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いつもの夏の日に

作者: Tまこと

挿絵(By みてみん)

人物紹介

右:田島悠……主人公。ファッションセンスに難ありという設定

左:藤咲晴……主人公の幼馴染。茶髪なのは水泳のせい




 ――料金は4980円です。

 途中で休憩を挟みつつ父さんが運転する車に揺られること数時間。幾度となく見てきた高速道路の風景が終わり、街が現れる。もちろんこの街も幾度となく見てきた風景だ。生まれ育ったのは東京の二十三区内だが、私にとってこの街は、普段あまり行かない都心部よりもよっぽど勝手が分かり、馴染みのある場所だった。

 高速道路を出てから街の中を走り大きな川を渡る。辺りに田んぼや畑が広がる道を走りつつ何回か坂を登ると、目的地の家が見えてきた。そこは私の母さんが昔暮らしていた場所。母さんの父さんと母さんが暮らしている場所。つまりは、私のおじいちゃんおばあちゃんの家が見えてきたのだ。

 これから約一週間、中学一年生となった田島悠の、いつもの夏の日が始まる。


×××


「ばあちゃん、何か手伝うことある?」

 お兄ちゃんがおばあちゃんに聞く。

「それじゃあ、畑の野菜を収穫してきてもらおうかね」

 おばあちゃんから今年の夏、初めてのミッションが下された。

 働かざる者食うべからず。というほどでもないが、やはり何もしないで泊めさせてもらって、食事も作ってくれてというのはバツが悪い。だから何か手伝えることがあれば手伝う。いつからそんなふうに思っていたかは覚えてないけど、ここに来て色々 な事をしていくうちに、私たちにとってそれはいつもの習慣になっていた。

 私たちは帽子をかぶり、腰かごと剪定鋏を受け取って畑に向かった。


×××


「キュウリ、ナス、ピーマンは取ったからあとはトマトだな」

「そうだね」

 オーダーはキュウリ、ナス、ピーマン、トマトの収穫だった。

 すでにキュウリ、ナス、ピーマンの収穫は終わったので残りはトマトだけだ。

 私はここのトマトが好きだ。もちろんトマト以外も好きだし、何なら嫌いな食べ物は特に無いのだけれど……。ともかく、ここのトマトはとても美味しい。みずみずしさと歯ごたえのバランスが良く、酸味と甘さが両立しているのだ。そう、つまりしっかりとトマトの味がするのだ。だから好きなのだ。

 そんなことを思いながらのトマトの収穫は無事に完了した。収穫した野菜をお婆ちゃんに届けてから、腰かごを倉の軒下に戻して玄関から家に入ろうとした時、ふと、あるものを見つけた。

「……セミの抜け殻……」

「お、こんな所あったのか」

 お兄ちゃんが私の言葉に反応する。

「セミの抜け殻見つけるとなんか『夏』って感じがするよな~」

 どうやら、心の中の呟きが実際の言葉として外に漏れていた様だ。

「あ、そういえば……前にセミの抜け殻取り大会やったよな!」

 私とお兄ちゃんと、そしてここのすぐ近く――と言うか隣の家に住んでいる私の同級生の晴ちゃんは、昔から私たちがここに来るたびに一緒に遊んでいた。セミの抜け殻取り大会だけじゃなく、一緒に花火をしたり、裏山を探検したり、川で遊んだり、私たちの家族と晴ちゃんの家族の全員で街のプールに行ったりもした。私たち全員にとってそれは、楽しく色鮮やかな思い出だ。

「また今年もやるか?」

「大学生になってまだそんなことやりたいの?」

 笑い半分にそんなことを言うお兄ちゃんに対して私はとても真っ当な意見をぶつける。

「大学生になってもそんなに変わらないぜ」

「それはお兄ちゃんだけでしょ」

 変わらないものは決して存在しない。

「私はもう中学生だよ。流石にそんな小学生みたいな遊びはちょっとね」

「悠が小学生だった時、俺は中学生や高校生だったが楽しんでたぜ」

 自分が変わらなくても周りは変わってしまう。私の周りはそうだった。

「今、ここにいるのは中学生と大学生だよ! あと……」

 別にセミの抜け殻取りとか、そういった遊びが嫌いになったわけじゃない。大学生になってまで。とか、中学生になったから。とか、そういったことは結局建前でしかない。

「楽しかったのは小学生だったからじゃなくて……みんなで遊んだから、三人で一緒に遊んだから楽しかったんだと私は思うけどな」

 これが私の本音だ。別にお兄ちゃんが嫌いと言う訳ではない。家で一緒にゲームをしたりするくらいには、関係は良好だ。お兄ちゃんと二人で遊ぶのは嫌いじゃないしむしろ好きな方だ。でも、この場所でお兄ちゃんと二人だけで遊ぶのは、どうしても物足りない様に思えた。

