20 トラウマ
二十
没頭してしまって、ナゲルに声をかけられるまで昼になったと気づかなかった。
「ユマ、今日帰りどうする?」
帰りは一緒でなければならないのでわざわざ確認に来てくれたのだろう。
「ああ、昼はソラと食べて、その後夕方くらいまで続きをするつもりだから、ナゲルがいい時間に呼びに来てくれればいいよ」
「りょーかい」
短く返すと後ろにいた留学生がナゲルを引っ張っていく。ナゲルが他所に連れて行かれないよう監視だろう。
ナゲルが去るのを見届けて、昼が過ぎてしまったがソラの許へ向かう。
森の近くにある隔離倉庫へ認証をして入る。空調管理と断熱が施されているとかで、夏の暑い季節でもこの中はそれほど熱くはない。
「ソラ? ごはんにしようか」
セーブィーと呼んだ機械の上に頭の一部が見えている。今日はちゃんと脚立も横に置いてあったので降りられなくて困ってはいない。
「あっ、ユマくん。……ひぇ」
勢いよく立ち上がったソラの腕が縁に置かれた何かに当たった。咄嗟に後ろへ避けたので直撃は免れたが服に液体が強かにかかる。
「ごごご、ごめんなさいー。今回はわざとじゃないんだよ。うっかりさんなだけだよ」
前にオオガミに対してよくわからない薬剤をぶっかけようとして間違えてかけられたことがある。しこたま怒られたのを思い出して、ソラが賢明に釈明を始める。
「はぁ……これ何?」
「あ、機械用油……人体には大量摂取をしない限り害はありま、せん」
「はぁ……」
少し屈んで床に広がる油を指で撫でる。まあ今回は不運な事故か。
「あっ」
「つっ」
頭の上にさっきより小さい何かが当たる。頭と背中に何かが流れる。
「……」
ゆっくりと立ち上がる。見上げれば、慌てて降りようとした結果、別のものに足が当たったようだ。青い顔をして見下ろしている。
にこりと微笑んで、ソラが足を付けようとしていた脚立を抱えて撤去する。
「着替えてくるからそれまで大人しく待機してるように」
「ぴえん」
「で、その格好か」
大学でユマの部屋は通称乙女の部屋と呼ばれている事を本人は知らない。ジェゼロの学生はユマについて聞かれても多くは語らず、地位ある方だから失礼な事をすればすぐに退学だとだけ伝える。なので謎の美少女が出没する場所として遠巻きにされていた。
そこへ迎えに行くと、乙女ではなくオオガミの替えの服を着ているユマがいた。無論女装ではない。袖をまくり大きさを調整しているが、そういう服だと言われれば違和感がない着こなしだ。話を聞けばソラの所為らしい。詳しく聞いても聞かなくてもその一言で納得する。
「どーする。服取ってきてやろうか?」
「いや、いいよ。どうせ城に戻るだけだから。ソラを確保して一緒に帰ろう」
夏だから夕方でもまだ日が高い。ソラが一緒なら大丈夫かと倉庫へ向かうが、中から戻ってきたユマは置手紙を手にしているだけだ。
「はぁ~」
口汚い言葉が出ないだけ、育ちの良さが垣間見える。
「帰るか」
「そうだね」
お嬢様口調が染み付いたかと心配していたが、島休暇もあってよく知るユマがもう一度ため息をつく。
「ソラは最低限の危機管理はしてるから大丈夫だろ」
防犯用に紐を引くと耳が痛くなるような音が発せられる装置を常に持っている。一人で城と大学以外に行くときは定期的にボタンを押さないと音が鳴る設定にするらしく、気を失っても一定時間で音が鳴るそうだ。昔城で設定を変え忘れて音を鳴らしてしまい注意されていた。
「ララが真似しないといいんだけど」
大学の門で帰宅の申請をして城へ向かうために街へ入る。ジェゼロ国内でも常に誘拐の危険性を考慮しなければならないから大変だ。他のオーパーツ大学の学生も似たような確認はされている。ユマほどではないが、今後発展するオーパーツ知識を持つものは、狙われやすいのだ。
「ララはジェゼロらしく変な趣味はまだ持ってないのか?」
「……まだそこまで執着しているわけじゃないかな。少し目が悪いからか、音に敏感な所があるね」
ララは完全に色素を持たない種類ではない。実際目は赤ではない。歴代のジェゼロ王には二人だったか、同じような見た目の王がいたはずだ。一人は名君でもう一人は引きこもりだった。歴史の授業は赤点ぎりぎりだったので確信は持てない。医学的な分野は覚えている。白子は光源が強いとよく見えなくなる特徴がある。ララはそこまできつい弱視ではないが、あまり外で遊ばないのはそのせいもあるだろう。
