35 所長臨時代行
三十五
疲れる休日の翌日、授業を受けて夕方に見舞いに行くとエルトナは退院していた。教会には戻らないと聞いていたので、まさかと思いつつ管理棟へ向かうと普通に通される。エルトナがいないと中には通されないのだから、エルトナは一週間しか安静にせずに仕事に戻っている事になる。
「どうぞ」
ノックの後ドアのカギがいて中に入ると、やはりエルトナがいた。
「エルトナ……安静の意味を教えに来ました」
「ああ、医師からの許可は取っています。それに、仕事をしなくて地獄を見るのは、私なんですよ」
早くこの職場、何とかしないと……。
「手伝い、しばらくの間午後全部に戻しますか?」
積みあがった仕事を見て、同情する。
「まあ、この程度ならなんとか……それよりも、糞所長から所長臨時代行兼、客員教授として冬まで増員したと手紙が届きました。所長代理とどちらが使えると思いますか?」
当たり前のようにこちらへ割り振る仕事を選んでいるエルトナが問う。
「仕事は止めませんが、重いものは持たないでください。腹の血管がまた切れたらどうするんですか」
詰み上がった書類を代わりに持ち上げて自分の机に置く。それと、その所長臨時代行は時期からしてオオガミの事だろう。
「昨日……その方、メリバル邸へ滞在するそうで挨拶をさせていただきましたよ」
「つまり、リンドウ様直下の命やイーリス家子息と並ぶ方ですか……」
有力者や富豪の子供もここには通っているが、そういう人たちは家を借りるか買うかしている。美術科はオゼリア辺境伯がこちらに家を持っているらしく、何人かはそこを借りていると聞いた。他の科の生徒と違って金銭に余裕はあるが時間に余裕がない人が多い。なので家を借りて整えたり管理したりをセオドア辺境伯に丸投げにしているようだ。なんだか楽しそうだがジェゼロ王族よりよほど高額な取引の話をしているので彼らとは世界が違うと感じている。
「仕事ができるといいのですけど」
ぎりっと主に不在の所長と働かない所長代理を思い浮かべて奥歯を噛んでいるのだろう。
「はは……優秀な、方のようでしたよ?」
山男の恰好か正装かで見栄えが変わるので名言は避けておくべきだ。
「エルトナは研究所で生活をすることになったんですか?」
「はい。最初寮の空き部屋を考えていたんですが、所長代理が珍しく仕事をして、夜間も常に警備体制があるこの管理棟の仮眠室を部屋として整えてくださいました。これで昼夜問わず働けるなと言う意味には取らず、安全を配慮してだと考える事としています」
仕事が出来そうなすっとした立ち居振る舞いの人だったが、最近あまり見ない。
「足らない品などあれば準備しましょうか?」
「質素な生活は慣れています。ただ……」
言うべきかと一瞬口籠るのが見えた。首を傾げて促す。
「ユマさんのお弁当。ここの食堂のご飯と違って、素朴で美味しかったので、たまに食べたいです」
「ふっ……それは褒めてますか?」
「美味しかったと言う話ですよ?」
所長代理と所長臨時代行兼客員教授が部屋へ入ってくる。一瞬ユマが嫌そうな顔をした気がする。既に挨拶をしているといっていたので何かあったのだろうか。
「はじめまして、所長代理補佐のような仕事をしています。エルトナと申します。ユマさんはもうご存じでしたね」
かなりの長身に、動きやすそうな黒い服を着た男。四十くらいにも見えるが、何というか威厳が見える。ここには若い研究員が多いが、高名な学者やこれまで日の目を見ないまま歳を取った天才も在籍している。彼らと似た、本物の知識に貪欲な目をしていた。
「……オオガミだ。所長からの依頼で来たが……」
こちらを見て眉を顰める。実際若いしさらに幼く見えるので、年端もいかない子供がここで働いているのに不服なのだろう。最初は所長代理を盾に活動していたが、敏い研究員は、最近では所長代理を通す方が仕事が遅いと判断するようになり、直接対応してくるようになっているものが多い。ここは徹底した実力主義だ。若造がと侮るものほど置いて行かれる。
「機械……オーパーツの取り扱いを理解していない馬鹿が多いようだ。今後は俺の好きにさせてもらう」
「はい。所長からそれ相応の権利が与えられていますからご自由にしていただいて構いません。責任は許可した所長にありますが、大きな変更などは伺えるとこちらも対応がしやすいのでありがたいです。所長は責任を取る立場ですが現在不在ですので、実際責任を取って働くのは部下の仕事となりますから」
ロミアだってもう少しましな労働環境を整備していた。それに同僚がいたのでまだましだった。
「……苦労してるんだな」
「はい」
そんなことはないですと形式的に言うはずが、普通にイエスと答えていた。
「失礼ですが、オオガミさんは、もしやオーパーツ大学の学長では? お名前を論文で拝見した記憶があります」
