最終話 - 後編 死ぬべきヤツを殺る話し④
記憶のそれとは微妙に異なりながらも、まちがいなく”ハニートースト”が九番ルームに運ばれてきて、正直興奮しました。
厚切りのデニッシュトーストの上に、バニラアイス、ホイップクリーム、シナモンパウダー、そして、蜂蜜は別添えで駆け放題とのこと。高さは十センチほどもあるでしょうか。
ナイフとフォークを入れて、それにアイスをつけ、蜂蜜をドバっとかけます。
「……うまいです!」
「よかった」
市松さんは、冷やし白玉ぜんざいです。彼女の日本的な顔立に和菓子が似合っています。
「ハンジョウさんは甘いもの好きなんですか?」
「それほどってわけじゃ。たまに食べたくなるくらいで」
「お家では自炊?」
「一応、してます」
「すごい。料理男子ですね」
「いやいや、ぜんぜん。こういうデザートなんかは作らないし」
「まぁわたしもですよ。ひとり暮らしだとめんどくさいですから」
「じゃ、これひと口食べます?」
「え、でも、ハンジョウさんに食べてもらいたいから……」
「かなりのボリュームなんで。もし嫌じゃなければ……」
「じゃあ、お言葉に甘えて…… って、なんかおばさん丸出しですみません。わたしのこれもよかったら」
「ありがとうございます。白玉おいしいですよね」
あれだけ大きく豪華だったハニートーストが、やがて皿から消えました。あたりまえですが、そこに、何もなくなったのです。
「わたし、ドリンクバー行ってきますね」
市松さんが部屋を出ていくと、最大八人のパーティールームは、がらんどうのようになりました。
ナイフとフォークが、白い皿の上で、冷たく横たわっています。クーラーが、効きすぎていました。
――俺は、何をやっているんだ。
『今月の人気曲ランキング』が、スクリーンに無音で表示されてゆきます。一位は僕でも知っているアイドルソング。スポットライトが、空虚なパーティールームに、まったく無意味な灯を注いでいます。
――もうすぐ殺す相手と。
『リクエスト受付中』の文字が明滅しています。それを消そうと手元のリモコンを取っても、方法がわからないのです。
――何を楽しんでるんだ。
市松さんが、帰ってきました。冷茶のグラスを持っています。
「……ハンジョウ、さん?」
視界が滲むのをこらえると、呼吸も下手になります。
「どう、したんです?」
彼女が、となりに座りました。僕の場所も沈みこみます。
「……なんで」
顔を、上げることができません。
「なんで、俺に優しくするんですか?」
意味のない問いでした。答えが何にせよ、ふたりの気持ちと、そのバスの行き先名はもう決まっているのに。
「迷惑、でしたか?」
引きずるように、彼女が訊きます。
藁をもつかむ、とはよくいったもので、溺れそうな僕は、彼女の手を握ってしまいました。
柔らかくて、温かかった。
ひとの温もり。陳腐な言葉です。それを求め、彼女にすがっていました。そして、たまらず、抱きしめました。身体を硬くされましたが、拒絶はされず、そのまま長ソファにふたり倒れこみます。グラスが倒れ、氷が、透明な音をたてました。
彼女の、心臓の音。
あと何日かで僕が止める、この鼓動。温もり。
彼女の手が、僕の肩から背中に、ぎこちなく回ります。
手をつないで、抱きしめる。
あまりにもひどいやり方で、僕は初めてそれをしました。
ずっとそうしていたかった。勃起なんかしなかったし、それからどうしたい、もなかった。ただ、女の人に、この胸を受け止めてほしかった。ぽろぽろ泣きました。彼女が、背中と、髪を撫でてくれます。恥ずかしかったけれど、うれしかった。
絶対に言葉にしたくなかったそれを、僕は口にしました。
「殺したくない」
ならば、もうダメです。わからないままに、気がつけば、店を走り出ていました。
車だらけの街道に背を向け、路地を駆けて。マスクなどせず。泣いていたか、叫んでいたか。目に入った坂を迷わず駆けのぼって。なぜそんなことをするのか。逃げられないから逃げたかったのか。呪われた身体を酷使し内臓に罰を与えたかったのか。あるいは、彼女からこのケダモノを遠ざけたかったのか。
走って走って、頂上に達し、体力も尽きました。心肺が悲鳴をあげています。道幅の狭い道路の手すりに身体をあずけないと立てません。何も考えられず、ただ呼吸をしました。
どれほど経ったのか。滴る汗をぬぐうくらいの余裕はとり戻し、顔を上げました。
あれほど青かった空が、こんどは、本当に灰がかっていました。夕方から降るかもしれない。そういえば老夫婦がいっていました。そして、坂の上なのに車の音が大きいことにも気づき、目を降ろすと――