 それに例え晴ちゃんがいても、そんなふうに遊んでくれる保証はない。晴ちゃんはもう中学生なのだ。そんな子供っぽい遊びには、付き合ってくれない可能性も十分にある。それに、小学生の頃と違って中学生になったら勉強だって難しくなるし、部活も始まるし、特に運動系の部活なら大会や合宿もあって大変だろうし……。

「……確かにそれは一理あるな。兄妹二人でセミの抜け殻を探してても一時間くらいで飽きるような気がするからなぁ……それにまだ初日の午前中だし」

 一時間くらいは保つのか。と心の中でツッコミを入れつつ、私は、玄関とは反対方向に舵を切ることにした。

「ちょっと散歩してくる。母さんに言っといて」

 私はお兄ちゃんにそう伝えたあと、帽子をかぶり直してから強い日差しの中を歩き始めた。


×××


 帽子からはみ出た癖っ毛が揺れる。照りつける日差しは厳しいが、風があり周りには草木が多く水田もあるため、同じような気温でも東京より過ごしやすい。

「――さて……これからどう過ごすか……」

 私は、これから過ごし方について考えていた。家にはゲームやパソコンはない。スマホを持っているがデータ使用量には制限がある。そして街に行くには車が必須だ。時間をかければ車じゃなくても行けるが、その移動手段は徒歩だ。

 徒歩で移動に時間をかけて毎日街の古本屋チェーン店に行くのは、貴重な夏休みの無駄使いに思えるし、家で宿題をするだけなのも味気ない。お兄ちゃんが読み終わった本を借りて読むか、プールに連れて行ってもらうしかないか……。と半ば諦めかけて家に戻ろうとしたその時、不意に後ろから声をかけられた。

「おーい、悠ちゃーん!」

「!?」

 私はその声の主を知っていた。この場所で私の名前を呼ぶことが出来る女の子は一人しかいなかった。

 私は振り向いて声の主を確認した。

「久しぶり! 悠ちゃん!」

 制服姿でリュックを背負い、真紅のクロスバイクに跨っているその少女。サラサラとしたミディアムヘアの栗毛を、後ろで縛りポニーテールにした女の子。日焼けなんて気にせずスラリとした腕や脚を惜しげもなくさらし、キリッとしつつも優しさと明るさが感じられる笑みを浮かべるその人物こそ、私のおじいちゃんおばあちゃんの家のすぐ隣にある家に住んでいる私の同級生で、遠方の幼なじみで、親友の藤咲晴であった。

「晴ちゃん!?」

「どうしたの悠ちゃん。そんなに驚いて……まさか惚れちゃった?」

「お、驚いてないし! そんな簡単に惚れないよ! それより晴ちゃん制服だし自転車乗ってるし学校帰り?」

 今年は会えないかもしれないと思っていた矢先に、突然後ろから声をかけられたのでかなり動揺していた。

 私は胸に手を当てて、心を落ち着けようとしながら晴ちゃんに質問を返した。

「そうそう、部活の帰りでね。そうだ悠ちゃん、ボク何の部活に入っていると思う?」

 前に会った時と変わったところはいくつもあった。それでも目の前にいる明るく元気な少女、藤咲晴は、自分のことを「ボク」と呼ぶところまで変わらず、いつもの晴ちゃんだった。

