49 森の中で
四十九
それほど長くはないだろうが、眠ってしまっていた。部屋は随分と温まっている。
「………ゆ、ユマ様」
暖が欲しくて抱きしめていた相手が困惑した声を上げる。見るとニコルが顔を真っ赤にしている。熱でも出たのかと慌てて額に手をやった。熱いが、高熱ではなさそうだ。
「ユマ様、本当に……男の人、なんですね」
「……そうだよ。身元を隠すために、女装で留学をしていたんだ」
オオガミがぽろっと言っていたが、トーヤのようにぺたんこな胸を見たわけではない。オオガミの冗談か試した言葉だと思っていたとしても不思議はない。
「あの……僕、男の人の相手もできます。体もあったまると、思います」
真面目な顔で提案を受けて、一瞬何のことかわからなかった。強張ったニコルの笑顔を見て困ったように笑い返す。
「ごめん、寒かったから抱きしめてたけど、嫌だよね」
「やっ、やじゃないです! ユマ様なら、平気です」
少し放そうとすると慌ててニコルが抱きしめ返す。裸の少年二人が抱きしめあう光景を第三者視点で想像して、なかなかの秀逸な状況だ。
「ユマ様は、あったかいです。こんな、ひどい失敗をしたのに、ユマ様は怒らないし、優しいです。でも、叱られないと、怖いんです。役に立ちたいんです。だからっ僕を使ってください」
「ええっと、ニコルは、男の人が好きなの?」
まあ、性癖は人それぞれだ。女装癖がある僕がとやかく言えることではない。
「ユマ様が好きです。女の人でも、男の人でも、ユマ様の役に立ちたいです」
基本、異性に好意を持たれるのは苦手だし、無遠慮な人には恐怖すら感じる。だが、ニコルのそれはあまりにも必死で、こんな状況だが怖いとは思えない。
「……僕は、女装はしているけど、別に男が好きだからあの恰好をしているわけじゃないんだ。だから、ニコルをそういう意味で使いたいとは思わないんだ」
「役に……立たない、ですか」
引き攣った笑顔を向けられて、そっと頭を撫でる。
「十分、役に立ってるよ」
密着した互いの肌は最初のように凍えるほど冷たくはなくなっている。凍死は免れたと思う。
「ユマ様がっ……僕の、僕の手を離したのを見て、こわ、こわくて、助けなきゃって、思ったのに……ユマ様は、一人でも助かったのに、僕を、僕を助けに来てくれてっ。僕が、僕が助けなきゃいけないのに」
冷たくなくなったのに震えだすニコルをもう一度抱き寄せる。
ニコルは幼いころから愛されずに育っている。
リンドウ・イーリスからの報告書には、旅一座で育ち、両親は不明。小さいころから道化師として綱渡りやナイフ投げの的役などをしていた。興行中に売られ、命じられるままに生きてきた。
競売にかけられているアリエッタを見て、自分の恐怖を客観的に見せられたようで、競り落とした。ニコルはただのおまけで、勢いに任せた結果だ。
僕にとってはただのついででも、ニコルにとって僕は意味の分からない存在だったろう。自由を押し付けて、その上で義務でない仕事と生活の場を与え、犬を咎めずただ優しい。だからこそ、怖かったのだろうか。
叱られるよりも、叱られないことは怖い。
「……僕を追って、橋から飛び降りたの?」
「っはい」
僕は、ただ手を離しただけだ。自分から飛び込むことは、どれだけ怖い事か。近くにいたことを思えば、僕が落ちてすぐ、躊躇う間もなく追ってきたのだ。
「ありがとう。だけど、死にに行くような真似はしちゃだめだよ」
「ユマ様がっ、手を離したからっ」
嗚咽を漏らして、ニコルが泣く。あのままではニコルも一緒に落ちるかもしれないし、怪我をしているならばこれ以上の負荷はよくないと咄嗟に手を放してしまった。ここまで傷つけるとは思っていなかった。
ずっと笑っていて、感情がうまく表現できなかったニコルをはじめは気味が悪いとすら感じていた。こんなに素直に泣けているのを見てどこかほっとしている自分もいる。
感情を押し込めて生きてくのがどれだけつらい事か、想像もできない。泣ける姿に安堵していた。
しばらくして、落ち着いたニコルが顔を上げる。
「これから、何をしたらいいですか。僕はユマ様の役に立ちたいです」
命令して欲しいというニコルの顔はとても真剣だった。
「服が乾かないとここから出られないから、多分、今夜はここで過ごそうと思ってる。カシスたちが川下へ捜索してくれるだろうから、見つけてくれるのにそれほど時間はかからないよ。僕らが今しないといけないのは、凍傷対策と、体力の温存だ」
ユマが落ちてすぐに帝国の警護が軍に手配をかけた。
一瞬の出来事だった。そもそも、ユマを外に出すべきではなかったのだろう。
ユマが落ちかけている馬車へ向かう代わりに俺が向かった。橋は完全に崩れているわけではなく、真ん中あたりが落ちていて端は跳躍すれば飛び越えられる程度しか距離が開いていなかった。
