六十二話 見えざる魔女たちと見えない壁
ジャックというクマのぬいぐるみは舞によって世界に刻み込まれた存在だ。世界に刻み込まれているがゆえにその存在は半ば不滅であり、たとえその糸の一本まで完全に消滅させられたとしても世界そのものによって再生される。
そしてジャックはただのぬいぐるみではなく舞の願いが込められた存在だ。親を失って孤独となった彼女は唯一手元に残ったその友達に全幅の信頼をおいていた。
自分の望みを何でも叶えてくれる頼れる友達。もちろんそれは幼い思考のままだった少女の妄想でしかなかったはずだ。けれどそれはその願いと共にぬいぐるみが世界に刻まれたことで現実となった。
それゆえにジャックの行動原理は舞の望みを叶えるそれ一点だ。もちろん舞がそうあるように願ったから彼には自我がある。自我があるからこそ陽の説得を受けて舞が誤った望みを抱いた時は諫めるように約束もした。
ただ、それでも彼の根本は舞の望みを叶える事にある。努力はするが、それでも駄目なら結局は舞の望むことを叶えるだろう。
そして今も舞が望むままにジャックは行動している。
異世界から現れた巨大な腕と熊もどき、ジャックに自尊心はないが同じ熊を模したそれに対しては不快にも似た感覚を覚える。もちろん彼だって熊を模して作られてはいるが、本物の熊をディフォルメして作られているのである意味では似ても似つかない…………だが、彼は可愛いのだ。しかし同じ熊を模していながら人に不快感をもたらすその存在はその可愛さを減じさせる。
自分は可愛くなくてはいけないのだ。舞がそう望んだがゆえに。
だから自分を見た時にあれを想起される事があってはならない。可愛らしいクマのぬいぐるみである事というのは彼の制約であり存在理由だ。もしも自分を見た時に舞があれを思い出して不快に思えばそれは彼にとって身を引き裂かれるような思いになる。
だから、そんなことが起こる前にジャックは目の前の熊もどきを引き裂くことにした。
◇
巨大なクマのぬいぐるみが何かの冗談のように巨大化して鋭く伸びた爪を振り下ろす光景はまるで創作物のように私には見えた。その光景は以前にも衛星から見ているのだが、やはり映像と実際に見るのとは違う…………想像以上に実物は馬鹿馬鹿しい。
私達の力には刻み込んだ想念に関するものという制約があるがあれにはそれがない。ジャックは舞が信じるままに自身を改変してその望みを叶えることができる。どんな滅茶苦茶な事であっても彼女が望むならそれを実行するだろう。
だ からそれに制約があるとしたらそれは舞の想像力の限界だ。舞はジャックを頼りにしているが彼を万能の存在とは思っていない。だから彼女はジャックにできないと思っていることは望まない。以前に自身が瀕死の重傷となった際にも舞はジャックがそれを治療できるとは思っていなかったから望むことはなかったのだ。
「ま、今は関係ねーがな」
少なくとも舞はあの熊もどきにジャックが負けるとは思っていまい。その爪は容易く熊もどきの肩口から心臓にかけてを切り裂いた…………普通の生物であれば即死してもおかしくないような致命傷だ。
「ちっ、予想通り過ぎて笑えないの」
切り裂かれた身体そのままに蠢きジャックへと反撃の手を伸ばす熊もどきに結が舌打つ。そもそもあれは見えざる獣を混ぜ合わせて出来たような代物だ…………その中身だってまともな構造してないだろうから普通の生物の基準は当てはまらねーんだろう。案の定切り裂かれたはずの身体は傷口から粘性のひだが伸びてその隙間を埋めていく。
そのままジャックへと組みついた熊もどきは彼をあの腕から引き離そうとしているのか押し込んでいく。ジャックの方は押される事よりも熊もどきを倒すことを優先するのか、腕から引き離されながらも爪を伸ばして何度も熊もどきを引き裂いていた。
「おい朝倉、怯んでる暇はねえぞ」
「誰も怯んでなんていないの。言われなくてもわかってるのよ」
相変わらずの生意気な返答と共に結があの腕へと走り出し私もそれに続く。あの熊もどきが簡単に死なないとなるとジャックが抑えている今が腕を狙うチャンスだ。それが分かっているからか他の奴らも私達に続く…………その場に残るのは舞と陽だがあの二人は戦闘能力がないから仕方ねえ。それ以外で囲んで叩く。
「っ!?」
けれど半ば本能的な危機感で私の足が止まる。それは他の四人も同様だったようだ。まだ腕からは距離があるがこの先に進むとやばいと全員が感じていた。
「駄目、ここから先、は、私達の世界、じゃない」
