101 二つ目の記録
窓の外の景色に違和感を覚えたのが最初の症状だったのだろう。
記録が多く出てくるのは死にかけて意識がもうろうとしている時だ。大怪我をしなければ、毒にやられなければ、問題ない。それに、薬もあると。
「……」
景色が二重に見えるようだった。
デジャブと言ってもいいのだろうか。一つ目の記録ではない、二つ目の方だ。
ジェゼロに一番近い駅がこの線路の終着だ。この路線自体がジェゼロ国へ行くためだけに作ったと言ってもいい。国の規模と交易を考えるならば、ナサナ国へ引くべきだ。
駅を降りた時点で、いくつかの馬車と車が待っていた。車を運転していたのはオオガミだった。
そこまではまだしっかりとしていた。
ユマの車に同乗して、検問についた時点でかなり気持ちが悪くなっていた。
二百数十年前と大きく変わらない。木造建築の小さな村のような場所だ。建て替えたのか、建物自体は変わっているが、雰囲気は変わっていない。出発の折には、陛下自ら国境まで見送りに出てくださった場所だ。
役目を果たし、帰路についた時、迎えはなかった。あったのは、国境警備兵の睨むような視線。陛下の為にジェゼロの為に布教した教えの結果、多くの外国の民がジェゼロに押し入ろうとしたという。
侵入し不法滞在をしていた女神教会の信徒たちをまとめ、出奔したのもこの場所だった。兵が全員の身元を確認し、生涯の入国を禁じた。もしも密入国した場合は死刑であると。その名簿には自分の名前も刻まれていた。
喜び、悲しみ、戸惑い。あの方への怒りはなく、ただただ自分の愚かさに後悔した場所。最初は大きな使命のため、二度目の出発は明確に女神教会という宗教を確立するためにここを歩いた。
「エルトナ?」
陛下の声がした。
違う。女性の声ではない。けれど、陛下も怒ると低い声になっていた。
「ナゲル!」
知らない名前を呼ぶ。そう言えば、さっき呼ばれた名前。なぜ呼ばれたと思ったのだろう。あれは、私の名前ではない。
「………」
見上げる形になっていた。いつの間にか、陛下がのぞき込んでいる。そうか、迎えに来てくださったのか。ジェーム国から無事に帰国したのだ。何年もかかってしまったが無事に帰りついた。
「ユマ! これ、飲ませろ」
ひゅーと細い息の音が耳にうるさい。誰かの声がする。
緑に近い青い瞳。自分と同じく歳を取っているはずなのに、若く、変わらず美しい。
唇に、予期せぬ感覚があった。喉を鳴らすように、水と何かが食道を流れ落ちる感覚がある。
私は、恋慕するあまり、不埒な夢を見ているのだろうか。
「エルトナ、わかりますかっ」
少し遠くから、ユマの声がした。
列車を降りて、迎えの車の中で、眠たいのかエルトナは少し虚ろな目をしていた。大丈夫かと問いかけたが平気ですと返されていた。
今日はベンジャミン先生が残ってオオガミが迎えに来てくれた。念のために帝国の兵も幾人かはジェゼロへ入国を許すらしい。色々迷惑をかけたのでその謝罪と礼もあるのだろう。
ベンジャミン先生が迎えに来た去年と違い、今年は国外の人も多いため、書類作成のために一度国境警備の場で車を止めた。僕も下りて体を伸ばしていると、後ろから倒れる音がした。
振り返れば倒れているのはエルトナで、ニコルが頭を打たないように半ば下敷きになっていた。
思い返せば昨日も少し様子がおかしかった。ここまで体調が可笑しいとは思わなかった。
「エルトナっ」
すぐにニコルがエルトナの下から抜け出して、静かに横たえさせた。目が虚ろで、呼吸音が掠れた笛のように鳴っている。
「ナゲル!」
呼ぶまでもなく、ナゲルが動くのが目端に映る。なぜかこちらに駆けよらず、車へ走っていた。何をしていると思ったが、診察道具を取りに行ったのだろう。
