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今日も殺らなかったぁ♡  作者: ハンジョウ
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最終話 - 前編 メリー社長が殺る話し③

 無心で作業をしてみれば、進捗はきわめて順調でした。


 清掃の基本は、奥の部屋から入口へ向かい行っていくことです。つまり玄関前などの出入りが多い場所は最後に。工程としては、ほこりを吸いとって、廊下や居間などの板張り床にはポリッシャー後に樹脂ワックスをかけ、畳の部屋は畳用ウェットシートで、家具類は中性洗剤を薄めた雑巾で拭きあげます。


 元々がよく手入れされていたお宅であることが明らかになってきました。たとえば廊下に掃除機をかけてゆくと、よく磨かれた床板が現れます。この広い家をおひとりで守っておられたご婦人のお人柄が偲ばれます。


 汗まみれの腕時計を見ると、十二時近くになっていました。


「市松さん、昼休憩行きましょうか」


「はい、あの、メリー社長から差し入れ頂いたクーラーボックスの中身、飲んでもいいでしょうか?」


「あ、そうですね。頂いたんですから、飲みましょう」


 大きなクーラーボックスを開けると、飲み物と氷がぎっしりと詰まっています。底が見えないほどに。


「あ、お茶だ。すごい冷えてる」


 市松さんがペットボトルを頬に当てます。僕も同じものを開けました。



 車に乗り、国道へ出て、直近のコンビニへ。そこで冷たいうどんとパンを買い、家に戻って、縁側で食べました。メリー社長のお姿はありません。


「縁側でお昼食べるの、いいですね」


 市松さんは、おにぎりとアイスコーヒーです。僕はうどんをすすっていました。


「ふぉんと。ですね」


「ここ、いいところですね。わたし、田舎好きです」


「ふぉうなんですか?」


「若いころは都会が好きでしたけど、なんか今はもういいや、って。いま住んでるA市でもう限界です」


 A市だって、東京に比べたらだいぶ田舎ですよ。そういった軽口をいうことが、苦手です。


「天気、やっぱり悪くなりそうですね」


 市松さんが空を仰ぎました。



 雲の色が、濃くなってゆきます。スマホの天気予報を開くと、


「十七時から雨の予報ですね。今日の作業がちょうど十七時までなんで、それまでは降らないといいんですけど」


「作業順序変えますか? 降りだす前に蔵から荷物を出したりとか」


「そうだ、蔵があるんですよね。あっちかな?」


 庭の奥。そこでは背の高い夏草や、伸び放題の松などが、隙のない影を落としていました。その先、母屋に沿って直角に曲がれば、蔵があるのでしょうか。


「雨は夜中に止むようですし、家の清掃が中途半端な状態なので、予定通りに進めましょう」


 了解です、と、アイスコーヒーをあおり、市松さんが立ち上がりました。


「わたし、ちょっと漁港を見てきます」


「はい、作業は一時からで」


 市松さんが行くと、僕は部長へ、午前中の業務実績を簡単にメール報告しました。


 蝉の声が、カーテンのように降りています。


 その幕を、時おりかすかな波音が揺らします。


 人や車のあらゆる人工音は止み、家主を失ったこの縁側にひとりいると、まるで、人間が去った世の音を聴いているようです。


 ふいに心地いい眠気が、打ち寄せました。


 引いてゆくさざ波に身をまかせ、少し目をつむろうとした、そのとき――


 ガサガサと、庭の奥で音が。木の葉が、風ではないものに擦られています。


 あまりにも、人はおろか、生きものの気配すらなかったので、驚いてしまいました。


 猫? あ、メリー社長かな?


 気にかかり、音のほうへ向かいます。


 ツワブキを踏み、夏草に分け入って、庭の奥を直角に曲がると――


 女の子が、たったいま蔵から出てきたように、扉の正面に立っていました。


 顔も服装も夏草と椿の葉でほとんど隠れていますが、濃い黒髪は長く、五~八歳くらいかと。草を鳴らして来た僕に、はっと気づきます。


「あ、僕は――」


 女の子はくるり向きを変え、蔵と母屋の間を猫のように逃げてゆきます。


「あぁあの――」


 殺人願望の異常者だが怪しい者ではない、と伝えたかったのですが、叶いませんでした。


 彼女がいたあたりまで来ると、”なまこ壁”と呼ばれる蔵の壁面が目に留まります。白い漆喰ですが、日当たりは悪く、ツタが這い、苔付いて、草むらに潜むような古びたその建屋を、見上げます。