切歌のその言葉が正確に私達の置かれた状況を表す。私達の力は私達の世界の中でしか使えねえ。だからこそあちら側の世界に踏み込むことを本能が躊躇ったのだろう。
「それってお姉さん達全員が集まっても押し負けてるってことにならない?」
それに美優が口にするがつまりはそういうことになる。本来であれば私達の周囲には私達の世界の領域がある。見えざる魔女は世界と繋がった存在であるがゆえにそれは引っ張られる形で追従するはず…………それなのに踏み込めないという事はそれが異世界の領域に圧し負けると本能が察しているという事になる。
「あちらのが大きいからではないでしょうか」
美優の疑問に夏妃が答える。単純にして明快な予想。確かにあの腕の大きさは私達よりも遥かに大きい。体積と世界との結びつきが比例するかどうかはわからねーが、あちらの方が世界との結びつきが強いのならば圧し負けるというのはありえる。
「それだけじゃないの、単純にあれの領域が最初より強まってるの…………理由はよく見ればわかるのよ」
睨むように腕へと向けられた結の視線を私も追い、気づく。最初は二の腕の辺りまでしか入り込んでいないかったはずのその巨大な腕が今は肩らしきものを覗かせていた。それはつまりこの次元の狭間に入り込んでいる質量が増したという事でもあり、同時にあの異世界へと繋がる穴が広がったとも言う事だ。
「入り、込もうと、してる?」
半ば怯えの籠った声で切歌が呟く。つまりあれは怒りに任せて無理やりねじ込んだ腕から穴を広げて体全体を押し込もうとしているらしい…………それはある意味歓迎ではあったはずだが、それはあくまでそれが私達に対処可能な範囲であればの話だ。現時点で領域が押し負けているのにその全体が現れればどうなるかは明らかだ。
「退くっていう選択肢は完全になくなっちゃったねえ」
それを見て美優が溜息を吐く。確かに退いたところであれが出て来るというのなら完全にその意味は無くなる。逆に言えば戦況の怪しくなったこの状況でも逃げる事は出来なくなったわけだ…………まあ、私は最初から逃げるつもりはねーが。
「だからといってどう攻めるのよ」
今まさに攻め所を潰されたばかりだろうと結が言う。魔女同士が固まって私達の世界の領域を強める事で異世界の領域を突破するというのが当初の目論見だ。それは今まさに潰されたところで確かに代案も想定してねえ。だが何も目がないわけじゃない。
「ジャックはあっち側の領域に突っ込めた」
そう、ほんの少し前にジャックはあの腕から生み出された熊もどきへと異世界の領域へ踏み込んでいるのだ。私の見立てでは世界に刻み込まれた存在そのものであるジャックと世界との結びつきは私たち全員より強い…………だからこの領域を突破することが出来たはずだ。
「つまりジャックと役割を交換するという事なの」
「その通りだ」
ムカつく奴ではあるが結の思考は早く私の話が通じやすい。ムカつく奴ではあるが個の面々の中では私が一番その実力を評価している奴でもある…………事あるごとにムカつく奴だが。
「あいつが腕から引き離されたのはある意味ちょうどいい。私らであの熊もどきを引き受けてジャックにはあの腕を…………」
そこまで口にしたところで私は目の前の光景に言葉を止める。腕から再びしずくがしたたり落ちて蠢き、新たな獣が生まれようとしていたからだ…………今度のそれは物語に出てくるようなドラゴンのようなシルエットだった。
もちろん幾つもの獣が混ざり合って無理やりその形を整えた外見は醜悪そのものだが、その翼の機能は本物のなのか羽ばたいて浮き上がる。
そして飛び上がったドラゴンもどきは私達を無視してジャックへと飛翔した。
それはつまりあの腕が正確に状況を把握していて、私達よりもジャックを脅威として認識ているという事になる。
「これは少し、困ったの」
結が呟くが私も同感だった。二体目に間があったことを考えればあの腕もあのもどき共を簡単には生み出せないのだろう…………だがジャックに取りついたあの二体を引き離すのにはそれなりに時間が掛かるだろう。その間に三体目を生み出される可能性は高く思える。
「ちっ」
私は舌打つ。こういう時に凡庸な自分の思考回路が疎ましく思える。私にできるのは目の前の状況から読み取れる範囲で対応することだけだ。
閉塞した状況にブレイクスルーをもたらす閃きを持ち合わせてはいない。
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