エルトナをのぞき込むと、ぼんやりとした目がこちらを見ていた。過呼吸を起こしているだけかもしれないが、理由がわからない。何かの毒の可能性もある。ミトーが担架を取りに走っているが、カシス達の多くは周辺への警戒を強めていた。毒か何かならば、この時機を狙ったのは国境を混乱させるためである可能性もある。
「ユマ! これを飲ませろ」
ナゲルが診察もせずに、運んできた鞄を開けると直ぐに薬を出してきた。
頭を持ち上げて、薬を飲ませようとしたが上手くいかない。
エルトナの手が頬に伸びる。声にならない助けでも求めているようだった。
薬と水を自分の口に入れて、そのまま口移しで無理やりに飲み下させる。ごくりと喉が鳴るのを確認するが、頬を撫でていた指先がするりと下に落ちた。
一度瞬きした目は、見覚えがあった。先生が母に対して向けるものだ。そう思った後、するりと瞼が閉じてしまう。
「エルトナ! わかりますかっ。エルトナ!」
軽く頬を叩くが反応はない。ただ、喉笛は止んで、浅い寝息のようになっていた。
「ナゲル!」
顔を上げると既に聴診器を準備していたナゲルが呼吸の確認や目を無理やり開けて瞳孔の確認やらを始め出した。
「一先ず中へ運ぶぞ」
担架へ移して、建物の中へ運び込み、もう一度ナゲルが診察を始めた。
大丈夫なのかと問いただしたいのを、ぐっと堪えた。確認するまで答えが出ないのはわかっている。
「………まさか、ここまで酷いとはな」
「どういうことだ」
わかったような口調のナゲルを睨む。何か前兆があったのか。
「エルトナの持病だ。しばらく薬は効くだろうから、このままオーパーツ大に運ぶ方がいいな。それか、ヒスラに戻すかだけど」
「……ナゲル」
何か隠すような物言いに凄むとナゲルは肩を竦めた。その仕草から、少なくとも今の状況は命にかかわらないとわかる。
指文字で、ここでは話せないと返された。持病だと言っていた。僕も病とすら言えるものを抱えていて、それをひと様の居る場で大きく語られたくはない。
「大丈夫なんだな」
「ああ。ただし、寝泊まりは大学の仮眠室かどこかにした方がいい。詳しい事は後でエルトナが起きてからにしよう。次にここで目覚めさせない方がいいだろうからな」
そう言うと、外へ出て行った。
「ユマ様、大丈夫ですか?」
リリーがハンカチを差し出して問いかけてくる。なぜだろうと思ったが、胸元に水が垂れて濡れていた。薬を飲ませる時のものだろう。
「ナゲルの見立てでは発作のようなモノのようです。僕が見ているので、入国の書類や確認をお願いします」
一年ぶりに息子が帰還したが、帰還報告にはカシスが来た。
「ご友人が体調を崩され、ナゲルの指示でオーパーツ大学にて介抱をしております。ユマ様がご購入した三人は予定通りに宿舎へ案内しております。ミトーとリリーをそちらに付けておりますので自分がご報告に」
「そうか、一年ぶりに帰ってきたというのに、直ぐに休暇にしてやれなくてすまないな。過酷な勤務を完遂してくれて感謝する」
三人ともまともに休暇も取れていなかっただろう。留学を終えたら昇進と休暇くらいは与えてやらんとならない。
「いえ、幾度もユマ様を危険な目に遭わせてしまい、不徳の致すところです」
ソラが作ったオーパーツで短文は送ることができる。ユマは私にはちっとも送ってこないが定期的にベンジャミンには送っていたので報告は来ていた。
「まあ……我が子ながら、迷惑をかけた」
苦笑いが漏れる。
「帝王が付けてくれた警護にも改めて謝辞を伝えさせてもらおう。無論カシス達にはそれ以上に感謝している。無事に国まで連れ帰ってくれてありがとう」
改めて礼を言う。それに膝をついたままカシスが頭を垂れた。
「まだ直ぐに休暇とはいかないが、家族に顔を見せる時間くらいはあるだろう」
そう言ってしばらくの暇を与える。まあ実際はまだ完全な休暇ではないが。
