第10話 2002年②
「吉祥寺はいいよな。仕事からここに帰ってくると、ちゃんと人間に戻ったって気がする」
そんなことを言ってヨシカワは、瓶ビールをわたしのコップに注いだ。
2週間後の土曜日、わたしたちはこの街で待ち合わせた。あの後メールをしてもヨシカワはやはり何も覚えておらず、要領を得なかった。でもすぐに快く、わたしの誘いに乗ってくれた。
現れたヨシカワはこの間のくたびれきった彼とはちがい、さっぱりとした顔をしていた。わたしは、大きな公園の近くにある焼き鳥屋に行きたい、とリクエストした。煙がもうもうと立ち込める、古くさくて開放的で大きな店だ。美味しい焼き鳥が、1本80円で食べられる。
人間に戻るって、なんなのだろう。やっぱり、そんなに仕事が過酷なのか。でもわたしは、仕事のことは向こうから話し出さない限り、聞かないことに決めていた。
窓ぎわのテーブル席に座ったわたしたちは、開いた窓から外を眺めた。公園への道がすぐそこにあり、通行人がよく見える。
思い思いの服装の人たちにまじって、制服を着た女子高生が何人か通る。彼女たちは相変わらず元気で、スカートが短い。
「女子高生はどこ行ってもあんなだな。土曜日なのになんで制服なんだろうな」
「高校の頃うちの母にね、あんな格好をしたらいやらしい目で見られるだけよ、ってよく言われた」
「そうなんだ。俺なんか華のこと、いやらしい目でしか見てなかったけどな」
わたしは、飲んでいたビールをブッと吹き出しそうになった。
むせるのと笑いをこらえて伏せた顔をあげると、ヨシカワはなんだかとても優しい顔で笑っていた。
「大丈夫? ごめん俺、相当気持ち悪いね」
わたしは首を振って、大丈夫だよ、と答えた。
わたしたちは夜が更けるまで居座った。ヨシカワに仕事の話は、聞かなかった。
わたしたちの家の方向はバラバラだったから、ヨシカワは、わたしの家の近くまで送ると言った。この街は、中心部を通り過ぎると途端に暗く、静かな住宅街になる。
わたしは歩きながら、ヨシカワの手をつないだ。酔っ払って気持ちがよくなるとわたしは、時々こういうことをしてしまう。
信号のない交差点で車が横切って、わたしたちは立ち止まった。
目が合って、どちらからともなくキスをした。
いちど唇を合わせて離して、また繰り返して、誰もいない夜道で互いに止められなくなり、わたしたちはしばらくそうしていた。
そのままヨシカワは、わたしの部屋に来た。わたしたちは抱きあって、ヨシカワはわたしのTシャツをまくりあげ体にふれた。ベルトやジーンズの下腹が痛いくらいにあたり、わたしは思わずそこに手を伸ばした。
欲求と心が動くのとどちらが先だったのか、お互いにわからない。わたしにとっては、どちらでもよかった。
ヨシカワの欲求がわたしにまっすぐに向けられることが、うれしかった。それでわたしは満たされて、豊かになる気がした。
それからわたしたちは、お互いの部屋を行き来するようになった。
ヨシカワはいつも深夜まで仕事をしていたから、会うのは週末だけだった。夜遅くなっても会いたかったが、平日に押しかけると、あのボロボロになった彼を目の当たりにしそうで、わたしは怖かった。
週末でも時おり、疲れた顔をすることがあった。仕事忙しいんだね、とわたしが言うとヨシカワは、忙しいのかなんなのか、と力なく言うだけだった。
「兵士だね、華の彼氏は」
ミシンを踏みながら、耀子さんはそんなことを言った。
兵士? わたしは聞き返した。
「戦場の兵士と同じ。彼らがやってることは残虐だけど、それをやらせているのは国でしょ。兵士は従うだけ。サラ金もやってることはエグいけど、社員はそれに従うしかないわけでしょ」
あっ今、サラ金って言わないのか。なんて言うんだろう、とぶつぶつ言いながら、耀子さんは縫いかけの服をかざして眺めた。
「そんなにエグいのかな」
「わからないけどね。でも商売してるとさ、いろいろな話を聞くよ。回収される側のね」
そして耀子さんは、こんなことを言った。
「兵士の精神的ストレスって、ひどいらしいじゃん。ベトナム戦争とか湾岸戦争の帰還兵がそうだったって。一緒にするのもなんだけど。彼氏、大丈夫?」