立ち往生していた馬車が何かをきっかけに走り出すのを俺は見ていたし、混乱した馬は咄嗟に止まれずに間に落ちて馬車は欄干にうまい具合に引っ掛かって体制を保っていた。
いつ落ちてもおかしくない状況で、子供が取り残されているとなればお人好しのユマは助けるだろう。流石に危険に放り出すわけには行かないので代わりに対岸に飛び移り、子供を引っ張り出して父親らしき男に引き渡した。ほっとして振り返ったときには馬車が馬の重みに耐えかねて落ちるところだった。一歩間違えば子供は死んでいただろうと安堵したのも束の間だった。
落ちる馬車が橋脚にぶつかったのだろう。ユマが立っていた場所が崩れた。ニコルが一度はユマの手を掴んだが、ほっとしたのも束の間で、ユマが川へ落ちていく。泳ぎには自信がある、飛び込んで助けようとしたのを、男たちに止められた。口々に何か言われたが覚えていない。そんな中、ニコルが川に飛び込むのが見えた。自分も同じことをしようとしたが、客観的に見ればあまりにも無謀だ。必死に止めるのも理解できた。
ユマ達がアッという間に流されていく。
あのアホと大きく叫んでから、既にしばらく時間が経っている。飛び越えるには危険な距離が開いてしまい、カシス隊長の方へ戻ることもできなくなった。
ユマ捜索で向こうは手一杯だ。ユマが希望したとはいえ、勝手に子供を助けに行った俺を気に掛ける時間がないのも、気に掛ける時間があればそちらを優先するべきだということも理解しているため、こちらは勝手に何とかすると伝えた。
「あの、本当に、申し訳ありません。息子を助けていただいたというのに」
いい身なりの男が途方に暮れている俺の元へやってくる。
「いえ、あのバカ……いえ、あのような場にいた連れの責任です」
ユマが助けに行けば、こちらに取り残されるという事態には陥っても、川に落ちる事態にはなっていなかっただろう。
「あの、ご迷惑でなければ我々が滞在していた屋敷で待っていただいてはどうでしょう。このようなことではお礼にもなりませんが」
いまだに泣きながら子供を抱きしめている婦人を見て何とも微妙な気分だ。あのまま川に飛び込んでいたら、気分は楽だったろう。
「いえ、ここで待ちます。お気持ちだけで」
断りを入れていると向こう岸からミトーが大きく手ぶりをする。川の流れる音もあって声を張り上げてようやく聞こえる状態だ。指文字では通りにくい支持を腕文字の方で伝えてくる。指文字ほど種類はない。簡単な支持と基礎文字くらいだ。ミトーからはそっちの一行が何者か探れと指示が来ていた。
なぜか問うと、狙いはそちらかも知れないからだと返される。
橋が人為的か自然に落ちたものかはわからないが、帝都側からは直ぐ引き返して別の道から他の道がある。ユマが落ちたのも完全にこちらの手落ちと偶然だ。それに対して馬は何かに驚いて走り出していた。
「すみません、先ほどお断りしたばかりですが、やはり今夜はそちらで世話になってもよろしいですか? あちらには連れの捜索を優先させたいので。それで、お宅はどちらでしょうか。一応伝えておきたいので」
場所を確認してミトーへ伝える。
夕刻には震えも止まって服も生乾き程度に乾きだしていた。日が暮れる前に一度それらを着て、薪や食べられそうなものを集める。お風呂に浸かりたかったが、流石にないので大きめの鍋に火傷しない程度のお湯を作って足や手を入れて暖を取った。それだけで思いのほか体が温まった。
冬なのでほかの季節ほど食料は見当たらないが、狩猟小屋に大麦が入った袋があったのでそれを煮て少しばかり腹を満たした。そのころにはニコルも大分落ち着いて、いつもの笑顔に戻っている。
「ユマ様は物知りですね」
「僕の先生が色々教えてくれたから」
「ユマ様の先生……」
まだ寒いのてお互いくっついてふたりで話をした。お腹が空いて、酷く疲れていたが、一人でなくてよかったと思う。
ニコルは小さいころに虎と暮らしていたとか、高いところから小さい桶に飛び込む見せ物をしていた。だから、川に飛び込むのは怖くなかったそうだ。落ち方にコツがあるらしい。
前の主が僕以外の唯一の契約者で、いろいろなことを教えられたという。
最初は動物を殺すように指示をされて、人を殺したこともあったという。最初に動物を殺せないと泣いたら、酷く折檻された上に、苦しめて動物が殺されるのを見せつけられた。だから、殺すときは急所を確実に、苦しいのは一瞬で終わらせるようになったと。
笑っていれば怖くない。怒られることもない。他にも嫌なことを沢山したけど、笑っていれば平気だったという。
「僕は、たくさんのことができます。だけど、ユマ様は僕の力はいらないって、トーヤが……だから、ユマ様が欲しい能力を身に着けます」
捨て犬が必死に餌を求めるように、ニコルは懇願する。
とても、とても可哀そうな生まれと育ちだ。僕には到底理解ができないだろう。どうして、そんな生活をして、何の躊躇いもなく僕を助けるために川へ飛び込めたのか。考えなしと言えばそれまでだ。だけど、人は自分が一番大事だ。普通は躊躇う。
