79 女神の息子
七十九
焼死は嫌だ。
いや、その場で死ねればまだいいが、下手に重度熱傷で生き残ると生き地獄を味わう。ジョセフコット研究所に生きている間に運び込まれたとして、現在の治療は合併症で死ぬ可能性も高い。それに、腕を縛られた状態では、火を消したり逃げたりもできない。
ルピナスが下した手の合図に合わせて後ろでびしゃりと何かが捲かれた。可燃性の高い液体をかけて火を点ける予定だったのだろ。だが、足元に液体がかかっただけで体には何も濡れた感触はなかった。ぎゅっと強張って目を瞑ったが、足元へ視線を落とすと赤い照明が足元を黒く照らしていた。首をひねって後ろを見ると、見える範囲に何かがごろりと転がった。それが頭だと理解するのに数秒かかった。
「あ、悪魔よ! 去れ!」
もう一度、ルピナスが声をかけるが、本来の実行犯はもう上にはいない。いや、もっと高みに上ったのだとぞっとしていると、振り向いたのとは反対側から人影が現れた。
「……」
返り血は浴びていない青年がまっすぐに大司教たちの方を見下ろしていた。後ろから他に物音がしたので、彼とは別に人がいるようだった。
縛られている私の位置よりも前に出たせいで顔がはっきり見えない。
「悪魔はどちらだ?」
見下したような言葉に、ざわついていた下が、水を打ったように静まり返る。
ただの一言で、声を張り上げたわけでもない。冷え冷えとした淡々とした言葉だけが、響いた。
「あっ……あなたは何者ですか! 神聖な儀式を邪魔するなんて」
ルピナスの引き攣った声が場違いに響く中、男が軽く首を傾げた。後ろで縛った濃い色の長い髪が揺れた。
「女神教会が言うところの、女神の息子です」
その言葉で、辺りが再びうるさくなる。大司教が唖然とした顔をしているのが見えた。ルピナスも酷く驚いている。
神託を聞いたなどというのも大罪だが、男は自分がジェゼロ王の子だと言い出したのだ。騒然となるのは仕方ない。
「う、嘘でしょう! そんなっ。ジェゼロ王家を語る者は死罪に値します!」
どうすればいいのかわからなくなったルピナスがそういいながら大司教の外套を掴む。
「大司教様! これほどの罪はないと仰ってください」
ブランカはいまだ目を見開き赤い瞳で男を見ていた。
「今ならまだ、悪魔の囁きがあったと言えるかもしれませんよ? ブランカ大司教」
茶化すなんて表現は似合わないが、男の声には嘲笑うような、嬲るような響きがあった。
もしジェゼロの王族であれば、言い訳もできない。証拠隠滅としてこの人の多さを利用し、混乱させてこの男を殺せばブランカ大司教の生きる道になるかもしれないが、この男が本物だった場合、死罪では済まない。それこそ、神から女神教会が見捨てられる。
ブランカの動向をじっと見ていると、何度か口を開けたり閉じたりした後、崩れるように両膝を付いた。
「ジェゼロに光あれ。あなた様こそ、真に世界を救い給う方です」
「そんなっ。いいのですか。あなたの子息は、帝国に捕えられていると言うのに!?」
ルピナスに一瞥もくれず祈りをささげた後、ブランカは下で控える自身の護衛に目配せを行った。
「ユウマ様。甘言に騙された私をお許しください。悪魔はこの場で処罰を与えます。どうか、ご慈悲を」
大司教の連れてきたものだろう。それらが舞台に上がり、ルピナスに縄をかけた。まるでここまで全てがこういう演出のようにすら思えてしまう。
どこへも逃げ場がないルピナスからはもはや顔色がない。
ざわつきも大きくなり、制御が効かなくなり出しているのがわかる。それでこれが茶番ではないと理解できた。
剣を抜いて、一人の男が舞台に上がる。言葉の通り、ブランカ大司教はこの場でルピナスの処罰として首を刎ねるつもりだ。無理やり跪かされ、不自然な姿勢で首を前に押し出され抑え付けられていた。
焼き殺すつもりだった加害者を助けるいわれはないが、証人としては生かしておかなければならない。
「殺すのは……」
辞めるようにと声をかける前にルピナスが叫んだ。
「悪魔を殺しなさい!」
爆ぜるような音が複数聞こえたが見えたのは誰かの頭だった。縛り上げられていたので、本来の身長よりも頭いくつか分高い位置だった。だから、普段は見えない人の頭頂が見えた。見下ろすと、頭の下には何かがいくつも刺さっていた。それが弓だと気づいたときには、別の爆発音が響いた。教会のガラスが破れ側廊に投げ込まれた何かが爆発して大きく煙を上げていた。
阿鼻叫喚の中、ずるりと、足元までずり落ちるように下がった。
「っ……ユマ様」
駆け寄ってきたのは見た事のある少年だった。
今、何と呼んだ?
「ニコル、エルトナの拘束を解いて、はやく」
短く命令されて、震えた手で腕と足の縄が切られた。手を貸してもらい台から降りる。しゃがみこんだ姿勢で咽る男をのぞき込む。赤い照明が照らすせいで、心臓が軋むような光景に見えた。
「ユマ!」
別の誰かが近づくのが見えた。振り返るとナゲル・ハザキだ。どうしてここへと聞く前に、ナゲルが男の、ユマと呼ぶ相手へ駆け寄った。
「……ニコル、誰も上げるな。まだここの方が安全だ」
下からは悲鳴や怒号が聞こえるのに酷く遠く感じる。
「エルトナ……怪我は?」
人の心配をしている場合ではない相手が問いかけてくる。
「私は、怪我はありません。……庇ってくれたおかげです」
矢を受けたのは自分ではないのに、血の気が引いていく。背中には複数の矢が刺さっている。一本は、腹を抜けて矢じりが見えていた。ライトではない黒い赤が服に広がっている。
「よかった」
男が、笑いかけてくる。
どう見たってその相手は男で知らない人のはずだ。だが、その表情は、自分の知っているユマ・ハウスだった。