そこは、高速道路にかかる陸橋の上でした。生活道路、というのか。高速道路よりも高い、丘の頂上を横断してゆく道幅の狭い陸橋上に、僕はいたのです。知らない場所でした。眼下は猛スピードで過ぎ去ってゆく車群。風を切り裂く大型トラックに橋脚がわずかに揺れ、恐ろしくもあります。
と、ズボンのポケットにさしていたスマホが鳴りました。
[着信中 市松さん]
心配してかけてきたのでしょう。平静を取り戻したとはいい難かったですが、この居場所くらいは伝えねばなりません。
『大丈夫ですか?』
平穏な声でした。
「はい、大丈夫です」
『いま、どこですか?』
「高速道路の上の…… 〇〇橋、と書いてある陸橋です。心配かけましたが、これからそっちへ戻ります。それで…… 今日はもう……」
『お話ししたいことがあります』
「……?」
『というか、お話ししなきゃいけないことです。いままで黙ってたことを』
口調の奥に、言霊とでもいうべきものがありました。空ではにわかに鈍色の塊が作られ、風が強まっていました。
「えと…… 今じゃなきゃダメで――」
『わたし、あなたのお母さんを轢き殺しました』
……
……
……
何が起こったのか。車群が遠ざかる音とともに世界が縮小するようでした。空が落ちてくるようでした。あらゆるものが色を失ってゆくようでした。
「……な」
『十七年前のあの交通事故で、のぞみさんを轢いたのは、わたしなんです』
陸橋の手すりにつかまっていました。心が、下の道路へ落ちてゆくのが見えました。息が、走った直後より苦しい。過呼吸というのか、座ることさえつらく、よだれを垂らしながら、かろうじてスマホを握って。
風が強い。トラックが足元を揺らす。俺は、獣のように唸ってる。
どれほどそうしていたか。
「冗談なら、たいがいに、しろよ」
『冗談じゃ、ありません』
彼女の声も震えはじめます。
『お母さんの名前、のぞみさん、だと…… わたしにいわなかったですよね』
そうです。僕は、西伊豆からの帰り、彼女にすっかり打ち明けました。母が死んだ夜のことさえも。ですが、たしかに母の名はいってない。
「なぜ、母の名を知ってる?」
『自分が、死なせてしまった、人です。忘れる、はずが、ありません』
「嘘だ。そんな偶――」『わたしだってそう思いました』
怯え、叫ぶような声。
『あのときの、のぞみさんの息子さんと、十七年経って同じ職場で出会うなんて…… たしかに苗字が一緒だとは思っていたんです。でも、まさかお子さんだとは…… このまえ車内で話してくれるまでは、想像すらしてませんでした』
「う嘘だ! 俺をからかってんのか! 母の名前を知ってるだけだろ。そりゃA市は狭い街だ。けど、そんな偶然…… 轢き逃げ犯と同じ会社で働いてるなんて……」
そんな偶然、俺は信じない……
「そうだ。母の名前くらい調べればわかるだろう! 当時の新聞を見れば!」
『日付もわからないのに? 戸籍謄本だって他人が見ることはできないのですよ』
「た、探偵を雇うとか?」
呆れたような間がありました。
『……じゃあ、新聞に載っていないことを話します』
決然さを秘めていました。
『雪の降る夜。○○町四丁目。あなたのお母さんは、横断歩道のない道路を渡っているときに撥ねられたんです。ここまではたしかに新聞にも載りました』
彼女は、ひと息にいいました。
『そのときお母さんは、なぜか傘をさしていなかったんです』
……
……
……
そんなの新聞どころか、僕でさえ知らない。
『雪で視界が悪く、わたしが前方不注意で彼女に衝突する直前、雪の夜なのに傘をささない女性が見えたんです。服装などは暗かったのではっきりとは見ていませんが、傘をさしていなかったのはたしかです』
太陽が、ちらつきながら低く濁った雲に隠れました。重く湿った風が打ちつけます。
「死人に、口なし。それが、出まかせじゃ、ないと――」
あっ。前章で、書いていた。
≪フードのないブルーグレーのコートを羽織り、あもう降ってきた、と傘を持った母の背中が、いまでも記憶にあります≫
≪十三年後、自らの死期をさとった祖母は、事故当日の母の所持品を、僕に託してくれました。証拠品として警察に保管され、その後返却された物たちです。
衣服、靴、腕時計、ネックレス、ハンドバッグ、その中身の財布や携帯電話、小物類まで…… 壊れたり破れているものもありますが、その日から時の止まったそれらは、僕の血肉です≫
「……なかった」
奥歯がカチカチと鳴っています。
「ママの遺品に、傘が、なかった…… ばあばが、傘だけ処分したのか? いや、そんなはずない…… 衝撃で壊れた物から、小物類までとっておいたんだから……」