「あーいたいた、おーい昼飯だぞ〜昼飯〜」

 そんなやりとりをしていたら、お兄ちゃんが現れた。

「って……おう! 晴ちゃんじゃないか、久しぶり」

「お兄さんも久しぶり!」

 お兄ちゃんも晴ちゃんと半年振りの挨拶を交わす。

「そういえば、お兄ちゃんさっき昼飯〜って言ってた?」

「ん? ああそうだよ。これからお昼でな。呼び戻そうとしたところだったんだよ」

 左手の腕時計を確認してみたところ既に正午過ぎであった。

「だったら、立ち話はこれくらいにしてまた午後に会おうよ。ボクも部活終わりでお腹空いてるし」

「ん、そうだな。じゃあまたな」

 私たちは、半ば流される様に約束をしてから、一旦その場を解散することにした。


×××


「川遊びに行こうよ!」

 午後一時を少し過ぎた頃、家に訪ねてきた晴ちゃんが、おじいちゃんおばあちゃん、父さん母さんへ挨拶をした後、開口一番に放った言葉がそれだった。

「川遊び!?」

 脈絡がなく唐突な提案だったため、私はおもわず聞き返してしまった。

「そうそう川遊び! やっぱり家でお話ししてるだけじゃもったいないし、悠ちゃんやお兄さんと一緒に遊びたいなーって」

 相変わらずの行動力に若干の押されつつ、私は質問を返す。

「私が水着持ってきてないとか、日焼けしたくないとか言う可能性は考えなかったの?」

「水着はそのバッグに入ってるし、日焼けしたくないなら日中散歩なんてしないでしょ」

 正にその通りである。

「お兄さんも一緒に来るよね! お兄さんがいれば、コドモだけじゃなくなるから危なくないし」

「え、ああ、そうだな……?」

 いつも通りお兄ちゃんは晴ちゃんの押しに弱いみたいだ。

 そういえば三人で何かする時はいつも晴ちゃんが先頭に立っていたな。と、そんなことを想いつつ私は、昔から使っているプールバッグを手にして立ち上がった。

 この時もし目の前に鏡があったとしたら、少し頬を緩ませた癖っ毛の誰かさんが写っていたかもしれない。


×××


 夏の日差しが容赦なく照りつけるなか、私たちは半年分の積る話をしながら目的地に向かって歩いていた。

「――そういえばあのカッコいい自転車はどうしたの?」

「あの自転車はお父さんが入学祝いに買ってくれたんだよ。中学には自転車通学するから走りやすいのが良いって言われて、クロスバイクにしたの」

「クロスバイクか……羨ましいぜ。スポーツ系の自転車に乗ってくる人って結構いるのか?」

 私が質問して晴ちゃんが答えて、今度はお兄ちゃんが疑問を投げかける。

「うーん、結構バラバラだけどママチャリの人が多めかな。カゴがあると荷物入れられて便利だから。でも私はクロスバイクで正解だったと思うな。荷物は背負えばいいだけだし、そんな事より、道がデコボコだったり砂利が落ちてたりするし、何より帰りの登り坂は結構大変だからね」

「なるほど。確かに目的に沿ったモノを選ぶのは重要だな」

 お兄ちゃんは、うんうんと頷く。

「でも周りの人たち、特に女子でスポーツ系の自転車に乗ってる人って少ないんじゃない? 周りと違うのって気になったりしない?」

「えー、あの自転車ボクに似合ってないかな?」

 晴ちゃんは、わざとっぽく口を尖らせる。

「そんな事ないよ。カッコいいし似合ってると思う。でも、その……そういうこと気にならないのかなって……」

 私の問いに対して、晴ちゃんはいつもの調子で答える。

「誰だってそれぞれ違うんだし、そんなに気にしても仕方ないじゃないかな。それより、自分がしたいと思ったこと、正しいと思ったことをした方がいいと私は思うな」

「そっか……うん、そうだよね」

 平然とそう答える晴ちゃんの笑顔は、今の私にとって、とても眩しく感じられた。

 私たち三人の目的地は川遊びが出来る川だ。浅過ぎず深過ぎず流れが緩やかで水がきれいな所。そんな条件を奇跡的に満たす場所を私たちは知っていた。

 住宅に面した場所から、少し奥まった林の中を進んでいくと、その景色は見えてくる。生い茂る樹々と切り立つ岩の壁、雄大で神秘的な洞窟。そして、その洞窟を通り抜ける幅が広く水が透明で、豊かな水量を誇る穏やかな流れの川。その場所こそ、私たちの目的地であった。