 ほんの十メートル向こうの縁側とは別世界の気味悪さでした。



 午後の作業も順調でした。市松さんと、手垢の付着した窓を拭きあげてゆきます。


 二階の窓を開け放ったときです。


「ん?」


 彼女の手が止まりました。


「どうしたんです?」


「……いま、だれか―― 叫び声みたいな」


 要領を得ず、訊き返そうとしたそのとき――


”あれをどこへやった”


“勝手な真似をするな”


“このままじゃ計画が”


 聞こえます。蝉しぐれの幕間に。近くはない村内のどこかから。


 叫び声、は誇張かもしれません。耳を澄ませば、という程度なので、大きめの声、が正しいでしょうか。


 しかしながら、それを発しているのは――


「メリー社長、ですね、きっと……」


 声は止みました。


 秘かな森の中で動物が一瞬鳴いた。そう、ふと幻じみた音でした。



 メリー社長が、どこか視線の定まらない表情で、縁側に腰かけていました。


 二階の窓清掃を終え、バケツを持って階段を降り、縁側のある廊下を通ったときです。


 彼は、頭を抱えようとしたのか、両手を髪へ持っていったのです。そこで僕の視線に気づきました。腕を下ろして立ち上がり、僕も、作業中に通りかかっただけ、の顔で、(実際そうなのですが)廊下を通りました。


 やはり、電話でだれかと口論していたんだ。その程度にしか思いませんでした。


 別室で作業をしている市松さんに、


「市松さん、十五時になったら休憩して、そのあと調理の準備にかかってください」



 十五時。僕も休憩しようと庭に出ると、そこに市松さんと、メリー社長。


「休憩するの? よければ、少しだけ村を案内しようか」


 門を出たメリー社長は、海とは反対側の急峻な崖のほうへ歩みを進めます。僕と市松さんがその後ろに。ブロック塀と四つ叉だらけの細い道をゆきます。


 このあたりの地形は、どうやらほとんど平地というものがありません。海から上がるとすぐ急坂になり、それが緩やかなわずかな土地には家々がひしめきあっています。そこからさらに登れば、あとは手つかずの山。急傾斜に負けじと、杉の木々が伸びていました。


 沢の音がしました。


 覗くと、急な小川が、我々と歩みとほぼ平行に流れています。刻々と落ちる木漏れ日を弾き返し、きらきらと。


「ふぅ。気持ちいいですね」


 市松さんが、わずかに息を弾ませます。


 誰もいない、静かな森。民家からわずか五分です。


 メリー社長が、足を止めました。


 苔むした石段があり、それを数メートル登った中腹に、年月を経た鳥居。額の文字は消えかかっています。


「ここは、みずのぬし、と書いて、水主かこ神社というんだ。もう少し頑張って、この石段を登ってみようか」


 登りきった境内は、四方を木々に囲まれながらも意外に広く、さながら森の中に設けられた舞台です。


 大木の切り株で作られたベンチがあり、我々は腰を休めました。


「ここからも海が見えますね」


 市松さんがうれしそうに見つめます。


 濃いみどりを通して見る海も、とてもきれいです。波音は届きません。葉擦れと、山鳥の鳴き降ろしがするばかりです。


「この場所も気持ちいいでしょ。って、やっぱりさっきと同じで、景色は海なんだけどね」


 メリー社長が苦笑します。


「素晴らしいです。いろんな海が見えて」


「よかった。ほんとになんにもない村だからさ。観光地なんてもちろんないし、他に大して案内する所もない。ないものだらけなんだ」


「ないものだらけでいいと思います」


 市松さんがタオルで首を拭い、「街にはいろいろあるけど、必要ないものも多いし、ありすぎるのも嫌になっちゃって」


「そう思う?」


「はい、都会でアウトドアが趣味の人って、まさにそうじゃないですか。わたし思うのですが、田舎だって、有名な観光地では、こういう名所があるよ、とか、こういう遊びがあるよ、とか。でもそれって、街中といっしょなんですよね。でもわたしは、もし旅行に行くのなら、できるだけ無いほうへ無いほうへ。そういう場所に行きたいです」


「なるほどねぇ」


「は、すみません。あたしベラベラと……」


「いやいや、面白い話しだ。僕はアミューズメント事業をやってるから、おもてなしには興味あってね。チャンスがあれば観光業もやってみたいと思ってる」


「わたしの話しなんて、つまらないでしょうから……」


「いや。もっと教えてほしいな」


 メリー社長は、ご自身の両膝をぽんと叩きました。


「そう、ですか……」


 タオルを外した市松さんが、


「……わたし、”なんにもない”って、PRの仕方によっては、すごい魅力的に感じる人もいるかも、と思って。海以外なんにもない。とか、山と温泉以外なんにもない。とか。引き算というか、あえて前面に出す観光地があってもいいんじゃないかって」


