第18話 2006年⑦
19時を過ぎ、わたしはまだ装美監理庁のオフィスにいた。
パーティションに区切られた会議スペースの中から、カミジョウ補佐が手招きした。
「華さん、資料作り疲れたろう。美味しいコーヒーがあるから飲んで行きなさい」
共用スペースなのにそこにはなぜか、カミジョウ補佐専用のドリップセットがあった。益子焼のようなカップに、補佐はコーヒーを淹れてくれた。
わたしは会議スペースの椅子に腰かけて、コーヒーを味わった。甘くて、ため息の出るようなようないい香りだ。
「すごく、美味しいです」
カミジョウ補佐は、にっこりと頷いた。
わたしは、この前ランチのとき聞いた話がとても気になっていた。今なら、聞いてみてもいいだろうか。恐る恐る切り出してみた。
「実は、この前から聞きたいことがあったんですけど」
「おお、なんだい」
わたしは、声をひそめて聞いた。
「この装美庁に『反社』事案があるって、おっしゃいましたよね。どんなものなんですか?」
カミジョウ補佐は、笑ってコーヒーポットを置いた。
「そんなことが知りたいのかい。いいよ、説明しよう」
すると、パーティションをドアのようにノックする音がした。
「補佐、またサボってるんですか。俺にもコーヒーご馳走してくださいよ」
入ってきたのは、誠順だった。片手に自分のマグカップを持っている。
「おお誠順くん。ちょうどよかった。華さんに、うちの『反社』事案について聞かれてね」
「そんなこと知りたいの? さすがだな」
誠順は、楽しそうにわたしを見た。
そういえばあの公園で、普通の洋服屋の姉ちゃんじゃない、なんて言われていたのだった。斜め前に座った彼の姿に、わたしは心臓がどきどきと鳴った。
「ほとんどが、ウェディング案件ですよね」
誠順にそう水を向けられ、カミジョウ補佐は頷いた。
「そう、ウェディング業者が複筒の顧客のために、偽造された『単筒証明書』を用意してお金を取って、それが奴らに流れる」
単筒・複筒の別は、専用の証明書に記載される。運転免許証と同じ、公的証明書だ。洋服を買う度に提示が義務づけられているわけではないが、求められる場合もある。アルコールを買うときのようなものだ。
中でも、結婚式でウエディングドレスを購入したりレンタルするときは、必ず提示が求められる。
「ウエディングドレスを着たい複筒の女性や、親御さんの心理につけこむってわけだ。つくづく、罪作りな法律だよ」
カミジョウ補佐はため息をついた。
「まさかっていうような有名な業者が、やってるんですよねえ。結局、それだけ需要があるってことなんですかね」
ウエディングドレスを着たいだなんて、わたしは1度も思ったことがない。でも、両親はどうなんだろうか。14歳で複筒を選んだときの母の取り乱しぶりを思い出して、わたしは胸が痛んだ。今になってはじめてそんなことを考えるなんて、わたしはなんて親不孝な人間だろう。
そもそもどうして、とわたしはつぶやいた。
「どうして、下衣選択法ができたんでしょうか…… すみません、質問ばっかりで。お話できないようなことだったらいいんです」
インターネットの掲示板では、下衣選択法についておどろおどろしい陰謀論のようなものが、まことしやかに語られていた。
真実は何なのだろうか。これまでこの法律に対して特別な興味はなかったわたしも、せっかく本丸ともいえる場所に来たのだから、ぜひ聞いてみたいのが本音だった。
カミジョウ補佐は、うむ、と頷いてコーヒーを一口飲んだ。
「案外、つまらないことなんだよ。一言で言うと、バブル時代の負の遺産だね」
バブル時代の? 訝しむわたしに、補佐はつづけた。
「バブル時代はとにかく皆お金があって、元気な女性たちも多かったろう? 派手な格好をしてディスコに通って、男たちをあごで使うような女性もいた。それを本気で心配したセンセイ方がいたんだな。このままだと、結婚し、子を産み育て、家族に尽くすような保守的な女性が減る一方だ。もっとそういう自覚を促すことはできないんだろうか、と」
誠順が傍らで、うんうんと頷いている。
「かと言って、女性の社会進出を阻むのも、建前上良くない。男女雇用機会均等法が施行されたばかりだったからね。では、役割を分けてはどうだろうと。将来的に、家庭に入り家族に尽くしたい人。そして、外で働き、活躍したい人。それぞれ心に思ってはいるだろうけど、外からそれがわからないとどうにも不便だ。そこで考えたんだな。前者なら、スカートを穿くだろう。後者なら、ズボンを穿くだろうと。そうして意思表示してくれれば、非常にわかりやすくて好都合だと」
わたしは、唖然とした。