72 神託
七十二
小さくて、汚い家に匿われていた。これは私に対する神からの罰だ。
兄と祖母がどこにいるのかは知らされていない。
帝国軍が街に入ってくると第一報があり、浚われるように連れてこられたのは別の建物だった。その後、三回場所を変えた。
家族の罪を知っているから、これは妥当だとわかっている。人生の結末はきっと悲惨なものになるだろう。
ルピナス・ルールーとしてアゴンタ・ルールーの後に産まれた。母は病弱で、私を産んで間もなくその人生を終えた。散々、子供ができない事を祖母から咎められ、ようやくひとり授かった後、直ぐに二人目を求められ、体が耐えられなかったのだろう。
そんな母の事を、祖母は表面上では憐れんで、アゴンタを残したことを褒めるが、実際は役立たずだと罵っていた。
彼女にとって、兄を産んだ高潔な血筋。それだけの価値で、私はただの予備。女だから予備にもならない。
「ルピナス様」
窓辺に立つことも許されない生活が続いていた。
私よりも、世話をさせられる侍女の方が余程悲惨だろう。死んだような目をしていたのに、名を呼ぶ顔は高揚していた。
「司教様が……司教様が来られました」
何のことを言っているのか理解できず、促されるままに部屋を出た。東屋のような家の前に立派な馬車が止まっている。身支度もなにもしていないのに、そのまま熱に浮かされたような侍女に押し込まれるように馬車へ乗せられた。
馬車の中にはセオドア司教が待っていた。司教服ではなく、普通の服だ。ルールー一族と彼は懇意にしていた。だが見捨てられると思っていたから唖然としてしまう。
女神様だけでなく、誰からも救いの手は差し伸べられないと思っていたのに。
馬車の扉が閉ざされ、座るより前に走り出す。
「掛けなさい」
命じられて近くの座席に崩れるように腰かけた。まだ、呆然としていた。
「……」
なぜと言う問いが言葉にならない。罪を免れるために売り払われると言うのが最初に浮かんだことだった。
誰かに助けられる人は、誰かを助けた事のある人だ。私は、誰も助けなどしていない。
「ルピナス・ルールー。此度は其方に降りかかった災いは神から与えられた試練だ」
馬車がどこへ向かうのかも告げられぬままに、女神に仕える方は静かに仰った。
「……これは、罰なのでしょうか」
兄の助けとなるためにと、厳しい教育を受けてきた。誰よりも賢くなければならないと。当主になる兄は、どんなに勉強ができなくても、お金を払って、教師から試験内容を知らされて、いつもいい点を取っていた。そして私がそれ以上の点数を取れば、兄を立てていないと叱られた。試験の内容を知っているなら満点くらいとればいいのに、それすらできない兄よりも常に下に。そして、兄以外の誰よりも賢くなければならなかった。
それでも、自分は余程恵まれていると、最近は考えられるようになっていたのだ。
数年前、祖母が子供を兄に与えた。父は女の扱いを知らなかったから子供ができるのが遅かったのだと、練習用に連れてこられた女の子。あんな扱いに比べれば、私は人として生きていると。
私の一番の罪は、惨めな子供を見て、安堵したことだ。人の幸福も不幸も絶対値ではない。相対的なものだ。自分よりも可哀そうな相手がいれば、私が一番不幸ではないと案じできる。
一年近く、見ることがなくなったその子は、きっと兄の癇癪で殺されたのだろう。
何もせずに見ていた。だから、私も同じように扱われても、野良犬のように死んでも、仕方ない。
女神様の教えに逆らった。だから、罰があったのだ。
「ルピナス。可哀そうな子よ。私は女神様より遣わされたのだ。其方は一族を救えるのだと」
肩に乗った白い骨ばった手を見る。緑の宝石が埋まった指輪が光って見えた。
「わたくしが……救う? 一族、を?」
帝王がルールー一族は統治区の管理者として不適格とみなしたのならば、もうどうにもできない。一族全員が見せしめとして処刑される。これまで媚び諂ってきていた者たちから石を投げられ、凄惨な最後を迎えるのだ。
「そうだ。帝王の邪なる手から、一族をこの地を救うのだ」
「……どうやって…ですか」