×××


「じゃあ私たちそっちで着替えてくるから」

「ほいほい」

 私と晴ちゃんは着替える為に岩陰に向かった。

 晴ちゃんは岩陰で躊躇いなく服を脱ぐ。まるで恥じらいを感じる方が普通でないと言わんばかりに下着も脱ぐ。

 すっぽんぽん。その言葉を完璧に体現するかの様な姿には、一種の敬服すら覚えるような――。

「よーし準備完了!」

「ちょっと待たぁ!?」

 私は走り出そうとした晴ちゃんの腕を掴む。

「肝心なモノ忘れてない?」

 晴ちゃんは私の手をひらりと解き、ポンと手を打つ。

「ゴーグル忘れてた」

「そっちじゃないよ! 水着忘れてるよ!」

 晴ちゃんは前述の通り全裸だった。

「いやいや、悠ちゃん。川遊びというのは伝統的に裸で行うものだと古事記にも書かれているんだよ」

「書かれてないでしょ! 周りに見られたらどうするの!?」

「周りに人いないじゃん」

「私もお兄ちゃんもいるよ! 見られたら恥ずかしいでしょ!」

「見られても恥ずかしくない様に鍛えてるよ!」

 晴ちゃんは胸を張り腰に手を当て、自慢気に仁王立ちの姿勢を見せる。

 手はすらっと伸びているが決して細過ぎるなどということはなく、むしろ肩や腕の辺りには運動やトレーニング、ストレッチによって、柔軟性のある筋肉が付いている様だった。脚も手と同じ様にすらっと伸びていて、太腿や脹脛は、力強さとしなやかさを兼ね備えた優美な曲線を描いている。

 そして何より目を惹くのは日焼けした部分とそうでない部分のコントラスト。小麦色に日焼けした手脚とは対照的に、日焼けしていない部分の白さが、より強調されて眩しいほどである。慎ましやかで綺麗な胸のライン、柔らかさと力強さの両方が現れている腹部、小さくて可愛いい臍、キュッと締まったくびれ。その姿はまるでギリシャ彫刻……って、なに言わせてんの!? まるで私が変態みたいじゃん!

「いや鍛えてるとかそう言う問題じゃないから! 常識的におかしいから!」

「コペルニクスやダーウィンは常識を疑ったからこそ大発見を成し遂げたんだよ!」

「こんなところで常識を疑わなくていいから!」

「いやー悠ちゃんのツッコミは鋭いからボケ甲斐があるね」

 そう言うと晴ちゃんは何事もなかったかの様に競泳用水着を手に取る。

「晴ちゃん……学校でもこんな感じなの?」

 冗談だと分かっていてもツッコミが大変だよ。

「ここでふざけられるのは、悠ちゃんといる時だけだよ! 悠ちゃん大好き!」

 晴ちゃんは、眩しいほどの笑顔を私に向ける。

 不意打ち過ぎてなんだか少しドキッとしてしまう。ちょっと悔しい。

「着替えるのおそいぞ〜早く着替えないと先に行っちゃうぞ〜♪」

「晴ちゃんが早すぎるんだよ!」

 晴ちゃんは相変わらず天真爛漫と言うより、むしろ自由奔放な振る舞いをする。私にとってそれは、不快なものではなく、心地の良いものだったが、同時に羨ましくもあった。

「晴ちゃんは悩みなんてなさそうでいいな……」


×××


 晴ちゃんが大きな岩の上から飛び込む。

ザプン、と静かな音を立てて水の中に入り、そのまま水中でのドルフィンキックで、みるみるうちに十五メートルほど進んでしまう。

「さすが水泳部だな。飛び込みで水しぶきが全然立たない」

 私の横で、本を片手に晴ちゃんが飛び込む姿を見ていたお兄ちゃんは、晴ちゃんのことを褒める。

 晴ちゃんは体を動かすことが好きなのだが、その中でも水泳が一番得意だ。小学校に入る前から川遊びやプールに行くのが好きで、スイミングスクールにも通っていた。中学では水泳部に入り、今年の新人戦では、いくつもの競技で一位になりチームの優勝に大きく貢献したそうだ。ちなみに今日も午前は学校のプールで泳いでいたみたいだ。

「おーい、悠ちゃんも早くー!」

 晴ちゃんが水面から顔を出して私を呼ぶ。

「今行くよ」

 私は、少し迷った後、晴ちゃんが飛び込み台に使った岩の上に登った。

「思ってたよりだいぶ高いな……」

 私は小学校の頃から水泳を習っている。自慢じゃないが四泳法もメドレーも出来る。みんなが小学生までで辞めてしまうなか、決心がつかず辞め時を逃してしまった為、なんだかんだ今でも週に一回、スイミングスクールに通っている。決して得意ではないがもちろん飛び込みも出来る。とはいえ普段の数倍の高さから頭を下にして飛び込むことはない。

「何なんだろうな……この気持ち……」

 心の中で何かがモヤモヤする。ここに来る時、会話をしていて最後に感じたあの感覚。それと同じモノが胸の内で渦巻く。

 別に晴ちゃんがここから飛び込んだからといって、私もここから飛び込む必要はない。晴ちゃんは水泳が得意で、私はそれほどでもない。自分の能力に対する絶対的な自信なんて持ってない。さすがにこの高さは恐怖を感じる。

