第16話 2006年⑤
公園で依頼を受けてから2週間後、わたしは、霞が関の装美監理庁に通いはじめた。
mer bleueの定休日を利用しながら週に2,3日出勤し、ガイドラインの叩き台が完成するまで協力することになったのだ。
「華さん、一緒にランチ行きましょう」
声をかけてきたのは、オオシマさんだ。ごく平凡な名字のわたしは、早々に「華さん」と呼ばれるようになった。
「オオシマさん、さっきはありがとうございます」
彼女はつい先ほど、わたしの作った資料をコピーしてくれたのだ。大量の資料はきれいにステープル留めされ、あっという間に仕上がっていた。
「いやだー、お礼なんていいんですよ。あれが仕事なんですからあ」
膝丈スカートにパステルカラーのツインニットのオオシマさんは、可愛らしく返事した。リアル「カニちゃんOL」だ。洋服の仕事をしているのに、こうやってリアルなオフィスコーデを見る機会は、なかなかない。
「ランチ、カミジョウ補佐も一緒なんですけどいいですか?」
オオシマさんは、少し声をひそめてわたしに言った。おじさんなんですけどね。でも紳士だし、優しい人なんですよ。おごってもらいましょ。
ほどなく、そのカミジョウ課長補佐が合流した。ずんぐりとして目が優しい、鷹揚な雰囲気の人だ。わたしたちはオフィスを出て道路を渡り、別のビルの中の蕎麦屋に入った。
「mer bleueの店長さんとお仕事できるなんて、うれしくて。友達に自慢しちゃう」
とオオシマさんは、顔の前で両手を合わせた。
「有名店のハウス・マヌカンさんを引っ張ってくるなんてなあ。さすがは誠順くんだよ」
低くよく響く声の、カミジョウ補佐が言う。オオシマさんは、なんですかあハウス・マヌカンって、と口をとがらせた。
「ははは、今はハウス・マヌカンって言わないのかい。ブティックのお姉さんのことだよ」
わたしは、その節は大変お騒がせしました、と頭を下げた。
「いやいや、気にすることはないさ。でも誠順くんに、口説き落とされて来たんだろう。何しろやり手だからな」
口説き落とす、なんて響きに少しだけドキッとしながらわたしは、そうですねえ、と笑って答えた。
「そんなにやり手なんですか、彼は」
そうだねえ、とカミジョウ補佐は少しだけ声をひそめた。
「うちはこう見えても、ときどき『反社』事案があるからね。そういうのでも、彼はいい働きをしてくれるよ」
下衣選択法に、反社会的勢力が絡んでくることがあるのか。いったいどんな風にだろう。わたしは興味津々だったが、こんなところで詳しく聞くこともできないだろうから、黙って頷いていた。
めいめいに注文した蕎麦がきて、わたしたちはしばし、蕎麦をすすった。2週間前は、こんなところで蕎麦をすすっている自分など想像できなかった。東京には、わたしの知らない場所がまだまだあるのだ。
「誠順さん、東北の老舗旅館の御曹司なんですよ。だからゆくゆくは帰って、後を継ぐんですって」
オオシマさんが言った。
わたしは、へえー、とうなった。「反社」事案の次は、老舗旅館。頭がごちゃごちゃだ。
「惜しいよねえ。できるだけ、ここに長くいてほしいけどね。あの年代はただでさえ少ないんだから」
「私だって、今年で終わりですもん。次探さないと」
オオシマさんが言った。彼女は臨時職員で、今年度限りの契約だそうだ。今はどこもかしこも、非正規職員なしでは成り立たないのだ。
蕎麦屋を出てカミジョウ補佐と別れ、2人でコンビニに立ち寄っているときに、オオシマさんが言った。
「私ね、誠順さん狙ってたんですよ」
そうなんだ、と目を見開いたわたしにオオシマさんは、だって、と両手で口を覆って照れながら言った。
「あんなヨレッとした感じなのに、お育ちの良さがにじみ出ちゃってるんですよ。ときどき急に『あなたは』とか、言いません? あの感じで言われるともう、キュンキュンしちゃいますよね!?」
「ちょっとよくわからないけど……」
低い声で「あなたは」と物まねをしながら話すオオシマさんに、わたしは笑って答えた。
そうか、あれはわたしにだけじゃなかったのか。わたしは少し、いや大いに残念な気持ちになった。