「音楽系ならかなり珍しいな。歌は儀式で歌うけど、音楽の授業はお前もソラもほぼ死んでただろ」
「うぐ、ソラはオーパーツ用の変な効果音は作れるんだけどね」
美しいものに異常に執着するユマだが、音楽の美にはさして興味がない。残念ながら音痴ではないのでそれほど面白くもない。
いつものようにだらだら話しながら街を歩く。ユマは気にしていないがいつもと違って視線がうるさい。ユマは女装していないのを忘れているのではないだろうか……。
正直、女装しているユマは美少女だし可愛いと思うが、化粧をしていない男の恰好の方が際立って美麗だ。綺麗過ぎる女性よりも綺麗過ぎる男の方が目に付くのだとユマを見て初めて理解した。
「えっ! ユマ様!?」
買い出しにでも行かされていたのか、昔義務教育の学校で見た気がする女子がこちらを見て驚いたように目を見開いている。それにユマが不思議そうに首を傾げた後、さぁーっと顔色を悪くした。自分の恰好を思い出したのだろう。
「やっぱり、そちらのお姿の方が素敵です!」
無遠慮に近づいてくるので一歩前に出て制する。
「何か用か?」
間に入って邪魔をして嫌がられるのは今更だ。女子がむっとした顔をした後、無視するようにユマの方へ目を向ける。同年代に本物の王子様がいるのだ。それも最近は姿を見せず大抵女装だったのでこの格好に遭遇するのは運がいいとでも考えているのだろう。
「ユマ様。行きましょう」
普段ユマと呼び捨てにするが、公務の時などはちゃんと敬称を付けるくらいはできる。普段のユマに対して口調や態度で咎められることはない。代わりに、ユマといる時に何かあれば身を挺してでも御守りしろと祖父から命じられている。友人だが、命の優先順位は常にユマ達兄弟が上だと教えられている。
促して、一歩後ろのユマを進める。
青い顔をしているユマは震えそうな足で何とか進みだす。女装している時ならば、距離を取れば知らない相手でも多少会話が出来る。以前から知っていて、恋愛対象ではなくただの好意で接する相手ならば女装していれば普通に接することができる。だがこの手の王子に夢見ている系の女子は、武器を持った大男と対峙する以上の恐怖が今のユマにはあるらしい。
「大丈夫か?」
「全然無理」
少し距離ができてから小さく問うと、ひきつった作り笑いから声が漏れる。
とっととユマを城に送り届けるしかない。こんだけモテる顔と経歴なのに、女性恐怖症。それも理由を含め対外的には機密にされている。なんというか、難儀な奴だ。
ユマが女子との距離ができてほっと息をつく。それに合わせて警戒度を引き下げ、振り返れないユマの代わりに後ろを向いた。ユマと反対側で振り返ったので丁度ユマが背になる。
「ユマ様、いまこっちに皆が……え」
女の声がして、ユマの方に身を返す。死角になった位置から、さっきの女子がユマの手を引っ張って先の角道へ連れて行こうとしたのが見えた。
ユマの腕にぶわっと鳥肌が広がり、糸の切れた操り人形のように力が抜けてその場に倒れ込む。唖然とする女子がユマに触ろうとするのを反射で弾き飛ばした。
「なっ、ちょっ……何するのよ」
尻もちを付いて理解できずに怒りを見せる相手を睨みつける。
「ナゲルっ」
駆け寄ってきたのは俺と同年の男だ。昔はユマとも仲良くしていたが、女装を始めてから赤面して近づけないと距離を取った一人だ。
「お前んち近かったよな」
「ああ、家に声かけてから馬車頼んでくる」
さっと駆け出すと角を曲がり、すぐにそこから出てくると城へと猛然と駆けていく。
夕食時よりも前でまだ人通りも多い。ユマを抱え上げて旧友の家へ向かった。ドアは既に開けられて、母親が真っ青な顔で立っていた。
「ああ、綺麗なお顔が」
痛々しく顔を歪めると、中に招き入れ直ぐにドアを閉めた。
ざっと中の様子を確認して、奥の部屋からのぞき込む弟妹がいたがキョトンとしている。ここへ誘導された危険性も考慮したが、大丈夫そうだ。