女神様は世界を救われた。だが選別が行われる。正しい者、才能のある者しか神は救わない。私のような、醜い性根の者に手は差し伸べられない。
「其方が女神様から言葉を聞くのだ。そして、民衆にそれを伝えるだけでよい。後は我々が整えよう」
「………そんな」
女神様は神ではない。神に愛され、唯一言葉を聞くことができる尊い方だ。女神様がいなければ世界は終わっていた。そんな方の名を語れとセオドア司教は仰られたのか……。
私に、信じる神をも裏切れと……。
「それとも、あの子のような最後を迎えたいと? 死ぬときは一瞬かも知れぬが、その場へ向かうまでの間、其方はもうルールーの姫ではない家畜以下の扱いを受けるのだぞ……」
泣き声まで嘲笑う対象とされた女の子の目が脳裏に浮かび、ぶるりと身が震えた。
あんな風になりたくない。
御婆様やお父様に愛されなくてもましだと思えた。犬猫の方が余程大事にされる扱いを私は耐えられない。
それに、司教様がいうのだ。女神様を敬う方が言うのだ。
それが、神の意志に従うということだ……。
まさか、帝国軍に守られて都地区にあるこの屋敷に入ることになるとは思わなかった。
「アシュスナ様」
軍から派遣された警護に名を呼ばれる。当主としてここへ来た以上継承がつくことは当たり前だが、どうにも違和感がする。様ってなんだ、どこの誰がからかってるのかと苦い顔になる。
「前当主のリーダル・ルールーは危篤ですが、いつ死亡しても不思議がないとのことです。先に会われますか?」
父親と言われても困る相手だ。ただ、最後に確認する必要がある。
案内された場所は当主の部屋ではない。二階の一室、鉄格子の嵌められた部屋にその男はいた。
年老いた姿に見慣れない管や線が繋がれていた。ジェーム帝国の最新医療で生かされている。
小太りで猫背の姿しか印象になかったが、痩せ衰えて、腕は身を守るように固まっていた。
「意識は恐らく戻らないでしょう。生命維持も長くは持たないと医師が言っています。ユマ様、サジル様からも当主の処刑に関しては許可が出ております。それに、正式な当主交代、そしてリーダルへの断罪として病死する前に執行できればと考えています」
死刑執行の指示を待つ言葉を聞きながら、本当にこれがあの男だろうかと首を傾げていた。
気の弱い男で、全て母親の言いなりだった。自分を産んだ娼婦曰く、なんとも簡単な男だったという。普通、娼婦の母よりも立派な領地当主の父親に似たいと思うべきなのだろうが、俺は母親に似てよかったと心底思っていた。そもそも、本当に父親がこれか怪しんでしまう。違うと結果が出たらどれだけ清々しいだろうか。
この男から、一度として、息子として扱われたことがなかった。
この屋敷に呼ばれた時、正直に言って期待した。娼館での暮らしは幸せとは言えなかったが、ここに呼ばれた後の事を考えれば十分な生活だった。
連れてこられた理由は奴隷が欲しかったからだった。血縁上は祖母である女が、唯一孫と認める子供の為に、何かあっても簡単に処分できる人間が欲しかったのだ。
年の離れた弟をアゴンタ様と呼び、馬に成れと言われれば気が済むまで這いつくばらされ、手綱代わりに捕まれた髪は容赦なく引き抜かれた。それでも何を言われても従わなければならない。
地獄から出るためにリンレット学院への入学試験を黙って受けた。成績優秀で合格した時、祖母は酷く不快な顔をしていた。
入学を許されたのは、娼婦の母の口添えだったと後で知った。当時は父親からの進言だと思い、また無駄な期待をしたのだ。
母は子供への愛情ではなく、あまりにも自分が軽んじられる事に不満があったらしい。それでも、まだ父親よりもマシだ。この男は、そもそも俺を息子とすら見ていない。
ユマが俺に対して親や兄弟を断罪することを気に病まないかと案じていた。それを思い出して笑いが浮かぶ。少しでも愛情を受けていたら、俺は彼らを助けていただろうか……。それもとこんな血を継いだからなんとも思わないのだろうか。
「帝国法に則り、採択の後、速やかに処刑を行いましょう」
わずかに男の目が動いた気がした。
乾いた目に、命が残っているのか俺にはわからない。