「それいいかも…… 市松さんは面白いね」


 海のような微笑を浮かべました。



 十七時。本日の作業を終え、手を洗って居間へ入ると、ダイニングテーブルには、魚のカルパッチョ、煮つけ、刺身、貝の味噌汁が。


「さ、座ろう」


 メリー社長が僕たちをうながし、作業着にエプロン姿の市松さんも食卓へ。


「お口に合うかどうか……」


「ささ、まずは一杯どうぞ」


 メリー社長が缶ビールを開け、三つのグラスに注ぎます。


「あ、いえ、僕はこのあと旅館まで運転して行くので、お酒は……」


「旅館はすぐそこ、漁港の目の前だから、ちょっとぐらい飲んでも大丈夫だよ。何なら車はここに置きっぱなしでいいから」


 そうお誘い頂き、やはり夏の誘惑には勝てず、お言葉に甘えてちょっとだけ、とグラスを持ちました。もちろん市松さんも共犯に、です。


「ふたりとも、今日はおつかれさま。明日もよろしく、乾杯」


 

 カルパッチョはアジ、刺身はタイとサザエ、煮つけはブダイ、味噌汁の貝はフジツボだと、市松さんが説明します。


「フジツボ? フジツボって食べられるんですか?」


「ネットで調べたら、このあたりの人たちは食べるそうなんです。実際こうやってお味噌汁にしてみたら、いいダシが出て、おいしいんです」


「そうなんだよ」


 メリー社長がフジツボの裏側を箸でつついています。


「子どものころは食べ過ぎて嫌いだったけど、この歳になると美味いなぁ。こうやって、裏から身をだして食べるんだ」


「へえぇ。この煮つけのブダイというのは?」


「このあたりだとよく獲れる魚で、でも食べ慣れてない人は、磯臭くて嫌だ、って残しちゃうんだけど、僕は好きなんだよね。特にこうやって、ちゃんと処理をして煮つけなんかにすると、おいしいんだ…… って、どうかな?」


「おいしいです。臭さはぜんぜんないですね」


 市松さんが、両手を小さくグーにしました。


「観光で伊豆にくる人なんかは、アワビとかキンメダイとかが好みかもしれないけど、僕はこういう地元の大衆魚というか、県外にはあまり流通してないものが、やっぱり好きなんだよなぁ」


「本当にいいところですね、ここは。どこでも波の音がするし、潮のかおりも」


「……昔は、いいところだなんて思えなかった」


 メリー社長が、ビールグラスを置きます。


「海があってどこへも行けない。海に閉じこめられてる。そんな風に、海を、窮屈さの象徴みたいに感じてて、島流しの罪人じゃないけど、長男のおれはここで一生を終えるのかなって、すごく嫌だった」


「……わかる気が、します」


 市松さんが箸を置きました。


「わたし、A市育ちですけど、同じようなことを思ってました。だからメリー社長のお気持ちは、もっと強かったんだろうなって」


 市松さん、僕と同じA市育ちなんだ……



「ハンジョウさん、白ごはんも食べてみませんか?」


 市松さんが、湯気立つ茶碗を差しだします。


 ひと口いただいて、「おいひいえす」


 メリー社長に用意して頂いたお米は、ふっくらと、あまみがあります。


「いいお米なんですか?」


「いやいや、お米はふつうだよ」メリー社長も茶碗を持ち、「いいのはね、水のほうなんだ」


「ミネラルウォーターで炊いたとか?」


 メリー社長はにやりと、「ただの水道水。でも、元は湧き水なんだ。あっちの山のほうに水源があって、それを村に引いてきてるんだ」


「わたしもさっき飲んでみて驚きました。湧き水で炊いたごはんだからおいしいんですね」


 市松さんもはじめての出張で疲れたのでしょう。茶碗一杯を食べきりました。


 お代わりもし、いい気分にもなってきました。メリー社長の頬にも赤みが差しています。


「お茶もコーヒーもごはんも、この水だとほんとにおいしいんだ。っていうか、都会の水を最初に飲んだ時は、臭くて嫌だったなぁ」



 伊豆の伝説 坊石

 昔、旅をしていた一家がこの近辺で休憩をとった。兄妹が川のほうへ行ってみると、一匹の蛇が「こっちにおいしい水がある」と、ふたりを案内する。蛇に連れられ行くと、たしかに湧き水があり、飲んでみれば、疲れが吹き飛ぶほどうまい。おいしいおいしいと、なおもそこで休んでいると、蛇がふたりを石に変えてしまった。


 あれ、急にこの話しを思いだしたぞ。

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