ユマは女装するようになってから男友達は距離とるようになった。変な気を起こしそうだからと言う理由で、友達を止めたわけではない。むしろ、姿を見たらかなり遠巻きに後ろを付くようになっていた。誤解を受けないように、城警護へ民間警備として手伝いたいと申し出て緊急時の対処を習っていたことも知っている。今回もその成果と言える。
「汚れだけでも」
新しいハンカチを濡らしたものを渡される。顔を確認すると頬から耳にかけて裂傷があった。既に血は止まっている。それと掴まれたのとは逆の腕にも血が滲んでいた。
「少しの間、お邪魔します」
「ええ、ええ……必要なものがあったら申し付けてください」
心底心配そうに返される。親世代は、ジェゼロ王の血筋がジェゼロにとってどれだけ重要か、身に染みているのだと親父が言っていた。
これは、夢だ。
身じろぎできないまま、頭にそう訴える。
無理やり服を脱がされるのに呆然とした。相手の女の子達は場違いに楽しそうに声を弾ませている。
王子様と結婚したらお姫様になれると。子供が出来たら結婚できるらしいと言っている。
助けてと叫ぶ声は塞がれて声にならない。
これは夢だ。今の間に目を覚ませ。頼むから……
場面が変わる。それに寒気がした。
誰かがこれで許して欲しいと懇願している。城警護に止められて城壁から中へは入っていないのに、声だけしかあの時も聞いていないはずなのに、女の子の首が男の持っていた荷物から転げ落ちる情景がありありと浮かぶ。
実際の現場は見ていない。兵士の噂を耳にしてしまっただけで、知っているだけだ。
僕はそこまでの罰を望んでいない。僕が殺したわけじゃない。僕に責任を押し付けないでっ。
目が覚めると、既に日が昇っていた。
全然治っていないなと、ぼんやりした頭で考えた。
この症状の発端はわかっている。だから、母は留学してこいと放り出してくれたのだ。向こうでは、こんなことはなかった。
今回も、ただ不意打ちで女の子に手を掴まれ引っ張られただけだ。いや、ある意味で一番最悪の状況だった。ジェゼロの街並みはどこも似ている。あの道を通らなくても、似たような外観の道だった。あの日はたまたま一人で帰っていて、顔見知りの女の子二人に声をかけられて、半ば無理やりに手を引かれたのだ。
夢の光景がさっと頭に過る。思い出したくない記憶に胸が悪くなる。吐きそうだと身を起こすと部屋の隅に何かが映りびくっ心臓が跳ねた。
「ごめなしゃい」
ぐずぐずと泣いている座敷童がいる。
「……ソラ?」
驚いたのでまだ鼓動が早い。お化けが出たのかと驚いて、吐き気はなくなっていた。
そういえば、今回の事の発端はソラの所為で着替えることになったからだ。女装なら、多分耐えられた。
「はぁ、ソラ、不可抗力だから怒ってないよ。とりあえず、身支度を整えたいからベンジャミン先生に起きたのを知らせてきてくれる?」
「……はぁいぃ」
いつから潜んでいたのか、泣きながら立ち上がると泣きながら部屋を出ていく。
ソラが悪い訳ではない。むしろ、あんなに泣かせてしまって申し訳ないことをした。
今日は城から出ないが女性ものの服にした。
震える唇に紅を指す。
心に鎧を着せているのだ。男だからあんな目に遭ったのだ。ならば、男の恰好をしなければ、女の子があんな間違いを犯さなかったし、親が子を殺す結果も起きなかった。
二人の親は二代前からジェゼロに移ってきた移民だった。ジェゼロでは連座での処刑は余程特殊な例でない限り適応されない。それが王族を故意に害したとしてもだ。だが、他所ではそうではないのだろう。一人の両親は罪を犯した子供を殺して、許しを請うた。もう一人の両親は娘を国外へ逃がした後森で自殺した。
僕はただの被害者だ。なのに、どうして更に苦しめられないとならないのか。
ぐっと胸に鉛が使えるような気持ちの悪さが広がる。
周りへの影響を考えて、公表されていない。だから、女の子たちが以前と変わらず接してきた結果、発作を起こして意識を失ったとしても、相手を責められない。今回も急な貧血とでも誤魔化されるだろう。
重い足取りで共同部屋へ向かうと、既にベンジャミン先生が待っていた。忙しいのに、こんなくだらないことで時間を取らせる自分が情けない。
「まだお顔の色が優れませんね」
椅子を引いて、座るように促される。その前に先生も腰かける。
咎めるでも、同情するでもなく、ただ慈しむ目に嗚咽が漏れそうになる。
