1.わけあり令嬢の事情
ここハイランダ帝国では年に一度、皇后陛下主催の大規模な舞踏会が開催される。
舞踏会の習慣が殆どないこの国で、国内貴族への慰労と懇親の意味を込めて開かれるこの行事は特別なものだ。
会場は華やかな衣装を纏った人々の笑顔に溢れ、毎年のように恋が生まれ、そこかしこで愛の言葉が聞こえてくる。
そんな中、今年初めてこの舞踏会に参加したコスタ子爵家令嬢、アイリス=コスタは呆然と立ち尽くしていた。
「……え?」
「すまない。けど、俺にはアイリスを支えてゆける自信がない。婚約を解消してほしい」
久しぶりに顔を見た婚約者──スティーブンは、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「どうして?」
「どうしてって……。アイリスは俺のこと、好きじゃないだろう? いつも弟にかかりっきりだし」
スティーブンがふてくされるように口を尖らせて返してきた言葉に、絶句してしまった。
政略結婚に恋愛感情が絡むことなど、滅多にない。それでも皆が、決められた将来の伴侶と寄り添おうと努力しながらやってゆくのだ。
「ディーンのことは、あなただってわかっているでしょ?」
「俺はもっと構ってほしかったんだよ! そんなときに見つけたんだ。エリーナはアイリスとは違って凄く俺に甘えてくれて──」
そこでようやく、スティーブンの背後にいる少女に目が行った。黒い髪に焦げ茶色の瞳、小動物系を思わせるようなおどおどとした様子のその少女は、同性のアイリスから見ても庇護欲をそそる。
怯えるようにこちらを見つめる少女を、スティーブンはアイリスから守るように庇う。
少女は自らの腹部を庇うように、両手を当てていた。
その瞬間、アイリスは全てを理解した。
「何が『支える自信がない』よ! 不貞を働いただけじゃない! しかも正式な結婚前に子供を作るなんて!」
こんな男、こっちから願い下げだ。
勢いに任せて繰り出した右手は、見事に目的の位置に命中した。
ガシーンと大きな音が闇夜に響く。
「きゃあ! スティーブン様、大丈夫ですか?」
平手どころか拳で殴られ数メートル後ろにはじけ飛んだスティーブンを助けおこそうと、少女が駆け寄る。その二人の前に、アイリスは仁王立ちした。
「二度と私の目の前に現れないで。二人ともよ!」
くるりと踵を返すと、「なんて女だ」だとか「とんでもない乱暴者ですわ」という罵声が聞こえてきた。アイリスはそれを無視して会場へと戻ろうと歩き出す。
そのとき、入り口近くに一人の男が立っているのに気が付いた。
女としては長身のアイリスでも首を反らせて見上げる程に背が高く、茶色の瞳は猛禽類を思わせる鋭さがある。短い髪を後ろにさらりと掻き上げ、腕を組み無言でこちらを見つめていた。
アイリスはその男をキッと睨み付けた。
「のぞき見なんて趣味が悪いのね」
「後から来たのはお前のほうだろう?」
低く、落ち着いた口調だ。
後から来たのは自分のほう?
確かにスティーブンとの会話中にテラスと会場を隔てる扉が開いた気配はなかったので、この男は最初からここにいたことになる。
──全然気が付かなかったわ。この人、全く隙がないと言うか、気配を感じない……。
しかし、今はそんなことはどうでもいい。
アイリスはその男を真っ直ぐに見上げた。
「言いふらすの?」
「何をだ?」
「今見たことよ。私がとんでもない乱暴者だって」
背後では未だにスティーブンと女が罵詈雑言を捲し立てている。男はそれを完全に無視し、無言でこちらを見つめたまま首を傾げる。
「言わないな。言う必要もないし、そもそもお前が誰か知らん」
そしてフッと笑みを漏らす。
「なかなかよい拳だったな」
アイリスはその男を見上げたまま、片眉を上げる。
「呆れてないの?」
「驚きはしたな。いくらあいつがひょろひょろしているとはいえ、男を吹き飛ばす程の力で殴る女を見たのは、生まれて初めてだ」
大真面目な顔で頷いて答える男を見ていたら、なんだかおかしくなってきた。
「今のことを秘密にしてくれたら、あなたがここでこっそりと休憩していることも黙っていてあげるわ」
「ほう?」
上質な黒い衣装から判断するに、この男はかなりの高位貴族だ。顔つきは鋭さがあるものの整っており、服の上からでも引き締まった恵まれた体躯をしていることが予想できる。
きっと、次々に寄ってくる周囲の貴族から逃げるためにここにいるのだろうとアイリスは判断した。
