第12話 2006年①
「吉祥寺には詳しいんでしょうね。勤めてもう長いんですか」
「近くの女子大に通ってたんです、勤める前から。もう10年近くになるから、ほぼ庭ですね」
「へえあそこの女子大だったんですか」
男は、意外そうにわたしを見た。
行列の先頭から、食欲を刺激する匂いがただよってくる。
わたしは20分前に出会ったばかりの男と、アーケード街にある肉屋の順番待ちをしていた。男が会うなりここのメンチカツが食べたいと言い出し、共に行列に並んでいるのだ。
「10年前入学なら、歳が近そうだな。女性に歳を聞くのは失礼だけど」
「2001年卒です」
わたしは答えた。
ああそうなんだ、俺は99年卒、同世代ですね、と男は言った。
「就職大変でしたよねえ。俺はなんとか今の所に滑り込んだけど、同期も後輩も少なくて、いつまでも下っ端だし。あなたの周りも大変だったでしょ」
就職難でサラ金に入社した彼氏がいたけど仕事を苦に失踪しました、なんてパンチのきいたネタを披露しても仕方がないので、わたしは、そうですね、皆苦労していましたね、と無難に答えた。
あれから4年、彼の消息はいまだにわからない。生きてはいるらしい、一応元気らしい、というレベルの情報が、風の噂で聞こえてくる程度だ。第一今でも、ネタにできるほど自分の中で割り切れてはいないのだ。
「だよなあ。本当にアホですよね。こんなに採用絞って、将来人手不足になるのは目に見えてるのに」
男はどこまでも穏やかに、世間話を続けている。わたしはなんだか怖くなってきた。
ようやく順番が来た。男はなぜだか威圧感のあるスーツ姿の長身をかがめ、メンチカツ2つ、コロッケ3つ、と注文する。
「おごりますよ」
意外なほど人懐こい笑顔で、わたしを振り向いて言った。やっぱり怖い。これで気を許したが最後、ひと思いに仕留められるのではないか。
でもこうなったのも、すべてわたしの責任だ。覚悟して受け入れなければいけない。怒涛のように過ぎたこの数週間を、わたしは思い出していた。
「いいねえ。全部これに仕立てようよ」
試作品を着た耀子さんを見て、わたしは言った。
フランスから仕入れたヴィンテージの布を耀子さんは、キャミソールワンピースに仕立てた。昔は「スリップドレス」といわれていた、この形のワンピース。わたしは、高校時代のサヤカを思い出した。
小柄でファンキーな耀子さんにも、よく似合っている。もう30代半ばになる耀子さんだが、いつまでも可愛らしいmer bleueの象徴だ。
うんそうしよう、と頷いて耀子さんは、さて、と周りをキョロキョロ眺めた。
「とっとと脱がないと。違法行為だもの」
ワンピースも、れっきとした単筒衣料なのだ。複筒の耀子さんやわたしがこれを着て外出をすると、違法行為になる。
耀子さんは、ワンピースを脱ぐ前にジーンズを穿いた。
そして何気なく鏡を見て、あら、と目を見開いた。
「何これ。意外とおしゃれじゃない……?」
スキニージーンズと、トップスの代わりに着たワンピース。
不思議な取り合わせだが、いいバランスだった。
わたしたちは、顔を見合わせた。
単筒と複筒が兼用できるアイテムは、これまでなかった。ましてや、今までにない斬新なコーディネイトが完成している。
ただ、法律的にこれは大丈夫なのだろうか。ワンピースが、下にズボンを穿くだけで複筒のトップスに変身するなんて、そんなことが通用するのだろうか。
「耀子さんこれ、単筒・複筒兼用で売り出してみたい。法律的にOKかどうか、確認しないといけないけど。どうかな」
どこか、焦るような気持ちがあったかもしれない。
mer bleueの人気や売り上げは変わらなかったが、服飾業界の雰囲気が変化するのを、わたしは感じていた。廉価な大量生産のカジュアルブランドが質を高め、ファッション性の高いものを出すようになっていたのだ。
フランス製のヴィンテージという付加価値だけでは、そのうち勝負できなくなるにちがいない。何か斬新なオリジナル商品を生み出さなくては。そんなことを考えていた矢先だった。
「いいよ。華にまかせるよ」
耀子さんも、きっとわたしの思いを理解していた。無責任に人まかせにする人ではないが、そう言ってくれたのだ。
わたしは次の日図書館に向かい、法律書を手に取った。
単筒の長さ、もしくは複筒を着用する際の上衣の長さ。それらの規定がもしあって、それに触れていれば、この計画は白紙だ。
法律文では、単筒を
「鼠径部、臀部、及び両足を、1本の筒状の布等で覆う形状の衣料」、
複筒を
「鼠径部、臀部を覆い隠し、両足を各々振り分け覆う形状の衣料」、
などと、単筒・複筒の違いを細かく定義している。
しかし、単筒の長さや複筒を着用する際の上衣の長さについての記述はない。つまり、今回のワンピースのようなケースはまったく想定されていないのだった。
そして、最後まで目を通しても「罰則」が書かれていない。
盲点をついたもの、と言われたらたしかにそうかもしれない。
しかし違反ではない。そして、仮に違反とみなされても罰則はない。それが、わたしの出した結論だった。