あんな格好の女の子が一人で? もしかして、迷子か何かだろうか。
少女は、ゆっくりと顔を上げた。
……その顔を見て、夏樹は息を呑んだ。
目がない。
いや、目があるべき場所が、真っ黒な空洞になっているのだ。
そして、その空洞からは、真っ赤な血が、涙のようにダラダラと流れていた。
「……ヒッ!」
夏樹は、恐怖で体が硬直した。心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
逃げなきゃ。そう思うのに、足が動かない。
「……私、きれい?」
少女が、不気味な声で尋ねた。それは、まるで風が鳴いているような、この世のものとは思えない声だった。
「……あ、う……」
夏樹は、声も出ない。ただ、少女から目が離せなかった。
「……これ、私の」
少女は、そう言うと、夏樹の方へゆっくりと歩き出した。
……その瞬間、夏樹は驚愕した。
少女が、真っ赤な血で汚れた手を伸ばしている。その手には、何かが握られていた。
……それは、高校の制服のボタンだった。
見覚えがある。……高杉君の制服の、第ニボタンだ。
「……これ、私がもらったの。……夏樹ちゃんには、あげない」
少女の空洞の目が、夏樹を捉えた。
……その瞬間、夏樹は、少女の正体に気づいた。
彼女は段々その小学生くらいの大きさが同じ高校生くらいまで大きく見えた。
数年前、行方不明になった高杉君の元彼女だ。
行方不明になったのは確かこの山で?
なんで忘れていたのか、それは思い出せない。
そして、ここで……。
「……キャアアアアア!」
夏樹は、悲鳴を上げながら、全力で逃げ出した。
……でも、彼女の声が、耳元で聞こえた。
「……私、きれい? ……高杉君は、私のこと、きれいって言ってくれたよ」
木漏れ日が、夏樹の体を眩しく照らす。
……でも、その光は、もうキラキラと輝いてはいなかった。
それは、まるであの彼女の空洞の目から流れる血のように、真っ赤に染まっているように見えた。
夏樹は、二度と、あの山を走ることはなかった。
そして、高杉君に告白することも。
……あの日から、夏樹の耳には、ずっと風の鳴るような声が聞こえている。
「……私、きれい? ……高杉君は、私のこと……」
……木漏れ日の差すあの道を思い出す。
山に呼ばれているように感じてふと山をみるが、夏樹は固い意志であの山には近寄らない。
だが、あの日から変わったことがある。
体はモデルのように引き締まったし、家には今まで買ったこともなかった高級の美容製品。
夏樹は綺麗になった。きっとあの子よりも…