「なんで……こんなに……僕は、ダメなんでしょう」
顔を見ていられなくて視線が下がる。
「……今回は体調不良として相手に処罰は与えていません。ご友人たちが、自警団のようにユマ様の為の警備をしているのは御存じでしょう?」
仲の良かった男友達からは距離を取られるようになった。彼らも何をされかけたかは知らない。それでも同年代の女子二人とその家族が急に消えてからの女装癖に何か感じたのだろう。
近づいてこないのは、巻き込まれて処罰をされるのが怖いからだと思っていたが、ナゲルから女子より可愛くて緊張するから近くにいるのは無理だと相談を受けていると、相談の相談をとれて知った。今まで通り何かあれば助けたいから、見かけたときは警護として遠巻きから見守りをしたいと言ってくれているとも。
「すぐに連絡が来たので助かりました。いい友人たちですね」
頭を撫でられて、じわりと涙が浮かぶ。
「どうしたら、治るんですか?」
綺麗なものが好きだから、女装にそれほど苦はない。だが、一生このままでいられる訳でもないし、いたい訳ではない。
「……一度、こちらの孤児院に引き取るかもしれないと言った女の子と話をしてみてはいかがでしょうか?」
「アリエッタと?」
思ってもみない言葉に顔を上げる。
「他の時間契約者でも構いません。彼ら彼女らは命を売りに出した者たちです。他の者が何を思い、辛い記憶をどう処理するのか、話を聞くだけでも少し楽になることがあります。その時は、できればナゲルを同席させた方がいいでしょう。負の感情に引きずられないようにできるでしょうから」
彼らについて、僕は深く知らない。前の主については答えられなかったとしても、話せることはたくさんあったはずだ。
「残念ながら、私自身の解決策はユマ様には使えませんから」
「ベンジャミン先生の?」
「私も、色々な目には遭ってきましたが……結局、エラ様の一言やお傍にいる事を許可していただくだけで、全て解決してしまうんです」
困ったような顔で話されて小さく笑い返す。本当にベンジャミン先生はエラ・ジェゼロが大切で仕方ないのだ。
「僕も、大切な人ができたら、治るかも知れませんね」
「そうかもしれませんが、エラ様ほどの方はそういません」
冗談めかしてベンジャミン先生が言う。
母が凄いのではなく、そこまで想えるベンジャミン先生が凄いのだろう。だが、僕は誰かをそんなに好きになれる想像もできない。
「……僕よりも、話をしたアリエッタやニコル……他の人たちも、僕よりもよほどひどい目に遭ってきたのに、恵まれている僕が、こんな状態とは……」
そっと頭を撫でられる。
「不幸を競い合っても意味はありません。ユマ様の悲しみも絶望もユマ様にしか持つことのできないものです。同じように他者の苦しみもユマ様が受け持つ事はできないし、それを持つ必要はありません。ただ、少し肩を借りたり、自分の腕の中ばかりではなく、周りを見てみることは大切な事です」
ベンジャミン先生は、こんな風に優しく話してくれる両親がいない。森に捨てられていたと聞いた。孤児から国王付きとして王の傍らにいる立場になるには、どれだけ辛酸を嘗め苦労したのか想像もできない。それを見せもしない。
僕を大事にしてくれる家族がいて、守られる立場にある。庇護の許で育ち生きている事は罪ではない。だが、そんな恵まれている自分が、女性恐怖症を発症し改善の兆しもない。それを情けなく思ってしまう自分がいる。
「少し、予定を早めて、ヒスラへ行こうと思います……」
ジェゼロは故郷だ。大事な家族もいる。だけど、全てがあり過ぎて、頭を整理できない。
「わかりました……。帝国へはこちらから連絡をしましょう。ユマ様はこちらですべきことを優先してください」
立ち上がると、先生が躊躇いなく抱き寄せてあやす様に背中を叩いてくれる。普段はしない父親のような仕草に、胸が熱くなる。
自分にはこんなにいい両親がいるのに、あの子たちは罪を償う機会を親から奪われ、命と自由を絶たれた。あの時、僕はどうするべきだったのか。解決策はあった。ただ僕が臆病だったからできなかっただけだ。
ユマが女装をはじめ、女性恐怖症(恋愛対象に見られる恐怖症)を発症した理由でした。




