116 なくしたもの
呆然とした顔をしていたエルトナが、火が点いたように泣き出した。
この前に倒れた後みたいに、人目を憚らずに泣いていた。
少し冷めたところがあるけど、エルトナは本当は泣き虫なのかもしれない。
それをあやしていると、心配になるだけでなく、僅かな優越感を感じる卑しい自分がいる。
「………」
しばらくして、泣き止むと、引き攣ったような呼吸をしばらく整えるように息をしていた。
「………?」
顔を上げたエルトナが、抱き寄せていた相手が誰であるか理解できないような顔をしていた。
母を呼んで泣いていたので、僕で申し訳ない。
「治療を開始したと聞いています。気分は悪くないですか?」
「………あの、どちら、様でしょうか」
眉尻を下げて、問われる。心臓に冷たいものが流されたような感覚がする。
「………冗談、ですか?」
「ツール神父は? こちらにはいませんか?」
不安そうな子供のような顔に、ドアの方からのぞき込んでいるナゲルとロミアを見た。
「一時的な記憶の退行だと思うけど……。二つある子に薬使うの初めてだから」
「………ロミア、さん?」
「あれ……僕はわかるの? おかしいなぁ」
暢気に頭を掻くロミアに不安しかない。
「彼の知識にはお世話になっています。ロミアさんも、良く彼に叱られてましたが、尊敬できる上司だと」
「……うーん。結構しっかり記録のシナプスが残ってるみたいだね。読み込み専門で書き込み不可みたいな感じで収まっているといいんだけど」
「ロミア、詳しい状況を聞いてもいいですか」
自分から出た声が、思いのほか不機嫌だった。
「えーっと、エルトナが話していいならいいけど、人の病状を勝手には話せないよ」
それは最もな意見だ。僕はここまで連れてきただけの、赤の他人でしかない。
エルトナの方を見ると、眉尻を下げたままのエルトナがこちらを上目遣いで見てくる。普段見ない表情だ。
「その……ピンクラルさん……いえ、レッドルさんのお知り合いの方ですか? あ、もしかしてユラ様ですか」
いつもの、男と間違えてしまっても不思議がない話し方ではなく、女の子のような口調でエルトナが問いかける。
ユラ・ジェゼロは古い時代の王の名前だ。
「……ユマです。エルトナの……友達です」
「私の、ですか?」
きょとんとした顔で首を傾げた後、直ぐに申し訳なさそうにされた。
「すみません。覚えていなくて」
ずっと昔の知り合いに忘れられるならまだしも、つい先日まで会っていた相手に忘れられるとなると、辛い。
「ごめんなさい」
「構いません。少なくとも、ちゃんと意識が戻ってよかった」
ツール司教を覚えているなら、全て忘れたわけではないのだろう。
言っても僕とは一年半ほど前に知り合ったばかりだ。
「あの、ロミアさん。こちらで私の状況を説明いただいてもよろしいでしょうか? その……ユマさんも、ともて心配してくださっていたようですから、ご一緒に聞いていただいて構いませんから」
「そう?」
軽い調子で頷くと、ロミアが近くの椅子に座った。
今更、エルトナのすぐ近くにいた事に気づいて、僕も椅子に座り替える。また服が涙と鼻水に濡れてしまっている。
ハンカチを手桶に溜められた水で軽く濡らしてからエルトナに差し出した。きょとんとしているので顔を拭いてあげる。エルトナの顔も涙で濡れている。
拭き終わるとふにゃっとした顔でお礼を言われた。
「いまのエルトナの状況は、遺伝子の一部を非活性化させた状況で、新たに薬を投与しない限り不活性のままになるようになってるはずだよ。記憶の継承は、脳のシナプス形成を再現される遺伝子ができることで、子孫にも最初の記録が残るシステムで、ほかの遺伝子との相性で人格の形成も継承してしまう難点があってね。エルトナはそれを止めるために僕に会いに来て、僕が薬を投与したんだ。覚えてる?」
「……」
エルトナは曖昧に笑った。
「まあ、明確にどれかを選択するっていうよりも、実際の経験でのシナプス形成と遺伝で形成されたものは少し性質が変わるから、遺伝したものを落ち着かせた状態でね。本当はもう少し小さいころに使えば副作用も少ないんだけど、今くらいだと脳自体はほぼ完成してるから、継承された記憶と、元々のエルトナにも深く関わってしまって、一緒に影響が減ってしまってるんだと思うよ。だから、幼いころは明確でも、最近の記憶であるユマとの記憶はちょっと曖昧になってるのかな」