「……ああ、名義上はそうだ」
肯定を得て一縷の望みと、絶望の淵と両方を考えてしまう。肩書だけで混沌に落とす管理職もいる。代筆させて功績だけ奪っている可能性は否定できない。糠喜びになると辛いので、防波堤的な考えを浮かべてしまう。それでも、実際に係わっているならば期待は大きい。
「それならば、安心してお任せできます」
実力は結果を見ればわかる。これでひっかきまわすだけだったら、もう帝王命など糞くらえだ。
値踏みするような視線を感じるが、真価を問いたいのはこちらだ。性格が悪くても態度がでかくてもいい。仕事ができて業務に支障がない人が欲しい。ユマまでとは言わない。せめてナゲルくらいに使えると助かる。ナゲルは学業が忙しいので今はこちらで働いてもらえないのだから。
オオガミとナゲルと戻ると、離れの前でペロの相手をするニコルとアリエッタがいた。最初は犬を怖がっていたが、アリエッタも慣れたようだ。
「あっ……」
こちらを見てニコルが駆け寄ろうと一歩踏み込んで足をぐっと止めた。犬が首の縄に引っ張られたような動きに見える。足を後ろに引いて戻すと、まっすぐと立ってこちらを待つ。アリエッタは何度かあたりを見て、立ち上がると迎えに出てきたリリーの横へ立った。
「おかえりなさいませ」
いつもの弾けるように声ではない、静かな声でニコルが言う。ゾディラットが教えていたので、自制心さえ機能すれば引いた姿勢を取れる。
「ただいま」
一言返すだけで嬉しそうに顔を綻ばせたがすぐに、微笑み程度の真面目な顔になった。見上げるとオオガミに睨まれたようだ。ある意味で犬のようなニコルは、オオガミに調教されている。
「おかえりなさいませユマ様。お食事の準備ができています」
「わかりました」
リリーが言い、アリエッタは頭を下げるだけで一歩引いた位置にいる。
威圧感が酷い大叔父が来て、ぴりついている。
自分が知っているオオガミはベンジャミン先生と仲良く喧嘩しているか、ソラの相手をしている変わり者だ。人の好き嫌いがとても激しいのは知っているが、こう見ると優秀なだけに怖い印象になってしまう。今はわざとそういう態度で試しているのだろう。
「いかがでしたか? こちらの研究所は」
カシスが仕事としてオオガミに問う。
「ああ、ヘリオドールが主体で造っているから金のかけ方が潔いが、まだ人が育ってないな。好き勝手やる連中ばかりで間を埋める人材が乏しい」
今日一日は色々と見学に回っていたらしい。オーパーツ大学の不足分はベンジャミン先生が補っている。あの人のように補佐でありながらなんでもこなせる人は中々いない。普通は主体として功績を上げたいものだ。
「ユマと帰れるときは一緒に戻るが、それ以外は本館で泊まるか研究所に泊まるようになるだろうな」
「承知しました」
改まったままカシスが返す。
部屋に戻って荷物を片付けてから夕食へ向かうと、アリエッタとニコルがせっせと支度を整えていた。いつもよりも仕草が丁寧だ。警護に立つもの以外はまとめて食事を取る事にオオガミは特に何も言わなかったが、二人は見られているのではないかととても緊張していた。僕としてはオオガミがまともに食事している姿の方が違和感は強い。
今日はリリーとトーヤが警護として立っている。リリーは元々強いオオガミに憧れているので恐怖よりは尊敬で緊張しているようだったが、トーヤは予想外にニコルたちよりも緊張しているようだった。トーヤはまだ見習い扱いである事と、席が足りないので二人が警護に立つことに変わった。
そんな元時間契約者の三人を眺めつつ、そろそろ真剣にどういう扱いをするのか考えなければならないと覚悟を決めつつある。
母はベンジャミン先生の重すぎる忠誠心や周りの人たちをよく従えていられると今更ながらに尊敬する。普段はどちらかというと少し頼りなく感じるが、ジェゼロ王としてしっかりと立っている。
王になる事もない僕が誰かの運命を左右していいのか、そんな権利と価値があるのか、わからないけれど、覚悟もなく接することの方が余程罪深い。
食事を終えたら僕は基本的に自室に下がることが多い。警護たちは各自見回りなどの仕事がある。僕がいる方が仕事の邪魔になるのだ。ナゲルも大体自室で勉強だ。僕と違って真面目に勉強している。
もう下には下りないので湯あみを済ませてからオオガミの部屋を訪ねた。ベンジャミン先生が最も頼りにしているのがオオガミだから、先生の代わりに相談をしておきたかったのだ。
ユマは王代理ができる教育は受けていても、王位を継承する教育は受けていません。
オオガミは、妹ではなく兄に継がせたいという方がいたためちょっと特殊な育ち方をしました。全力で回避した結果森でひとり暮らしていた時期があります。




