20.魔女は為す術もない
「……ラルス、私だよ、スティーナだよ? 一度約束を破ってごめんね。会いたかったんだよ、ラルス。あなたにもう一度会いたかった……」
打ち付けられた背中の痛みに耐え、涙ながらに訴えるも、ラルスには届かない。
濁った紅い色の瞳は、空のように澄んだ蒼には戻ってくれない。
「ラルスっ!! お願い、洗脳魔法なんかに負けないでっ!!」
スティーナの悲痛な心からの叫びに、ラルスの身体がピクリと動いた。
右手をゆっくりと伸ばし、スティーナの眼鏡を取ると、脇に乱暴に叩き落とす。
まるで、そんなものは必要ないとでもいう風に。
地面に強く叩き付けられた眼鏡は、案の定割れて壊れてしまった。
眼鏡が無くなり、スティーナのグラデーションの瞳と、ラルスの紅い瞳が直接ぶつかり合う。
「…………?」
ラルスの瞳の奥で、小さな何かが揺らめいたのをスティーナは見た気がした。
眼鏡を落としたラルスの手が動き、スティーナの頬をするりと撫でる。
その指が彼女の唇に触れ、そこを緩やかになぞった時、彼の口の端が持ち上がった。
「…………っ!?」
見た事のない彼のその笑みに、スティーナの身体が本能的にぶるりと震える。
彼女の頬に手を添えながら、ラルスの頭がゆっくりと下がり、自分の顔を彼女のそれに近付けた。
そして、スティーナの濡れた目尻を拭うように唇を当てる。
「…………え?」
互いの鼻がくっつきそうな距離で、スティーナは間近にある紅い瞳のその奥に、蒼色の微かな光が確かに見えていた。
――けれどそれは、唐突にフッと消えた。
「ぐぅ……っ」
ラルスが唸り、上半身を起こすと顔を片手で覆い、首を振る。
「ラルス……?」
ラルスは左手で顔を抑えたまま右手をのろのろと動かし、スティーナの横に置いてあった剣を掴んだ。
それを彼女に向かって大きく振り上げ――
「ラルス、止めてっ!」
スティーナが思わず目を閉じた、その瞬間だった。
真横から高速に脚が伸びてきて、それはラルスの脇腹を思いっ切り蹴り飛ばす。
そして、時を移さずスティーナを抱き起こす温かい腕が。
「無事か、スティーナッ!!」
イグナートだった。肩で息をしているから、『移動ロール』で急いでここに来たのだろう。
「イグナート……? ど、どうしてここに……」
「ついさっきだが、勇者復活の場所の神託があったと皇城にいる司祭から聞いたんだ。それで俺だけ先に来たんだが……。どうやら最悪の展開になってるみたいだな」
スティーナを掻き抱きながら、イグナートはラルスの方を見た。
ラルスは何事も無かったかのように、ゆらりと立ち上がる。
「結構本気の蹴りを食らわせたのに、相変わらず頑丈な身体だな、ラルス。久し振りに会えたっていうのに、何フザケた事やってんだお前? これが冗談だって言うなら承知しねぇぞ」
イグナートの呼び掛けに、彼は何の反応も返さない。
先程の表情は消え、感情の一切無いそれに戻っていた。
「ラルス……やっぱり洗脳されているな。アイツがスティーナを殺そうとするなんてあり得ないしな。――ヤツがいるのか?」
「う、うん……。多分、もうすぐ様子を見にここに――」
「まだ殺してないのですか? 偉大な勇者様ならパパッと済ませて下さいよ、全く」
噂をすれば、呆れ声と共にブラエが姿を現した。
スティーナは眼鏡をしていない事を思い出し、慌ててイグナートの服を掴むと彼の胸に顔を埋める。
彼の身体が大きく跳ねたが、気にしてられなかった。
「そう言えば、村人達はどこへ行ったのでしょう? あの傷では自力で立ち上がれないはず。血溜まりはあるから、野獣にでも食べられてしまったのでしょうか。まぁそれはそれで悲惨な最期ですね、ヒャハハッ」
いつもの不愉快な嗤い声を響かせたブラエは、こちらを睨みつける男がいる事に気が付いた。
「……おや、また新しい人間が……。あぁ貴方、確かこの帝国の魔道士でしたね。貴方達の所為で、ここへの侵攻がなかなか上手く行かないんですよ。いい加減目障りなので消えて下さいません?」
「はい分かりましたと言うと思ってるのか? 随分フザけた魔族だな。ラルスは返して貰うぞ」
「はい分かりましたと言うとでも? 残念ですが、今回は引き下がりましょう。私自ら貴方達を殺して差し上げたい所ですが、私がもう限界なんでね……。全く忌々しい毒め……ゴホ、ゲホッ」
何度か苦しそうに咳き込むと、ブラエはラルスを呼んだ。
ラルスは無表情のまま、黙ってブラエの下まで歩いてくる。
「次勇者に会う時は、人間の敵となってこの帝国を滅ぼしているでしょうね。その時を楽しみにお待ちなさい。そしてお嬢さん、『あの事』を誰かに話したら、貴女の命は無いとお思いなさい。想像以上の残酷な殺し方をして差し上げましょう」
捨て台詞を吐いて、ブラエは『移動ロール』でラルスと共に消えて行った。
「……くそっ! ラルスの奴、簡単に洗脳されやがって……!」
「……助けに行かなきゃ」
スティーナはイグナートから離れようとしたが、ガッチリと彼の両腕で抑えられてしまった。
「待てよ。助けに行くと言っても、ヤツらは魔界に行ったんだ。魔界行きの『移動ロール』持ってないだろ?」
「う……」
言葉に詰まったスティーナに、イグナートは唾を飲み込むと、彼女と向き合って言った。
「スティーナ。……その、俺と一緒に皇城に来てくれないか。ラルスの事とか、今後の事とか、色々決めなきゃいけない。お前も……一緒に、いて欲しいんだ」
「…………」
ラルスが魔界にいると分かった以上、『移動ロール』を持っていない自分に出来る事は無い。
一人ではもう手詰まりなので、イグナートと共に行って対策を練るのが一番良い方法だろう。
(彼は私をすごく憎んでいるから、付いて行って安全の保証は無い。だけど――)
「……分かった。でも、エルドと一緒でもいい? ここまでエルドに連れて来て貰ったの。今は村の外にいるから呼びに行ってくるね」
「あぁ、構わない。準備が出来たら俺の所へ戻って来てくれ」
「うん」
イグナートはスティーナの身体をそっと離したが、駆け出そうとする彼女の手首をパシッと掴んだ。
スティーナが驚いて振り返る。
「スティーナ。もう……俺から逃げないで欲しい。お願いだ……」
「……うん。逃げないよ」
切実な表情のイグナートに、スティーナはコクリと頷いた。
(――だけど、彼は私を殺さないだろう)
そんな確信が、彼女の心の中に芽生えていた。