一方の男は、面白いものでも見つけたかのようにアイリスを見返す。
「お前は会場に戻るのか?」
「もう、帰るわ。こんな場所、いても楽しくないもの」
「それには同感だ。俺も帰るとしよう」
アイリスは目をぱちくりとさせて、遂には耐えきれずにくすくすと笑い出す。
「おかしな人」
「お前ほどではないな」
「ふっ、ふふふ……」
ずっと憧れていた舞踏会での手痛い仕打ちに沈んだ気持ちが、なんだか軽くなったような気がした。
◇ ◇ ◇
──ハイランダ帝国歴二二二年、冬。ハイランダ帝国コスタ領にて。
ハイランダ帝国の片田舎に領地を構えるコスタ子爵家で、アイリスは鏡台の上に置かれた、髪飾りを静かに見つめた。
精緻な金細工の中央には、緑色の翡翠が輝いている。
『これはね、お父様からいただいたの。いつかアイリスも大きくなったら、あなただけの素敵な騎士様が現れるわ。そして、素敵な髪飾りを贈られるわ。だって、こんなに綺麗な髪なのだから』
優しかったお母様はアイリスの髪を結いながら、よくそう言って笑っていた。宮殿では、年に一度だけ、皇后様が主催する、国中の貴族が集まる舞踏会があるのだと。
お母様が婚約者であるお父様と初めて二人でその舞踏会に参加したとき、お父様はこれをお母様に贈った。
あの堅物でいつも眉間に皺を寄せているお父様が髪飾りを贈るなんて、一体どんな顔をして選んだのだろう?
それを想像するだけで、自然と笑みが零れた。
──いつか自分も素敵なドレスに身を包んで、着飾って、隣には大好きな人がいて……。
そんな未来を当たり前のように思い描いていたあの頃は、今思えば人生で一番幸せだったのかもしれない。
「実際にもらったのは、プレゼントどころか婚約破棄の言葉だったわ」
自嘲気味な笑いを漏らし髪飾りから目を逸らすと、先ほど渡されたばかりの白い封筒が目に入った。
それを見た瞬間、現実に引き戻されたアイリスは目を閉じて天を仰ぐ。
腰まで伸びた髪に手を触れると、それはさらさらと指の間からすり抜けた。この国の人間にしては薄い色合い、琥珀色の髪は、日の光を浴びると金色にも見える。
皆から美しいと褒められる、アイリスの自慢のひとつだった。
「大丈夫、私にはできるわ。大丈夫よ」
毎日の家事で荒れてしまった手にナイフを握ると、意を決して強く引く。ざくっと音がしてはらはらとそれが床に落ちた。焦げ茶色の木の床に、波のような模様ができる。
そのとき、背後でガシャーンと大きな音がした。
振り向くと、侍女のレイラが茶色い瞳を大きく見開いたまま立ち尽くしている。
「お嬢様! 何をなされているのですか!」
レイラは半ば悲鳴にも近い声を上げた。真っ青になってアイリスの元に駆け寄ると、「なんてことなの……」と呟き、両手で口を覆った。
「お美しい髪がこんなに……」
へなへなと座り込んで呆然とするレイラの前に、アイリスは膝をついた。
「ディーンがああなってしまっている以上、これしか方法がないの。スティーブン様との婚約も破棄された今、誰も助けてくれないわ。レイラもわかっているでしょう?」
「でも、それではアイリス様のお幸せは……」
アイリスは目に涙を浮かべるレイラの口元に人差し指を添える。
「このままでいても幸せなど来ないわ。私の幸せは、無事にあの子を立派なコスタ家の当主にすること。お願い、応援して? そうでないと私、一人では立てなくなりそうなの。今だって怖くて足が震えそうだわ」
レイラは大きく目を見開いてとアイリスを見つめる。そして、こぼれ落ちそうになっていた涙をぐいっと拭った。
「わかりました」
力強く頷くレイラを見つめ、アイリスは微笑む。
「ありがとう。いいわね? 元気でおてんばなアイリス=コスタはいなくなったわ」
アイリスは目を閉じ、覚悟を決めるように深く息を吸う。もう、後戻りはできない。
「これから先、私は外では別人として生きる。あの子が元気になるまでよ。私は──」
「あなたは──」
レイラの声が震える。
「コスタ子爵家当主、ディーン=コスタ」
その日、コスタ子爵家の令嬢、アイリスは女としての人生を捨てた。
皮肉にもそれは、本来であれば社交界デビューを終えたアイリスの嫁入り準備に大賑わいとなるはずの十七歳の誕生日だった。
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