92 サムーテ
三階の応接室がすでに用意され、手紙と学友が一人待っていた。
「サムーテさん?」
首を傾げると、普段口を利かないサムーテが深く一礼した。
まずは手紙をと、二通の手紙がある。一通目はサムーテへ宛てられた手紙だ。
簡単に言えば留学の帰還命令だった。ただ、アッサル国からで、理由は近く戦火が向く可能性があるからと。アッサル語で書かれていた。
問う前に、もう一通にも目を通した。
そちらは国境の帝国軍からの報告だ。第一報らしく文は長くない。内容は国境近くに人が増えている事、戦争の兆しありと書かていた。
「サムーテさんは、アッサルご出身でしたか……」
「そうだ」
相変わらず短い言葉だ。
「本来でしたら、我々にこの情報は知らせるべきではないのではありませんか? それとも、帝国へ亡命目的でこちらへ留学を?」
「………」
何か言いかけて、口を閉ざした。元々無口な人で、絵に関することでしか基本発言はない。それもとても短い言葉だけだ。
黙ったままだが、わざわざ戦争計画を漏らすとなれば敵意があるわけではないだろう。僕にそれを渡すのは、僕の生まれかルールー統治区の新体制に係わっていることを知っているからか。最初の話し合いはこの館でしていたし、アシュスナ達もここに滞在していた。サムーテは冬も帰らずにここにいたはずだ。何か耳にしていても不思議はない。
「俺は……こく」
言いかけたが、やはりどこか悪いのか言い淀む。
「ユマ様」
トーヤが声をかけてきた。こういう場では警護は基本声をかけてこないが、彼もアッサル出身だ。意見を聞こうと見上げる。
「統一言語はアッサルでも習いますが、専修ではありません。帝国支配もないため、達者でない者もおります。アッサル語で話してもよろしいでしょうか?」
「そうですね」
ジェゼロをはじめ、帝国やナサナ国、元ローヴィニエ公国など統一言語と呼ばれる言葉を使う者が多い。他の言語は伝統的に残している地方はあるが、他国や他の村や町との交渉には不便になるため統一言語が通じないという事に思い至らなかった。それにトーヤは問題なく話している。
トーヤが何か話しかけるとサムーテは驚いた顔をして言葉を返した。
「やはり、あまり言葉は達者ではないようです」
「そうですか。では、なぜ私に知らせてくれたのか。まずは伺ってください」
頷きトーヤに通訳してもらう。
それにしても、授業は普通に受けていたように見えていたし、動くなとか咄嗟の言葉は出ていた。一年以上同級生をしていたのに気づかなかったとは。意図的に隠していたのもあるだろう。
「亡命に近い状態でこちらに留学しているそうです。二年の間に言葉を覚えて、帝国のお抱えとして働く約束だそうです。ユマ様に伝えたのは、ユマ様に何かあれば就職先を失うからと」
トーヤが少し困った顔で通訳してくれた。
ふと浮かんだのは僕を主題にしてサムーテが絵を描いていたことだ。母に対してアレな帝王陛下を考えると、僕を描いた絵は彼の生活費に化けていたのだろう。
サムーテが話を続ける。彼の声をこれほど長く聞いたのは初めてだった。すべてではないが、三割ほどは話が分かる。共通言語から派生した言葉は同じ単語を使っていることもあるし、ベンジャミン先生からいくつかの言語は習っていた。比較的近くの地方言語を主に学んでいたが、アッサル語も片言であれば学んでいる。
サムーテも共通言語は片言であれば理解できるのだろうが、言葉尻で雰囲気が変わってしまうし、政治の話になれば普段使わない単語も必要になる。長い会話となればしり込みするのも理解できた。ここで誤解されたら色々と困る立場になるだろう。それでも知らせようとしてくれたのだ。