『あなたいま気づいたんですか。それはちょっと驚き…… じゃあ、なんでわたしがそれを知ってると思います?』
≪「若いころはよく運転してました。でも今は車持ってなくて。仕事で軽を運転したのが、ほんとに十何年ぶりってかんじです」≫
≪「運転も車も、ほんとは好きなんです。でも怖くて、今はしません。独り暮らしだし、ぜんぶチャリで済ませちゃいます」≫
『あたし人でなしなんですよ! あの晩、お母さんが傘をさしてくれてたら。もっと目立ったはずだからあたし轢かなかった! それか、横断歩道を渡ってくれてたらあたし轢かなかった! だから自分は悪くないんだって! 当時付き合ってた車屋の彼氏にすぐ電話して、直してもらって、その車は処分しました」
雪で人通りの少ない夜、轢いた車の目撃情報はほとんど寄せられなかった、と。
『そんな人でなしの自分! あたしのうのうと生きてることがもうマジで嫌! だから、もし殺されるなら、あなたになら!』
世界が、砂に落ちてゆく。どんな許容や慈悲をも含んではいない灰褐色の風に打ちのめされて。
――いや驚いたな。
あり得ないことが起こる、とは言葉の誤用だろうが、まさにそうじゃないか。だがな、起こった以上は、状況に対処していくしかない。
――おまえか。
迷いもイイ子も消えたよ。死んで当然の、俺以上のケダモノがこんな身近にいるとは。今回、俺は正義のヒーロー。仰せによりただ今まかり越しました、ってわけ。
――どこにいる。
これは貸しにしとく。ふだん散々いじめられ、閉じこめられてるからな。
「……振り返って、ください」
耳にスマホを当てたあの女が、陸橋のたもとにいた。坂を上って息があがったのか、マスクを外して。ぼろぼろ泣き、ここからでも見えるほど震えてやがる。
いいぞ、すげぇそそられる。泣き叫ぶ女を嬲り殺すなんて、もう金玉からっぽになっちゃうよぉ。
――こっちに来い。
湿った風に髪を乱されながら、女はふらふら歩み寄ってくる。でもさすがにここじゃぁ殺れねぇな。脅せばついてくるか?
俺は女の腕をつかんだ。はいもう逃がしませんよ。
――計画変更だ。いまから俺ん家行くぞ。
迷子のように泣くばかりだった女が顔を上げた。真っ赤な目が驚きに染まってゆく。唇をわななかせて。
「あんただれ?」
――あ? 何いってんだ?
「……違う、顔がなんか。ハンジョウさんなのに、違う」
――意味わかんねぇ。さ行くぞ。
俺は腕を引いた。あまり反抗すんなら折ってでも連れてく。
「いや!」
――おいおい。おまえがいいだしたことだろが。苦しまないようにしてやっから。
いや嘘ですけどね。
「いやだ! さっきまでのハンジョウさんじゃない」
――おい聞けよ。
最後通告だ。女の襟首をつかんで引き上げる。女が背伸びの格好になった。震えおののく蒼い顔が目前に迫り、もうたまらんぜよぉ。
――なぜ俺に罪の告白をした? 俺に復讐されるためだろうが。怖気づいた俺をもういちど奮い立たせ、殺させるためだろうが。お前はそうやって他者に依存しそそのかす、悪魔の化身である蛇だ。人間の罪悪感なんてものはない。なら、俺はお前に利用されてやるよ。
女の目の奥で何かが燃えあがった。あれ逆効果だったか? これだから正論の通じないヤツはなぁ……
「たしかにあたしは死んで当然。でも、よくわかんないけど、あんたには殺されたくない。ムリ。だったら自分で死ぬ」
抵抗する気を削ぐため、試しにつかんだまま女を殴ってみた。怯んだ女だったが、すぐに上体を起こすと、その反動で俺の鼻に拳を叩きこみやがった。腕が縮みきったパンチだったから良かったものの、まあまあ痛ぇ。
――ケンカ慣れしてるってのは本当みたいだな
女の目は座ってる。なるほどケダモノの本性を現したか。このイカレた目でガキを殴ってたってわけね。
女が二発目のモーションに入ったので、俺は手を離した。ちょっと距離をとる。踏み込んできた。イカれてる。迎え撃つしかなく、それをかわし左わき腹をボディーブローでえぐった。顔傷つけちゃうと、これから持って帰る道中いろいろ不都合あるから。
女が崩れ落ちた。ちょっと強すぎたか。これで戦意喪失してくれるといいが。
――いい動きだったよ。女にしてはじゃなく、男女平等に見て。
「おい! おまえ何やってる!?」
振り返ると、オッサンがチャリを降りたところだった。
「た、す、けて、ください」
女があえいだ。オッサンが駆け寄ってくる。と、目を離したすきに、立ち上がった女が逃げ出した。とりあえず俺は掴まれそうになったオッサンの腕をとり背負い投げを決めた。道路に叩きつけられた顔に肘槌を落とす。オッサン白目。
女は――?