カシスが出て行ってから応接室にいるベンジャミンを見上げた。いつものように後ろに控えていたのだ。
人目がなくなってベンジャミンが表情を少し崩していた。
「ユマには、いつの間にか家族よりも大事なのができたらしいな」
「……確認に行ってもよろしいですか?」
ベンジャミンへの挨拶よりも、友達を取ったのだ。どんな相手か知っておきたいのだろう。
「そろそろユマ離れの時期だぞ?」
「正式に成人と認める前ですから」
ベンジャミンがそんな言い訳をした。
ジェゼロの成人はきっちり年齢制ではない。学校も、進度で学年が変わる。早ければ十六、遅ければ二十二。大体十八から二十歳で成人する。
孤児院なんかは十六で成人して働きだすものが多い。ベンジャミンもそうだった。ユマは十六の終わりで留学に出た。いつの間にやらもう十八か。王の子、特に男は成人前と後で扱いが大きく変わる。なのでぎりぎりの年齢まで成人させないことも多い。
叔父であるオオガミは政治のごたごたが起きないように森に引きこもったが、さて、ユマはどうするか、どうしたものか。
長女のソラは王位放棄が神より許可されている。まあ、ソラの娘には王位が発生するので孫娘が育つまで私が王をする手もある。今のところは次女のララが王位を継ぐ気満々なので、そちらに任せるつもりだが、いかんせんうちの家系だ。どう転がるかはわからない。
私は一人っ子で選択の余地なく王に成ると決まっていたし覚悟もしていたが、選択の余地があるというのも色々考えなくてはならないので、一概に選択の自由がいいとも言えないのだ。
「留学が終わるまでには、身の振りが決まるといいな」
今のオオガミのように手伝いくらいまでならば許可されるだろうが、王の兄弟が政治に深く関与するのはあまり多くない。
「ジェゼロ内であれば、いくらでも仕事はあります」
「本当に心配性だな」
連絡が来るたび報告をしてくれるが、聞かずとも話がある日は直ぐにわかる。嬉しそうな日はいいが、川に落ちて死にかけたという報告があった日は酷い顔をしていた。
あの後、ソラに頼んでオーパーツを作ってもらった。居場所がわかる装置で、ケータイの場所が表示できる。悪用されたら厄介なので、色々と対処もしていたが詳しくは知らない。ソラに色々と質問したら、説明が面倒くさいし、私に理解されると悪用しそうだから教えてくれなかったのだ。その後、ユマが脱走した時はそれを使って見つけられたようだ。
ユマは赤子の時から誘拐未遂に遭ったり、誘拐をされる星の許に生まれたと言ってもいいかもしれないが、心配する側が慣れるということはない。
「気になるだろうが、明日まで待ってやれ。オーパーツ大学なら専用の警備もいる。ようやくナゲル以外にも友達ができたというのに保護者が出しゃばってはカッコも付かないだろう。病気ならお前よりハザキに向かわせた方がいい」
女装前は、ナゲル程親しいとはいかなくとも友達はいた。だがあの恰好をするようになってからは距離をとられてしまったのだ。留学先でここに連れてこられるほど信用できる友人ができたのなら、久しぶりの親への挨拶よりも優先したって叱りはしない。
「……ですが」
「まあ、絶対に行くなとは言わないが………」
心配していたのはよく知っている。まあ、ユマが少し恥ずかしい思いをするかもしれないだけだ。むしろベンジャミン大好きなユマなら喜ぶかもしれない。
「………ハザキに診察の依頼をしてきます」
ベンジャミンが苦笑いを漏らして部屋を出ていく。
私もユマの友達には興味があるが、生憎夏の島休暇のために今は仕事が積み上がっているので執務室へ戻った。私だけ逃走したら、ベンジャミンがしょんぼりする。
ベンジャミンも今の間に終えないとならない仕事が山積みのはずだ。もし会いに行ったとしても顔を見て戻ってくるだろう。