「……その、それは戻るんでしょうか? 生活に支障がでると、ちょっと困りますね」
どこか他人事のように、エルトナが問う。それほど困ったようではない。
「目が覚めてすぐだから、何とも言えないけど……あと何日か、安静にして様子を見るほかないよ。ちょっとした刺激で鮮明になるかもしれない」
「この部屋から出ない方がいいのでしたら、何か暇つぶしが欲しいですね」
特に悲壮感もなく、ちょっと楽しそうにエルトナが言いだす。
「大学内なら大丈夫かとは思うけど、できない事とか色々あるかもしれないから、下手に事情を知らない人には会わない方がいいかもしれないね。暇つぶしは、また希望があれば用意するよ。落ち着いたんなら、軽い食事をしたり、シャワーを浴びてくるといいよ」
「シャワー! いまの時代にそんなものがあるんですか!?」
エルトナが嬉々としている。
以前に僕の知っているエルトナとは変わってしまったのではないかと心配していたが、今はその心配すらしないほどに変わってしまっている。
本人が望んだことならば、僕がとやかく言うべきではない。けれど、どこか寂しい。
「あ……ごめんなさい」
こちらを見て、エルトナが慌てたように謝った。
「心配してくれた人を、忘れてしまっているのに……」
「エルトナの責任じゃありません。隣にいますから、何かあったら呼んでください。ごはんも用意しますね」
「はいっ。ありがとうございます」
エルトナらしくない元気な声にどんよりしてしまう自分がいる。
井戸や川で水を汲んで、湯を沸かして体を拭うのでなく、蛇口を捻るだけで心地いいお湯が出た。旧人類では当たり前の設備だが、本当に実在しているのを見ると感動する。
数日眠っていたらしくて、べた付いていた体をお湯で洗い流しただけで凄いさっぱりした。
鼻歌交じりに髪を乾かしながらふと横を見る。綺麗な鏡までついていた。
「………え?」
映ったのは、知らない人だった。
正確には、自分だとわかる。けど、子供ではない。
十歳を少し超えたくらいのはずなのに、背の高さも顔立ちも違う。
「そっか……」
ユマと名乗った人を知っているはずらしい。知らないと言ったら、とても悲しそうな顔をされた。知らないものは知らない。けれど、本当は、覚えていないといけないのだと、妙に納得した。
少なくとも、ここ数年の記憶が思い出せない。
用意されていた服に着替えて、ベッドに突っ伏した。
ここにはツール神父はいないらしい。
いれば何かと便利……もとい、何かと聞くことができただろう。むしろ、彼が私を手放したのは意外だ。どこに行くにも連れていってくれたのに。
しばらくして、ノックの後ユマが入ってきた。
とても綺麗な人だ。でも、女の人か男の人か、判断できない自分がいた。
「パン粥にしました。胃が空っぽでしょうから」
優しい笑みはどこか母を思い出す。自分はあんまり美人ではないが、母は結構な美人だった。もちろん、ここまで美人ではない。そうだったら、あんな田舎で無事には生きられない。
「ありがとうございます」
暖めた牛乳でパンを煮込んだ料理だ。暖かい湯気が立っている。横にはちみつが入った小さいお皿もあった。
ゆっくりと食事を取る間、ユマが少し心配そうにこちらを見ている。じっと見られると恥ずかしい。お水がなくなったらすぐに注いでくれたりと、随分と甲斐甲斐しく世話を焼かれた。
「………その、治療前は、私とあなた……ユマさんはただの友達だったんでしょうか?」
いつの間にかツール神父が結婚していて、義母だったら嫌だなと思ってしまう。いや、この人が嫌だと言う訳ではない。
「自分でも、何故かわかりませんが、とても大切な……友人でした。エルトナからは、本当はあんまり好かれてなかったかもしれません」
苦笑い気味に、少し寂しそうな答えが返ってきた。
「私には友達がいないので、なんだか不思議な気分です。大切だと言ってくれるのは、ツール神父くらいのものでしたから」
「ワイズ・ハリソンさんも覚えていませんか?」
「………ワイズ……」
確か、女神教会の懺悔室で………。
頭に鈍い痛みが走った後、急な眠気が押し寄せる。
「………すみません。眠たくなってきました」
「ああ、そうですね」
ベッドに横になると、毛布を掛けてそっと頭を撫でられた。
「おやすみなさい」
寂しそうに言われて、首を傾げた。親友か何かだったのだろうかと思いつつ、引き落とされるように眠りについた。




