1.わけあり令嬢の事情(3)
「なんだ、この安物の茶は? 当主の後見人が来たのだぞ? 珍しい蒸留酒のひとつを若い娘に用意させるくらい、気を回すことはできないのか?」
リチャードは口答えすることもできず、平身低頭して詫びていた。相変わらずの様子に、アイリスは内心でため息を吐く。
「叔父様」
アイリスはシレックに声を掛ける。〝いらっしゃいませ〟という歓迎の言葉は決して口にしない。
「我が家は今、両親の残してくれた僅かな遺産を切り崩して暮らしております。高級茶を常時用意しておけるほどの余裕がないことはご理解下さいませ」
「おお、アイリス。少し見ない間に一段と美しくなったな」
シレックはアイリスの言葉を完全に無視するかのように両手を広げて大袈裟に喜ぶ仕草をした。アイリスは儀礼的な挨拶を返すと、ローテーブルを挟んで叔父の正面に座る。
シレックはアイリスのその様子に、鼻白んだような表情を見せる。
「叔父様。確認したいことがございます」
「なんだい?」
「先月なのですが、高級紳士服にドレス、貴金属などたくさんの支出がありました。ディーンはあの調子なのでもちろんのこと、私も作っておりません」
ああそれか、とシレックは頷く。
「私はコスタ子爵家の当主の後見人をしているからね。その私がみすぼらしい格好をしてみろ。周囲からコスタ子爵家が没落しているとあらぬ誤解を招きかねない。そんなことはさせられないからね、これは必要経費だ」
「それにしても、多すぎるのでは──」
コスタ子爵家ではぎりぎりまで支出を抑えている。アイリスの社交界デビューのドレスですら、母の遺品から一番綺麗だったものを繕って着たのだ。
「アイリス」
シレックの声が一段低いものへと変わる。
「お前はまだ社交界にデビューしたばかりのひよっこだ。だから、何もわかっていないのだよ。叔父さんに任せておけば間違いはない」
「でも……」
社交界デビューは十六歳で行う。アイリスも先日の舞踏会で社交界デビューしており、大人と認められてもいいはずだ。
シレックはあからさまに不機嫌そうに両手を振った。
「そんなつまらない話はお終いだ。お前はそんなんことだからヘンセル男爵家の子息にもそっぽを向かれたのだ。なんでも、舞踏会の会場で暴力を振るったらしいな?」
「それは……」
アイリスは言葉を詰まらせる。
ヘンセル男爵家の子息とは、元婚約者のスティーブンのことだ。
あの舞踏会翌日、ヘンセル男爵家からは正式に婚約破棄の通達が来た。
ヘンセル男爵は内出血で真っ青に腫れ上がった息子の顔を見てたいそう立腹し、今回の婚約破棄はスティーブンの不貞とアイリスの暴行が相殺されて慰謝料なしということになっている。
「それよりも、舞踏会の会場でこんな暴行騒ぎを起こしては、もう嫁のもらい手もないだろう。だから、叔父さんからとっておきの縁談を持ってきた」
そう言うと、シレックは懐から真っ白の封筒を取り出した。
「縁談?」
この叔父が何か心配をしてくれたことなんて、ただの一度だってなかった。この人がするのは、搾取だけだ。そう知っているだけに、アイリスは嫌な予感がした。
「ああ。アイリスもいつまでも家にいるわけにはいかないだろう? 可愛い娘がよい家に嫁げば、兄上も天国で喜ぶだろう」
封を切り、中を確認すると折りたたまれた上質紙が入っていた。それを開き文面を確認し、アイリスは目を見開いた。
「ジェーント商会の会長?」
「ああ、そうだ。少し歳は離れているが、立派な商会の会長だぞ。こんなにいい話はない」
何が〝少し〟だ。
ジェーント商会の会長は、アイリスの記憶では齢六十近いはずだ。 祖父と孫ほども離れているではないか。それに、ジェーント商会といえば周囲の小売店を恐喝まがいの方法で次々に廃業に追い込んでいると悪い噂の絶えない商会でもあり、その会長については言わずもがなだ。
「もちろん受けるだろう?」
アイリスは返事せずに、上質紙を元のように折りたたんで封筒にしまった。
「……急すぎて、お答えできかねます。ディーンにも相談しないと。あの子だって社交界デビューできていないだけでもう十七歳になったのだから、一人前ですわ」
「一人前? これは驚いた。あの体でどうやって子爵家当主としての役目を果たすんだ。ベッドの中だけは社交も仕事もできないぞ。ましてや騎士になど、なれるはずもない」
シレックは少し小馬鹿にしたように、鼻で笑う。
「きっと、すぐに元気になりますわ! それに私、先日皇都を訪れた際に仕事を見つけたのです」
「仕事だと?」
シレックは訝しげに眉を寄せる。
「はい。家庭教師ですわ。貴族のお屋敷ではございませんが、よい給金で募集しているのを見かけまして、応募したら採用されたのです。だから、結婚はしばらく無理ですわ」
「なぜ私に断りなく、そんな勝手なことをした?」
その声から強い怒りを感じて、アイリスは震えそうになる。
けれど、ここで引き下がるわけにはいかないと思った。自分がしっかりしないと、コスタ子爵家の未来はないと思ったのだ。
「私ももう大人です。自分のことは自分で致しますわ」
「自分のことは自分で? どの口が言うのか。ディーンの看病の手配も、私がしているというのに! アイリスはまずは素直に感謝の気持ちをきちんと伝えられる子にならねばならないね。ご両親も天国で泣いているだろう」
「それは……」
アイリスは唇を噛みしめ、ぎゅっと手を握り込む。
「せっかくよくしてやっているのに、興をそがれた。私はディーンの顔をみて失礼する。ああそうだ、薬はしっかりと飲ませるように。なにせ、大事なコスタ子爵家の当主、兄さんの忘れ形見だからね」
目の前に座るシレックは不機嫌そうに吐き捨てると、部屋を出て行った。
バシン、と激しい調子で扉が閉められ、大きな音が響く。
部屋に静謐が訪れ、壁際に置かれた置き時計の規則正しい音が大きく聞こえた。
「お父様、お母様。私は、どうすればいいの……?」
アイリスは一人残された応接間で、途方に暮れて顔を覆った。