「僕は昔女の子に襲われたことがあるんだ」
自分から、話したのは初めてだった。
ゆっくりと、ニコルの体験してきたことに比べれば、些細な恐怖を話す。
もっと上手く動ければきっと誰も死ななかった。こんなバカみたいな症状に悩まされることもなかった。自分を惨めに思わずに済んだ。
できることを増やして、剣技や体術を習っても、自分は結局、誰かを死に追いやる無能だと。
「……ユマ様は、命令されれば人でも動物でも殺せる僕が、嫌いですか」
人が死ぬ事を忌避していると知ったニコルが、心底恐れるような怯えるような表情に頭をふるう。怖くないかと言われれば嘘になるかもしれない。
「僕の前では、誰かが危険でない限りは命までは取らないで欲しいけど」
「……急所以外は、痛いし、辛いです」
「確かに……だけど、怪我は治るかもしれないけど、一度死んだら、生き返らせることはできないから」
ニコルは、僕が誘拐された時に周辺の見張りを迷いなく殺した。トーヤは情報を得る観点から直ぐに殺してはいないので、残虐性は実はトーヤの方が高い。ニコルは僕を助けるのに邪魔になるものは排除したが、苦しまずに殺していた。
体格からして、甚振るのは不利になるのもあるだろう。
「……できるだけ、殺さないように頑張ります」
「戻ったら、カシス達から教えてもらうといい。ある意味で、危険だからと全員殺すよりも難しいから、方法だけでなく判断基準も学ばないといけない。僕は、こんな風に危険な目にあったり、危険にうっかり落ちちゃうこともあるから、そういう技術を身に着けてくれたらとても役に立つと思うよ。場合によっては、相手から情報を得るために生かした状態であることも大事になってくるから」
「そうしたら、役に、立ちますか?」
一縷の希望を得たように、ニコルが表情を輝かせる。笑顔の暗殺者よりも質の悪い何かを生まれさせたのは気のせいだろうか。
「少なくとも、僕のためだからと簡単に人を殺すようでは、僕は近くには置きたくないよ」
「わかりました。できるだけ殺さないようにします。ちゃんと、勉強も、本も読みます。僕、ユマ様に女の人が嫌なことをしそうになったら、殺さないで止めれるように頑張ります」
「それは……本当にお願いする。僕が立ち直れなくなるから」
ふんふんと頷いた後、ニコルがもう一度こちらを見る。
「でも、ユマ様、女の人がダメなら、僕いつでもお相手できますよ」
「僕はね、あんな恰好をしているけど男が好きなわけじゃないんだよ。ニコルが嫌いだとかでなく、性的趣向は普通で、ただ、一方的に好意を寄せられると吐き気がするだけで」
いろいろな種類の人がいる。ジェゼロはそういうところは変に寛容だろう。その自由がある中で僕は女性と結婚して、できれば子供が欲しいし、その子をベンジャミン先生に見せたい。
どれだけ愛があっても、同じ性では子供ができない。それはとても残酷な事実だ。
「……ニコルは、僕のことを……そういう意味で好きだった? まあ、あんな恰好をしていたし」
女装姿に惚れることは違和感がない。それに僕が喜ぶなら身を差し出すくらい簡単だろう。どちらがより厄介だろうか。
「ユマ様のことは大好きです。優しいし、怒らないし、ペロを許してくれて、それに……」
言い募った後、表情をなくした顔をする。
「……ニコル?」
動揺したような視線の動きがある。ひくりと、頬をひくつらせ、強張った笑みを浮かべる。
「ユマ様……僕、ユマ様に叱られないと」
ごくりと唾をのみニコルが続ける。
「ペロが見つからないように……、あの、ユマ様に、お腹を……痛くする……葉っぱのお茶を飲ませました」
「ああ」
どんな怖い懺悔が始まるのかと思ったら、教会へ初めて行ったときのことだ。
「なんで、怒らないんですか……」
「僕の腹を下させて何をしたかったの?」
「………ペロを、見つけられたくなかった。見つけたら………きっと、きっと殺せって。ユマ様はそんなことは言わないのに。ごめんなさい……ごめ、なさい」
「他には、謝っておくことはある?」
難しい顔で、ニコルが天井を見て、首を傾げる。
「僕は、ユマ様に借りたお金を返す当てがないです」
「それは、いいよ。返さなくていいと思ってたから」
あれは買われた側じゃなく買った僕の責任だ。
「あの、ユマ様。僕、ユマ様のことが好きです。今まで僕にこんなに優しくしてくれた人がいません。だから、だから……僕はあなたを助けたいです。ユマ様が喜べばそれだけでいいです。ユマ様に思いを返して欲しい訳じゃないです。だから……だから、安心してください」
寄生というには奉公精神が強すぎる。
よかったと思う反面、人は強欲だから、想いは返して欲しいといつか思うだろうと不安になる。
「しっ」
何か言いかけて、ニコルがぱっと警戒する。足音がする。




