なけなし申請
そのブルゾンとパンツのセットアップは、人気の高いメンズブランドの新商品。値段はブルゾン3万3千円。パンツ3万1千900円。合わせて6万4千900円になる。カジュアルでクラシックなデザインは、どんな場面にも合わせやすい一着だ。店では発売日当日から買い求めるお客が後を絶たず、残すは最後の一着となっていた。
男はファッション誌でそのセットアップが掲載されているのを見て以来、欲しいと思っていた。こうしてお店で実物を目にすると、さらに欲しいという気持ちが高まる。
このセットアップを買うためにここへやって来たわけではなかった。街をぶらぶらしていて、たまたま目に止まったセレクトショップに入ったら、売っていたのだ。導かれているような、運命とさえ感じていた。
「試着してみます?」そのお店の店長さんに声を掛けられ、「あ、じゃ試着してみようかな」と、男はセットアップを試着することにした。試着室に入る。
試着までしてなんだが、男には購入したくても購入出来ない諸事情があった。諸事情と大袈裟にいうことでもないのだが、要はお金が足りないのだ。導かれようが、運命を感じていようが、お金が足りなければ、買えないのだ。
現在、男の財布には6千275円しかない。預金残高は8千40円ばかりだ。合わせても1万4,315円にしかならない。それが男の全財産だった。30歳を目前とした社会人にしては、情けない有様である。なんにせよ、6万4千900円のセットアップには全然足りないのだ。ブルゾンだけでも、パンツだけでも、買えない。
ちなみに10ケ月前に勤めていた会社を退職したので、入ってくる見込みのある給料も今のところない。失業手当の支給も既に終わっている。こんな状態では、クレジットカードを使う事も出来ない。親元で暮らしているので、生活に困ることはないが、さすがにセットアップを買ってくれとは言えない。
買えないのに、どうして試着しているのか。冷やかしだと思われるかもしれないが、そうではない。思い出づくりというわけでもない。試着して似合わなければ、すんなり諦められると思ったのだ。いくら前から欲しかった洋服であっても、似合わないのに買う馬鹿はいない。オシャレとは似合ってこそなのだ。
試着室を出て全身鏡の前に立った男は、困窮する。なんてことだ。サイズもちょうどいいし、似合っているじゃないか。かなり様になっているよ。ものにしている。ここまで似合う事なんて滅多にない事だった。試着した事で、さらに欲しいという気持ちが高まってしまった。
「凄くお似合いですね」
店長が言う。おべんちゃらではなく、現に第三者から見ても似合っていた。
「あ、ああ、そうですか…どうしょうかな。でも、やっぱり少し考えます」
と言ったものの、男は諦め切れず、セットアップを脱ごうとはしなかった。鏡に映る自らの姿を見詰めて、どこか気に入らないところがないか探す。しかし、いくら見ても気に入らないところは、見当たらなかった。それどころか、鏡に映っているセットアップを着込んだ自らの姿にうっとりしてしまう。凄く良いよ。どう考えても良いよ。気に入り過ぎて、脱ぎたくない。
店長は、にこやかな顔を貼り付けたまま、不思議に思っていた。男の様子から、欲しいという気持ちは伝わって来る。似合っているのも確かだ。それなのに何故、彼は買う事に踏み切れないのか。これまでの経験から、お金の問題だとおおよその予想はついた。そしてこんな事を言った。
「あの、お客様。こんな事を言うのは差し出がましいかもしれませんが、もし予算が足りないという事でしたら、〈なけなし申請〉をしてみたらどうでしょうか?」
「なけなし申請…?」初めて聞く言葉だった。
「やはりご存知ないですか。国がやっている支援なんですが、余り知られてないんですよね。私も前にお客様から聞いて知ったんです」
「それで、その、なけなし、なんとかって、何ですか?」藁をも掴む思いだった。
店長は、辺りをキョロキョロと見まわしてから、先程よりも少しばかり声のトーンと落として話し始めた。男を気遣っての事だろう。
「〈なけなし申請〉というのはですね。個人が所有する全財産を申告して、認可がおりれば、国が支援してくれる制度なんです」
「ハァ!?生活保護的なものですか?」
「生活保護は生活が困窮している人を支援する制度ですよね。そんな大それたものではなくてですね。欲しい物があるのに予算が足りなくて困窮している人を支援する制度なんです」
「そんな制度があるんですか。始めて聞きました」
「昔から「なけなしのお金をはたく」というじゃないですか。そういった〈なけなしのお金〉というのは、個人が所有する貴重な全財産ですよね。そんな貴重なお金を使ってくれるという事で、国が特別にお金の価値をあげてくれるというわけです」
「え、お金の価値を上げてくれるんですか」
「要は足りない分を国が援助してくれるというわけです。国民の貯蓄を市場に引っ張り出そうという政策の一環みたいなんです。貯蓄されるよりかは、使って欲しいという事なんでしょうね。ただそんなお金まで搾り取ろうとしているのかとも思うのですが、欲しい物を安く買えるという事なので、ウィンウィンなのかもしれませんね。とにかく〈なけなし申請〉は国民の権利ですから、申し込んでみてはどうですか。ただ、条件を満たして、認可がおりるのは難しいみたいですけどね。やってみる価値はあると思いますよ」
店長のはからいにより、〈なけなし申請〉の審査結果が出るまでの二週間、セットアップは取り置きしてもらえる事となった。
