第三の道
古代の中国の詩人は、自らの思想を「天」に託していた。私の好きな陶淵明は隠遁者だったが、彼は自分自身の進んでいく方向が「天」に則っていたのを感じていただろう。
思えば、孔子は政治的失敗者だったし、司馬遷は宮刑という屈辱の刑を受けて、自死を思いとどまり、引きこもって「史記」を書いた。李白も杜甫も隠遁者だった。彼らは、社会の中枢から剥がれ落ちた存在だったが、自分自身や自分のしている事を恥ずかしいと思った事はなかった。それ以上に、彼らは自らの孤立の中に、社会を越える大きな可能性を認めていたはずだ。
今の中国を見ると、もうそんな気概はないのだなと思う。気概、ここで言う、理想に殉じる事であるが、そういうものを失った社会は二項対立な考えに傾斜していく。
一つは努力して社会の上での栄達を目指す方向だ。その中心にいるのは今では習近平なのだろう。努力して、栄達し、社会の頂点を極めようとする事。これが「上」に登る道だ。
もう一つは「それになれなかった者」。つまり敗者であり、落ちこぼれである。そのような人間は社会にうまく適応できず、競争に敗北した人間であり、その存在は下に行くほどに無意味に近い。
こうした考え方は、現代の我々にはおなじみだ。勝ち組と負け組というような二つの項で人間を整理してしまう。人間はどちらかに振り分けられる。学歴や収入や、人間関係などで人間そのものをポイント化できるかもしれない。こうなってしまうと、人間というのは至極単純に見える。
私はそのような通俗的な考え方は、停滞した社会故に生まれてくる考えではないかと思っている。
最初に、陶淵明、孔子、司馬遷、李白、杜甫といった名前を挙げた。彼らは、社会的には敗北者だったが、彼らの中の理想は社会を貫き、もっと高い所を目指していた。こうした天才達においては、上か下かといった、単純な二律背反は通用しない。彼らはアウトサイダーだったが、同時に彼らの理想は社会を越えていたので、自分を恥じる必要など全くなかった。
今の世の中の言説のほとんどが、上か下か、勝ち組か負け組か、といった思考方法に収まるものだ。その思考方法に見合うように、うじゃうじゃとした内省、自己卑下、へりくだりが一方にあり、もう一方では、傲慢、自尊、思い上がり溢れている。私はそのどちらにも価値を認めない。
こうした二項対立を乗り越えるには、自分の中に理想を持たなければならない。そしてその理想とは、現実の社会を越えたものでなければならない。理想が現実と一致する人間は、現実の変化によって理想も曲げざるを得なくなる。人間の本質的な力というのは、理想を持つ事にある。
理想が絶えた社会では二項対立が世界を支配する事になる。社会に順応する優等生と、順応できなかった劣等生と。しかしそれは単に今ある世界の価値観を、個人としての我々がなぞっただけだ。社会に敗北する事と社会に勝利する事が同一であるような天才を生む、そのような世界というのは、「理想」がどのような形でも未だ残っている世界だ。そうした理想が、過去においては「神」とか「天」とか「道」とか言われた。
私は、現代の小利口な人間に馬鹿にされようが、そうした昔の概念を現代人の功利主義よりも尊く思っている。現代に理想があるかどうかは、簡単には結論できない。だが、理想を探し求めている人間は少数見つかるので、この戦いは、やってみる価値がある。大切なのは、勝ちか負けかといった二項対立を越えるあるものを自分の中に持つ事だ。『それ』を生きる事だ。