「処刑台はしばらくそのままにした方が手間が少ないかもしれないな」
ユマがこちらに来る前に、醜いものは終わらせておきたいと思った。
ルールー一族は断罪されるだけの罪がある。本来一緒に処刑される者に罪がないなら救いたいと言うのだ。優しいユマの心遣いを無駄にしないでやりたい。
「マルティナスはどうだ。まだ死んでないか?」
南地区からこちらに移動させて治療が行われている義母妹の確認へ向かう。
正直アゴンタ以外の弟妹には大した思い入れがない。ただ、マルティナスは俺に対する嫌がらせに他の弟たちと違って参加はしていなかった。
ただ、自分に被害が飛び火しないようも離れた位置からただじっと見ていた。そう、どこか気味の悪い女だった。
現状整理として、出発前のサジルと話し合いの場が設けられた。
二月初めにアシュスナは帝国軍と共に都地区へ向かった。新当主として色々とすることがあるらしい。そちらにはサジルの部下が同行している。
サジルと僕たちも、天候を見て数日中にここを立ち、都地区へ向かうことになっている。
「帝国法に則り、先日前ルールー当主のリーダル・ルールーの処刑が市民公開のもとで行われました」
「……そうですか」
決まっていたことだし、仕方ない事だ。だが、どうしても気落ちする。
自分に置き換えても意味がない。アシュスナの家族はそもそも家族と呼べない荒んだ関係性だ。それでも、何も感じないわけではないだろう。
「統治区議会は掌握が済み、帝王命によりアシュスナ・ルールーが統治区区長と正式に認められました。一時的に警備組織にも帝国軍が介入しています。一度周辺の村民が抗議を行いましたが鎮圧。アゴンタと祖母のグロリアーレは現在も不明ですが、その抗議の原因にルピナス・ルールーの関与が示唆されています」
「……ルピナス?」
誰だったか……ああ、そうだ。
「アゴンタの妹でしたか」
アゴンタから求婚と言う嫌がらせを受けたときに後ろに控えていたのが確かルピナスだったはずだ。アシュスナの妹でもある。
「はい。そのルピナスが村民を扇動した疑いがあります」
「……扇動、ですか?」
そんな頑張って動き回る風ではなかったので不思議に思う。誰かが裏で糸を引いているのだろう。
「それで、実際の後ろ盾はわかっているのですか?」
「女神教会です」
勿体ぶらずに出てきた答えに眉を顰める。
「ヒスラの女神教会はルールーと懇意だったとは耳にしています。セオドア司教か……捜索中の細目の男が介入しているのですか?」
「セオドア司教が動いた可能性はあります。ただ、村の教会に滞在することが増えていて、そこに数日いることもあるようです。そこに籠り、祈りを捧げているとの事で一度入ると一歩も外に出ておらず、もしかすればどこかへ抜け道が続いている可能性もあります」
「村の教会とは……もしや西側のメリバル邸から近い森のそばにある教会ですか?」
「そうです」
苦笑いが漏れる。
トーヤとニコルに整えてもらった教会だ。
後ろに控えるトーヤへ目を向ける。
「隠し通路などはありましたか?」
「ユマ様が入られる場所を中心に整えていましたので、細部まではわかりません。発見していれば報告をしていました。女神像はゾディラットが唯一担当していた箇所ですから、可能性として、祭壇などは確認してみる価値はあるかと」
元々重要視されていたわけではないようだったが、かなり古い教会だった。ゾディラットが偶然何かを見つけていたら、彼らに筒抜けでも不思議はない。
「そちらを一度確認してみてください。必要であればゾディラットにも」
少なくとも殺されてはいないはずなので、話は聞けるだろう。
「それで、どういった理由で国民を動かせたのですか?」
ルールー一族から利を得ていた者は、反発しても不思議はないし犯罪に加担していたならば処罰を恐れて対抗しても不思議がない。
「……女神の神託を受けたそうです」
申し訳なさそうな答えに、直ぐには言葉が出ない。
女神の神託とはつまり、母の言葉と言う事か? 突飛な決断を下して世界を動かしてしまうことはあるが、見ず知らずの女性に何かを託すことはない。