サムーテは大臣の息子だったが、五男坊で、親からも忘れられているような存在だった。特に勉学も剣術も強いられることなく、半ば放置子に近い扱いだったため、咎められることもなく近所にあった工房に入りびたり、そこで言葉よりも先に筆を執るようになった。下手にぐれられるよりは絵描きの方がましだと考えて、家人は何も言わなかった。
自分にとっては、工房の職人たちが兄であり父であり家族だった。
成人してもそんな調子だったが、幸せだった。買い付けにきたジェーム帝国の商人が絵を買ってくれることがあり、それらの売り上げは工房に渡していた。生活に困っていた訳ではない。むしろ、この場所がなくなったら、困るのだ。
ある日、父が失職した。昔から権力抗争に明け暮れていた人だが、負ける時が来たらしい。優秀な長男の立ち回りで何とか処刑は免れたが、片田舎のとても小さい村とも呼べない領地を任されることになった。家族全員がそちらに移ればすぐに財は尽きる。命の代わりにこれまで蓄えていた私財はほとんど徴収されてしまったのだ。
最初に切られるのはもちろん自分だった。家には絵が売れていることは話していない。ただぐうたらと絵を描く息子には価値がなかったのだ。
工房の職人たちは受け入れてくれたが女将は違った。
負けた大臣の息子を雇い入れているとなれば国から目を付けられる可能性があるからだ。彼女は母のような人だった。いや、産んでいないだけで母だった。その人から出て行って欲しいと言われた時は流石に堪えた。けれど、罵る言葉を言いながら、目に涙を貯めているのを見てしまっては、荷物をまとめるほかなかった。
今思えば、首都に残れば因縁をつけられて自分は殺されていた可能性も高い。言うように工房にも被害が出ただろう。
女将は追い出すと言いながら、先んじて手紙を出してくれていた。いつも絵を買ってくれていた商人からの返事も持たせてくれた。
ひとりで、山を越え、国境を越えてヒスラの街に着いたのはひと季節が過ぎたころだった。雪が降り始めたヒスラで待っていたのは商人ではなかった。まだ作りかけの大きな屋敷に案内され、再来年から隣のジョセフコット研究校へ通うようにと命じられた。
アッサル語を話せる人がいなかったので、片言で何とか会話をした。アッサル語の本は少なく、国にいる時から共通言語の本は読んでいたため難しい事は筆談で進めた。
冬を温かい部屋で過ごしていると、春を前に屋敷が慌ただしくなる。予定よりも早く、この春から旧人類美術科という学科が始まることになったから、そのように準備を命じられた。なんでも他国の要人が入学予定日を変えたらしい。
自分は滞在と身の安全の代わりに絵を描いて、過ごしていた。誰が保護してくれているのかも正直よくわからなかったが、命じられれば従うしかない。
学校が始まる直前に、同じ屋敷に何人もの同居人が増えた。同居と言っても廊下を共有するだけで個室ごとが家のような環境だった。特に会うこともなかったし、アッサルのものだからと因縁をつけられたり差別されることもなかった。彼らは同じ学科の生徒となった。
入学の日、一人の少女に目がいった。最初、その人がとても不思議な生き物に見えたのだ。
少女なのに少年にも見える。いや、どう見たって少女だが、絵に描くと少年になるのだ。不思議に思いながらも絵を描き上げると直ぐに知らせがきた。部屋で描いていたので掃除や給仕の使用人が目にして報告していたのだろう。
帝王の蝋印が捺された手紙から、その少女の絵は全て買い上げる旨が描かれていた。他に売ることは禁止するとも。代わりに、帝王の名の許、卒業後も保護すると書かれていた。
それだけで、他国の要人が誰かは一目瞭然だった。
工房では、依頼主が求めるものを提供することはよくあった。描きたいものがあれば趣味で描けばいいが、仕事は別だ。だから、求められるままに少女の絵を描いていた。いつ頃からだろうか。季節は忘れたが、五枚目の絵で少女は女ではないと確信した。
二回目の冬が過ぎて、二年目の学校が始まって、この手紙が来た。