逃げてはいなかった。数メートル先、陸橋の手すりに足をかけ、高速道路への転落防止用金網を登りはじめている。
くそっ。
――おい早まるな! 自殺はいけないことだぞ!
死なれたくなかった。地面を蹴り駆けだす。金網の高さは三メートル弱。女の上半身はもう反対側、つまり宙に出ている。俺があと一秒弱で到達しジャンプすれば足をつかむことができるだろうが、そうすべきか迷った。振り切られて転落される可能性がゼロではなかったからだ。もしそうなったら、今しがた投げ飛ばした男の証言から、俺が殺した、という状況証拠が作られはしないか?
そうする間に、女は金網の頂上にまたがった。どちらに落ちるともわからない。風は強い。一瞬のためらいが最悪の状況に発展した。さすがの俺も余裕などない。
「市松さん!」
“僕”がいいそうな言葉を”僕”が使いそうな声色で呼びかける。
「死んだらダメです。お願いです。死なないで、生きて、罪を償ってください」
女は呆けたように高速道路を覗きこんでいる。おそらく俺の言葉は耳に入ってない。舌打ちをくれ、俺は手すりに足をかけた。獲物に目前で逃げられる悔しさは耐え難い。
「今そっちに行きます。そのまま、動かないで」
女が俺を一瞥した。よしいいぞ、そうやって俺に注視していてくれ。金網を登りながら叫ぶ。
「市松さん、やっぱり、死ぬのはダメだ。その代わり、いちど死んだ気になって、何もかも失って、そこから生き直すんだ! 死ぬ気になったらどんな風にも変われる! 心を入れ替えてなんでもやり直せる! いまが再生のチャンスなんだ!」
これは半分方便、半分は本音だ。
俺にいわせれば、お前らには致命的に根性がない。哀れな俺とは違い享受してるはずの貴重な自由を、クソみてぇな不平や不満や愚痴に消費しやがって。
あいつが憎い、環境が悪い、あるいは自分が好きになれない?
なら、殺っちまえばいい。
殺すのが無理なら、殺すつもりで全身全霊をかけ立ち向かえばいい。お前がどんなゴミカスだろうが、殺る気でかかってこられたら誰だって恐ろしいもんだ。
そうすりゃ、たとえ敗けても、自分の中の何かは変わるだろうよ。
頂上にまたがり女に向かいあう。
「市松さん!」
金網に置かれた女の手を握る。高速道路までは二十メートル近くあるだろう。そこでは走る凶器と化した何百という車の群れが、巨大な刃のような車体を行き来させている。
女の顔に生気がさした。高速道路を覗きこみ、縮みあがる。
「下見ちゃダメです!」
女を陸橋側へ突き飛ばすべきか。2.5メートルの高さは死にはしないはずだ。と、橋が大きく揺れた。大型車が真下を通過したか、ひときわ強い風が吹いたか。
女が、俺に、しがみついた。
高速道路側へ、バランスを失いながら。
俺は女と自分を左手一本で支えようとした。が、指が金網にうまくかからない。背筋と腹斜筋で粘ろうとしたが、それもふたり分の重さに負けてしまう。股で金網を挟みこもうとしても。女は女で、俺にますます身体を預けてくる。
「〇〇!」
女が雲に叫んだ。娘の名だろう。生きたいという意思表示か。
もう遅い。
最期のときがきた。だが後悔はしてない。一瞬一瞬で最善は尽くした。それがたとえ失敗に終わったとしても。
命をかけ闘った生きものは、たとえ敗れても、崇高だ。
俺は、死ぬ。
死とは安らかで静かで美しい。
女とともに落ちてゆく俺は、それが誤りではないことを確信していた。