第11話 2002年③
わたしは夜中に目を覚ました。隣で眠っていたはずのヨシカワはベッドの脇に座り込み、ベッドにもたれかかって眠っている。目の前のテーブルにある灰皿には、吸い殻がたまっていた。
わたしと眠りについてもヨシカワは、すぐに目が覚めてしまう。目が覚めるとタバコを吸いながらぼんやり起きていて、いつしかまた、こんな風にうたた寝のように眠る。わたしは吸い殻に火がついていないか確認して、ヨシカワに毛布をかけた。
夜中の3時だった。つけっ放しのテレビでは「翌朝まで生テレビ」という、老舗討論番組をやっている。
画面右上のテロップには
「激論!ド~する?!『制定10年・女性下衣選択法』」
とあった。
あれから、もう10年か。
画面に映るショートカットの女性がフリップを片手に、滔々と話している。
「本法制定後、単筒の女性と複筒の女性の各種データの概要が、こちらでございます。単筒の女性の就職率は、30代で著しく下降し50代で緩やかに上昇するという、典型的なM字カーブを描いています。一方複筒の女性はこの下降があまりなく全世代で就職率が安定している一方、婚姻率が単筒女性と比べ、有意に低下しており……」
大学の同級生の、サトウさんだった。彼女は気鋭の若手論客として、有名人になっていた。主張は専ら「女性下衣選択法撤廃」だ。大学の頃からこれは、ゆるがない彼女のテーマなのだった。
「データは承知した、しかしこれは、本人の選択という大前提があるね。大部分の女性は単筒を選択した、つまり女性は仕事より婚姻を選びたい、ということを表しているんではないかという見方がある。これに対してあなたはどう説明する?」
司会のベテランジャーナリストが、サトウさんに鋭く指摘した。
「それには強く反論します。なぜなら特に若年女性の単筒選択には、両親の意向が深く関わっているというデータがあり……」
わたしは、彼女が好きだった。
ずば抜けた弁舌、そしてどんなにアウェイでもまったくめげない精神。お友達になりたいかは別として、その強さをわたしは尊敬していた。
エキセントリックなところはあるけど、少なくとも、利口なつもりで彼女を見下して笑っている子たちなんかよりは100倍立派だ。そうわたしは思っていた。
でも今のわたしは彼女に、あまり共感できなかった。言っていることが間違っているわけではない。わたしがこの法律に、すっかり興味を失っているのだ。
この10年の間、世の中の景気は悪化するばかりだった。有名な銀行や証券会社が次々潰れた。治安も悪くなり、今まで聞いたことがないようなテロや凶悪事件も起こった。そんな世の中で、女性下衣選択法は「たかが女性の服の話」扱いされるようになっていた。
自分が自由に服を選べないとかそんなことより、mer bleueがこれからも人気を維持するにはどんな服を売り出していったらいいのか、そして、過酷な職場で疲れきった彼氏が、どうしたら元気になるのか。わたしにとって、そちらの方がよほど重要だった。
ヨシカワが目を覚まし、気だるそうに身を起こした。画面を眺め、興味がなさそうにリモコンを手にとり、チャンネルを替えた。
「あ、ごめん。観てた?」
「ううん全然。ボーッとしてた」
替えた番組は、旅番組の再放送だった。沖縄の海が映っている。宮古島だ、とヨシカワは言った。学生時代、夏休みの度にアルバイトで訪れていたことを、ヨシカワはこれまで何度も話してくれた。
行きたいなあ、沖縄。行くかあ。ヨシカワはつぶやいた。
「華も、行く?」
ポツンと出てきたヨシカワの言葉に、わたしは、行きたい行きたい、と食いつくように答えた。
「行こうよ、今度の夏休み絶対行こ。宮古島も本島も。宮古島でダイビングしたいな。海行ってシュノーケルして、沖縄料理たくさん食べて、泡盛も飲んで。ね?」
ヨシカワは、はしゃぐわたしをボーッと眺め、うん、と短く返事をした。せっかく誘われてうれしかったのに、わたしは梯子を外されたみたいにポカンとするしかなかった。
新宿の駅ビルで催事があり、mer bleueが出店することになった。わたしは1人で出張し、催事にあたることになった。
新宿には、ヨシカワのオフィスがある。帰りに待ち合わせて一緒にご飯でも食べよう、とわたしはメールを送った。ヨシカワは、何時に終わるかわからないけど、時間が合えば、と返事をした。
催事の片づけが終わったのは、21時頃だった。ヨシカワにメールを送ると、22時くらい、とひと言だけの返信があった。わたしは時間をつぶし、22時にもう一度メールを送ったが、返信はない。
わたしはあてもなく、西口コンコースの交番の前に立って、ヨシカワのオフィスがある方向を眺めていた。
20分くらいして、ヨシカワの姿が見えた。その姿はJRの改札ではなく、鉛色のコンコースを横切り、別の方向へとずんずん歩いていくのだった。
ヨシカワは、見たことがないくらいおっかない顔をしていた。わたしは夢中で彼に走り寄って、その腕をつかんだ。
「どこに行くの」
腕をつかまれたヨシカワは、魂が抜けたような呆然とした顔で、わたしを見つめた。
中央線に乗って帰る間、わたしたちはずっと黙っていた。
最寄り駅に着いて改札を抜け、わたしはヨシカワの手をつないだ。とても冷たい手だった。
華、とヨシカワが、はじめて声を発した。
「好きだよ」
わたしは、うれしいのにものすごい胸騒ぎがして涙があふれ、何も言えなかった。
それから、ヨシカワは行方不明になった。メールの返信もなく、携帯もつながらなくなったのだ。
ようやく連絡が取れたのは、10日後だった。わたしは仕事以外は必死で、彼を探し回っていた。
最寄り駅を歩いていると、携帯が鳴りだした。見慣れたヨシカワの名前と番号が表示され、わたしはあわてて電話を取った。
今どこにいるの、と聞くわたしに、ヨシカワはひと言、沖縄にいる、と答えた。
「沖縄…… いつ帰ってくる?」
ヨシカワは、何も答えなかった。そのまま電話は、切れた。
華の彼氏は兵士だね、という耀子さんの言葉を思い出した。
ヨシカワはきっと、必死で逃げた。自分を守るために。これでよかったんだ。
いや、これでいいはずがない、わたしは何もできなかったんだ。
さまざまな思いが、頭の中をぐるぐる回った。
見慣れた駅の構内を、大勢の人が行き交っている。
ここで、好きだよ、と言ってくれた。あれが、最初で最後だ。
駅から家への道を、わたしは1人で泣きながら歩いた。