明くる日、男はさっそく〈なけなし申請〉の申し込みに出掛けた。最寄りの福祉事務所に行き、窓口で〈なけなし申請〉をしたいと伝えた。窓口の女性の手引きにしたがい、申請書、預金口座、なけなしのお金の額(男の場合だと全財産の1万4,315円)を記載する。最後に、なけなしのお金を何処で何に使うのかも詳細に明記しなければならなかった。
次の日から〈なけなし申請〉の調査が始まる。預貯金、保険、不動産等の資産調査。扶養義務者による仕送り金の調査。年金等の社会保障給付、就労収入等の調査。3カ月内の就労の可能性の調査。
それらの調査が済むと、次はケースワーカーからの家庭訪問を受ける。生活状況等を把握するための実地調査、ならびタンス預金などの調査が行われる。
調査が終わると、いよいよ審査に移る。〈なけなし申請〉を受けるのに適していると判断された者は、最終審査に進む。最終審査は面接となる。
申請手続きから一週間が過ぎた頃、男の元に最終審査に進んだという知らせが届いた。
翌日に都内にある福祉事務所の本社ビルに出向く。5階建ての4階にある一室が面接会場になっていた。ドアを3回ノックして入室する。面接官は3人。面接官から「どうぞ」と着席を促され、男は「失礼します」と言い、一礼してから着席する。進行役の面接官が口を開く。
「これより最終審査を始めさせていただきます。では、さっそくお伺いします。なけなしのお金で6万4千900円のセットアップを購入したいという事ですが、あなたにとってそのセットアップはどのような存在なんでしょうか」
「はい、わたしにとってセットアップは、運命を感じるかけがえのない存在であります。セットアップの事を始めて知ったのは、ファッション誌〈メンズモード〉8月号でした。〈カッコイイ大人の上質な遊び服〉という特集記事に掲載されていたセットアップを見た瞬間、雷に打たれたような衝撃を感じました。大袈裟かもしれませんが、わたしはこのセットアップを着るために、この世に生まれてきたのではないかと思ってしまうほどです。ただ、その時わたしは、仕事を辞めたばかりで、諦めるしかないと思い込んでいました。しかし…」
面接は30分程で終わった。少し話を盛ったところはあったが、やれるだけの事はやった。後は結果を待つだけ。審査結果の通知は、申請から14日以内に封書にて届くことになっている。
申請から10日後、〈なけなし申請〉の審査結果の通知が届いた。男は封書をあけて中に入っていた書類を取り出すと、審査結果に目を通す。
〇〇様。
〈なけなし申請〉決定通知書。
なけなし保護法により、〇年〇月〇日付けで申請された、なけなしのお金〈1万4,315円〉は、貴殿のなけなしのお金だと決定したので通知します。
東京都〈なけなし申請〉係、所長。
〈なけなし申請〉の認可はおりた。男の全財産1万4,315円は、なけなしのお金だと国から認めてもらえたのだ。これで、あのセットアップが買える。
男は、善は急げとセレクトショップに出向いた。前に接客してくれた店長さんに、〈なけなし申請〉の認可がおりた事を話した。「おめでとういございます」「ありがとうございます」などとかわし、喜びを分かち合った。人目も気にせずに、ハイタッチまでした。
購入前に再度、試着する事にした。試着室に入って、セットアップに着替えて、出て来る。全身鏡の前に立った男の顔には、笑顔が溢れていた。サイズもちょうどいいし、やっぱり似合っている。〈なけなし申請〉して本当に良かった。ファッション誌で見て以来、ずっと欲しかったセットアップが購入出来るのだ。この上ない喜びであった。しかし…
先程から、店内にいるほとんどの者が、男の方を瞥見していた。男がセットアップを見事に着こなしているから、視線を向けたのではない。どうやら〈なけなし申請〉の認可がおりた事を知って見ているようなのだ。男が試着室に入っている間に、店長が同僚に話したのをきっかけに広まったのだろう。
〈なけなし申請〉の認可がおりたという事は、預貯金0、資産0、無職、3カ月内に就労の可能性が無いと、国から太鼓判を押されたという事だ。認可がおりた事は、決して喜ばしい事ではないんだ。それなのに、店長と喜びを分かち合った。「おめでとうございます」と言われ、「ありがとうございます」と返した。ハイタッチまでしていた。馬鹿丸出しじゃないか。男は今更ながら、恥ずかしくなり顔を真っ赤に変色させる。なけなしのお金というのは、自尊心や誇りと引き換えにして得る対価だったのだ。
店員もお客も、男の方を見てクスクスと笑っている。男を見下し馬鹿にしているのは明らかだ。なけなしのお金を洋服なんかに使っていいのかよ、と真っ当な意見を言う者もいた。税金の無駄使いだ、と腹を立てている者もいる。
男は急いでお会計を済ませて、お店を後にする。ちなみに、なけなしのお金の使用方法は、お会計の際になけなしのお金1万4,315円を現金で支払い、なけなし申請許可書を提出するだけである。
お店の前まで見送ってくれた店長さんから「またのお越しお持ちしております」とは言われなかった。なけなしのお金すら無くなった男には、またのお越しはないと見切りをつけられたようだ。
自宅に戻った。このままではセットアップを買った事を後悔してしまいそうだったので、気持ちを切り替えようと、セットアップを着てみることにした。
セットアップを着て全身鏡の前に立つ。サイズもちょうどいいし、かなり似合っている。恥ずかしい思いはしたが、買って良かった。新しい洋服を買ったら、何処かに出掛けたくなるものだ。さて、これを着て何処に出掛けようか。そう思った瞬間、男はある事に気が付いて顔を歪めた。
無一文になった今、何処にも出掛けられないのだ。なけなしのお金まで使って購入したセットアップは、タンスの肥やしになりそうだ。
終