父親からの帰還命令。戦争のための兵は一人でも多く必要で、国を守るのは義務だというものだが、父は息子を死戦に出すほど愛国心があると示さなければならないのだ。五男だが四男は早くに死んでいるし、上の三人もいまだ全員生きているかはわからないが、少なくとも自分は兄たちよりも捨てて困らない駒だ。
「アッサルへ行って、こちらへ向こうの内情を報告しようと思います」
ユマの許にいる男へアッサル語で告げる。彼は随分と流暢にアッサル語を話した。
「それは、間者として動くという事ですか?」
ユマの言葉は理解できたが、改めて通訳された言葉も齟齬がない。
それに、頷いた。
話はアッサル語でも得意ではないが、絵は得意だ。報告書に絵をつければ何か役に立つかもしれない。
国を出る前から、何か嫌な雰囲気は感じ取っていた。
何とも言えない、錆びたような空気だった。
「……家族を助けるため、ですか?」
問われて首を横に振った。
薄情だと思われるだろう。だが、産まれた家の方針を考えるならば、本来は帰らない方が正しい。一家全員が固まり、対抗するよりも、分散して誰かが生き残る方を選ぶ。それがオカ家だ。父の兄弟は別の派閥に所属して、誰かが貧乏くじを引けば、切り捨てていた。あれとは袂を分けた身だと。
今は、上手く駒として使いたいがために呼び戻されただけだ。袂を分かつほどの価値がないと判断されているのだ。
アッサル語で、自分はもう帝国の人間だと告げた。
それに対して軽蔑するでも、憐れむでもなく難しい顔を返された。いつも微笑んでいるユマには珍しい。それは少女というよりは少年に近い表情だ。
ユマが言ったことを男が通訳した。
「ユマ様は、あなたでは間者には向かないので、出向かない方がいいと。帝王の保護下にあるならば、彼の命令でないならば待機するようにとの事です。それよりも、アッサル国の現状や兵力など、今知る限りの事で構わないので詳しく伺いたいそうです」
「お前は……アッサルの出か?」
男に問うと頷き返された。
「トーヤ・クロサキ。元はタケル・ニシジマの許におりました」
トーヤと名乗った男がアッサル人かは判定が難しい。元々純潔種族はない国だ。国言葉が話せれば国民とみなされる。
タケル・ニシジマと言われて聞いたことがあるような、ないような。
「こちらの言葉はわかる。だが話すのは苦手だ。後日、書いて渡す」
こちらの言葉で伝えるとユマは頷いた。
「ご家族が心配かとは思いますが、よろしくお願いします」
ユマへ戦争の兆しを知らせる。それが終わって部屋へ戻った。
家族が心配かと問われて出てきたのは工房の面々だった。
家族の顔は抽象画のようにしか浮かばないが、工房の面子は写実的に描ける。
薄情なのか。きっと薄情なのだろう。
だが、あの故郷がなくなるのかと思うと複雑な心境になった。
ルールー統治区自体はそれほど強い訳ではない。だが、ここはそれ以前にジェーム帝国の一部だ。帝国に歯牙を剥けば噛みつく前に食い殺される。当たり前のことだ。
帝国に電報を入れてもらう。ルールー統治区の監視のようなものは受け持ったが、他国との戦争の対処は指示されていないし、他国との揉め事に関わっていい物かは微妙だ。関わらない方がいいのだろう。
帝国軍は、いざという時の指示がきている。もしも攻めてくればどのように対処するのかと問うと、帝国の警護は顔色一つ変えず殲滅すると言った。
帝国国民に手を出すという事は、宣戦布告。村人間での揉め事ならば話し合いにも応じるが、そこに国家の意志があれば別だという。
ジェゼロ国民には分からない感覚だ。そもそも手を出せば神罰が下ると言われ恐れられる立場で、女神教会が勝手に神聖視してくれる。手を出せば神罰以前に国内の女神教徒が抗議するだろう。
十日ほどで一人の人物が派遣された。もっとも、僕の知らない場で。




