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第2話 1992年②

 わたしは最寄り駅から中央線に乗り、あの駅へ向かった。

 「mer(メル) bleue(ブル)」は、駅から少し離れた場所にあるらしい。




 あれからいろいろ調べた。「下衣(かい)」をどちらかに決めてそれを申し込むには、専用の書類に本人のサインと拇印(指紋)が必要らしい。


 市役所の窓口でわたしが

「女性下衣選択法の書類ください」

と言うと、窓口のお姉さんは少し怪訝な顔をした。そして、保護者の方と一緒に書いてくださいね、と言いながら書類をくれた。

「〇月〇日に、係員が書類を取りに行きますから。締め切りは厳守ですよ。お家はどこですか?……あぁその地域なら、夜の10時頃になりますね」


 書類は、係の人が家まで取りに来るのか。お姉さんは「国勢調査と同じですね」と言った。わたしはコクセイ調査なんてわからなかったけど、これは好都合だと思った。


 どうせママは、勝手にスカートを選ぶつもりに決まっている。当日ギリギリになって無理やり書類を書かせ、夜の10時に来た係員に渡してしまおうって思っているんだ。


 そうはいかない。わたしは、ズボンを選ぶ。

 1人で書類を書いて、指紋を押して、当日書類を置いて家を飛び出せばいいんだ。わたしが10時まで帰らなければ、それを提出するしかないのだから。




 わたしは「mer bleue」の前に立った。

 中が薄暗くて、男物のジーンズやGジャンがディスプレイされた、女子には取っ付きにくい感じの古着屋だった。

 おそるおそる中に入ると、女性の店員が、いらっしゃいませぇ、と挨拶した。鼻に抜けるような、のんびりした声だ。

 女性店員は、背中まである真っ黒なロングヘアの前髪をピンでとめ、おでこを出していた。20歳くらいの、若い人だ。ラッパ形の裾のジーンズは、アルバムで見たパパの若い頃の写真みたいだった。ママが「ヒッピースタイル」と言っていたっけ。


 わたしは、あの雑誌に載っていた「リーバイス501」を穿いてみたい、と女性店員に言った。彼女は目を見開いて、あなたが穿くの?というような顔をした。でもすぐに、はぁい、と歌うような暢気な声で応じ、棚からそれを取り出して来てくれた。


 ゴワついたようなそれは試着室で穿いてみると、とてもやわらかかった。フロントのボタンを1つ1つ留めると、上等のコルセットみたいにわたしの下腹を覆った。そしてわたしの脚を、やわらかくまっすぐにつつんでくれた。


 カーテンを開けると店員の女性は、わぁ、と目を見開いた。そして、ねぇ見てみて、とバックヤードに声をかけた。すると、ヒゲも髪もモジャモジャの大柄な男性が出て来た。


「シンデレラ・フィットじゃない?」

女性店員の言葉に、男性はわたしを眺めて、おぉ、と言った。

「それ、雑誌に掲載されたアイテムだけど。お姉さん若いのに似合うね。高校生?」

はい、とわたしは嘘をついた。男性はよく見ると、日本人離れした彫りの深い顔立ちをしていた。


 8900円。わたしは財布から、お年玉の1万円を出してお会計をすませ、店を出た。




 ここからが勝負だ。今日は「女性下衣選択法」の書類を係員が家まで取りに来る、その日なのだ。書類は仕上げて、家に置いてきた。なんとか、夜の10時まで家に帰らず、逃げ続けなければいけない。


 まだ、夕方の6時。あと4時間、中央線を行ったり来たりして過ごすのだ。東京駅まで行って、折り返して立川か高尾か、とにかく終点まで行ってまた折り返す。そうしているうちに時間は経つはずだ。


 わたしは、電車に乗った人たちを眺めた。思い思いの服を着た女性たち。もうすぐ自由に穿くものを選ぶことができなくなるなんて、信じられない。わたしは、膝に乗せた紙袋の中のリーバイスをそっと抱えた。わたしはこれが穿ければいい。これを穿くためだったら、どんな不都合があったって「複筒」とやらを選ぶんだ。


 電車が東京駅で折り返して、やがてわたしの最寄り駅にさしかかった。するとなんとホームに、パパの姿が見えた。駅員さんやいろいろな人に声をかけながら、血相を変えて走り回っている。わたしは胸が痛んだけど、まだ9時過ぎだった。体を縮こまらせていると、電車は発車した。わたしはほっとした。次の駅で、大量に乗客が乗り込んだ。大混雑の車両は、わたしを確実に隠してくれた。




 ぎゅうぎゅう詰めの中央線が終点に着いた頃、腕時計が夜10時を知らせた。


 わたしの、勝ちだ。

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