六十四話 彼と彼女らの一瞬
感触でその一撃がそれほど深くはないことが分かった。わたくしたちの世界の領域に入るという事はわたくしたちの世界の法則が適用されるという事なの…………つまりあの腕は異なる世界の法則に囚われてなおわたくしのナイフで容易に切り裂けない硬さという事なのよ。
それでも
悲鳴が上がる…………いや、それは恐らく悲鳴というより慟哭なの。音を伴わない空間の鳴動。そこから感じられるのは大きな怒りと僅かな怯え。
「まずいの」
わたくしはあえて呟く。わたくしにはたっぷりの時間があっても晴香たちには一瞬の出来事だったはずなの…………ただそれでもその一言で無駄に察しのいい連中なのだから状況は理解するはず。説明に使える時間はほぼないのだから質問することなくあいつらには動いてもらわなければならないのよ。
わたくしの判断が正しければあの腕はもう間もなく退く判断を下すはず。陽の力があの腕に及んだ一瞬に切り裂いたその傷は環奈を掴み落とすこともなかった程度の浅い傷…………それでも痛みによる怒りと恐怖は与えたの。
それは恐らく怒りのままに次元の狭間へと腕だけをぶち込んで来たそれに冷水を浴びせるような効果があったはずなの…………それで冷静になれば退くはずなの。それもわたくしたちに怒りがまだ恐怖を上回ったまま。
「陽、もう一回やるのよ!」
わたくしは一度戻した視線を彼へと戻して、やれるのかと尋ねずにやるのだと告げた。やはり大きな負担があったのか陽は膝を崩して床に手をついていたのだけれど…………強い視線をわたくしへと返したの。素晴らしいの、やはり陽の表情は滾るのよ。
「チャンスは一瞬、その一瞬をわたくしが伸ばしてやるの…………その間にお前らで決めやがるのよ!」
悔しいがわたくし一人では力が足りないのは先ほど証明された。そして晴香たちの力を借りようとすると今度はわたくしに攻撃する余裕がない…………本当に業腹なのよ。切歌はともかく他の信用ならない女どもに託すことになるなんて不安で仕方なさ過ぎるの!
けれど、けれど、けれど、信じるしかないの。
信用ならない恋敵共ではあるのだけど、その力だけは確かなのよ。
◇
あの腕を本気で見ようと思ったその瞬間には体中から力が抜けていくようだった。普段魔女や獣を見る時には何の消耗もないのに、これは能動的に見ようとしたからなのかそれともあの異世界の存在であろう腕が対象だからなのか。
いずれにせよ事実として言えるのは、あの腕を見えたと思ったその瞬間に僕は膝をついていたという事だけだ。
たった一度見るだけでこの有様。そもそも見る事に意味があるのかどうかもわからない試みだ…………けれど結はそんな僕の試みを有効に生かしてくれた。そして彼女が一撃加えたその瞬間に僕はあの腕の感情のようなものが見えた気がしたのだ。
痛みへの怒りと恐怖と報復への強い意志…………そして現状への冷静な判断。
それはつまり報復の強い意志を持ってあの腕はこの場から逃げようとしているという事。それを許せばこれまで以上に強力な見えざる獣が送り込まれて結たちでも都市を支えきれなくなるかもしれない。
だから、あの腕には報復を躊躇うくらいには痛手を与える必要がある。
それを伝えるためにも僕は膝をついていられないと視線を上げて
「陽、もう一回やるのよ!」
目の合った結からそう要求された…………やれると尋ねるのではなくやる事を望まれたのだ。その事に僕は腹の底から熱が上がって来るのを感じた。自分は今初めて彼女から頼られているのだ。それに応えなくては男ではない。
やる事は先ほどと変わらない…………あの腕を見るだけだ。
体はひどく怠いが、気力だけは心の底から湧き上がって来る。
◇
全く持って本当に私は自分の頭の出来を呪いたくなる。
見る、というのはそういう事かと示されて初めて理解するのだから実に愚かしい。そしてだからこそ私には他者が必要なのだと改めて実感する…………それがいけ好かない連中だとしても私に未知の知識を与えてくれるのだから。
だからまあ、全力を尽くすとしよう。
それがムカつく女の与えてくれるらしい一瞬の時間なのだとしても。
◇
お姉さんは頼れる存在じゃなければいけないとお姉さんは思うの。だけど最近はお姉さん的な威厳はあまり見せられずに、弟君や妹候補たちに引っ張られる形で少しお姉さんは情けなく思えちゃう…………弟君や妹たちの成長は喜ばしいとは思うのだけどね。
今もそう。少しばかり弟君にはお姉さんらしいところを見せられたと思ったら肝心なところで手詰まりになっちゃって…………また弟君と妹(仮)に助けられることになっちゃった。
でもまあ、最後にはやっぱりみんなお姉さんを頼るのよね。
だからお姉さんとしては恥ずかしいところを見せられない。
気張らなくっちゃ!
◇
ああ、腹立たしい腹立たしい。世の中は私の思い通りにならぬことばかり。わがままを言い過ぎるのははしたないとお姉さまには諫められているけれど、少しばかりは私の想う通りになったっていいんじゃないかと私は思う…………そんなにも私の願いはわがままなのだろうか。
お兄さまに褒められたい。
私の願いはただそれだけなのに。いつもいつもあの女ばかりがお兄さまの関心を買うようなことばかりしてしまう。
ああ、腹立たしい、疎ましい。
ただ、それでもお兄さまやお姉さまに失望されるのはもっと困る。
だから、だから、ここは堪えて力を尽くすしかないのだ。
◇
私は臆病で、いつも一歩引いてしまう…………一歩どころか隠れてしまう。だから私はいつも誰かに引っ張られて助けられてきた。お父さん、お母さん、結ちゃん。皆が引っ張ってくれなかったら私は今ここにいないのだ。
だから、だから私は返さなくちゃならない。
お父さんとお母さんはもういないけど、結ちゃんにあの時救ってもらった恩を私は返さなくちゃいけない。
だから、私は一歩踏み出す。今ここで。
◇
あの無駄に明るさだけはあった実験室を思い出す。あれがわたくしの見えざる魔女の原点であり最大のトラウマなの…………実験が行われるのをただ待つだけのあの時間。切歌はわたくしに励まされたと言っていたけれどそれはわたくしも同じなの。内から溢れる不安をごまかすために切歌をかまっていただけの話なのよ。
このままずっと時間が伸びて実験の始まりなどやって来なければいい。
あの時はずっとずっとそんなことを考えていたの…………その感覚を、時間を伸ばしたいとその想念を刻み込んだあの感覚を鮮明に思い出すの。必要なのは世界を望む形に改竄するほどに強いイメージ。あの時には伸ばせなかったその時間を今こそ伸ばすのよ。
そう決意すると同時に陽があの腕を見ようとすることでわたくし達の世界の領域が広がっていく。与えられたチャンスはその領域があの腕を包み込むほんの一瞬なの。わたくしがいくら体感時間を伸ばしても現実時間で動けるのはほんの一瞬…………そしてわたくしだけでは力が足りないのは先ほど証明されているの。
だから、他のうすのろ共も動ける時間を伸ばしてやる必要があるのよ。
伸ばす、伸ばす、時間を伸ばす。
わたくしの体感時間ではなく、皆の動ける時間を伸ばすの。わたくし一人だけではなく対象の範囲全てに影響を及ぼす必要のあるそれは半端のない消耗をする。この場でわたくし以外のの四人の動ける時間を伸ばせるのも恐らく数秒。
その時間で何とかするのよぼんくら共、なの!
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