 例え私がここから飛び込まなかったとしても、それは咎められる様なことではない。ここから飛び込むことは『普通』じゃない。

 だけど、これは私の勝手な思い込みかもしれないけど、ここから飛び込まなかったら晴ちゃんに置いて行かれてしまう様な気がした。

 私は晴ちゃんみたいに凄くはない。自由にはなれない。

「悠ちゃーん!」

 けど、それが理由で、晴ちゃんの隣に立てなくなるのは嫌だ。私が晴ちゃんの足枷になってしまうのは嫌だ。いつもの晴ちゃんが見られなくなるのは嫌だ。晴ちゃんの隣から私の場所が無くなるのは嫌だ。

だから……私はここから飛び込む――――。


×××


 水が冷たくて気持ちいい。視界も良好で眺めは最高だ。水泳は嫌いじゃない。水の中に入ると心が洗われるような気がする。

 私は面倒くさくて単純な人間なのかもしれない。

 少し潜り過ぎたので身体の動きで深さを調整する。プールとは違って、流れがあり底はデコボコで急に水深が下がるため、流れに逆らわず逆に利用して前に進んでいく。

 そろそろ息が切れそうなのでキックを止めて浮上する。ゴーグルが吹っ飛ばなかったから飛び込みは成功かな。なんてことを思っていたら、いつの間にか晴ちゃんがこっちまで来ていた。

「まさかあそこから飛び込むとは。かなり派手な音はがしたけど、お腹とか胸とか大丈夫だった?」

 言われてみるとお腹の辺りがヒリヒリする。晴ちゃんによると結構お腹の方から飛び込んでたみたいで、音や水しぶきが凄かった様だ。

「布面積が広くなければ即死だった……なんてね」

 やはり追求すべきは耐久力と防御力。そう考えるとスクール水着が最適か……。とバカなことを考えていると、いつの間に晴ちゃんが視界から消えている。

 まずい。一瞬の隙を突かれた!

 後ろに振り向くが晴ちゃんの姿はない。だとすれば晴ちゃんは今、水中にいる。

 この場合、取れる選択肢は二つ。一つは水中に潜り対応すること。だがこれは危険だ。水中での機動性は晴ちゃんが圧倒的に優っている。正面から挑んでも勝機はない。更にこの状況では先手を取られているため策を講じる余裕はない。となれば敗北は明らかだ。

 ならばここで迎え撃つ。晴ちゃんは水中に潜ったが、それは諸刃の剣だ。人間が水中で活動するには限界がある。要は攻めさせなければこっちの勝ちになるのだ。だがそれは晴ちゃんも分かっているはずだ。

 時間切れで負ける様な戦い方はしてこない。確実に攻めてくる。

 私は脚を肩幅に開き腰を落として気を集中させる。水中から攻めてくるのなら、水流を見極めれば相手の動きが分かる。

 まずは右脚側、そして次は左脚側の水流が強くなる。これは明らかな牽制だ。私は意図的にどちらにも反応を示さない。

 ここで動けば、反応出来ることが分かってしまう。相手に不用意な情報は与えない。それが鉄則だ。

 さあ、何処から来る。右か、左か……――――左っ!

 左脚側の水流が一気に強くなる。

「速い! でも――」

 この速度なら――!?

 と、この時私は僅かな違和感に気付く。本気の晴ちゃんにしては僅かに勢いが弱い。この左は……フェイントだ! 本命は――右!

 晴ちゃんの作戦は完璧だ。左右に牽制した後、左にフェイントを入れて本命の右で仕留める。私の利き手が右なことを利用し、軸脚の左を狙うのではなく、踏み込む右を封じてカウンターの勢いを殺す。そうすれば先に仕掛ける晴ちゃんに分がある。

 でも、この勝負はもらった!

 私は左脚を僅かに前に踏み込む。そして、それに合わせて腰を捻り、一気に身体の向きを変える。

「そこだ!」

 私は晴ちゃんに向かって手を伸ばす。

「――なっ!?」

 だが、私の手は空を切った。

「捕まえたー♪」

 晴ちゃんは私の後ろに回り込んでいた。私は反応する間もなく晴ちゃんに後ろから抱きつかれた。


×××


「晴ちゃんくすぐったいんだけどー」

 私の読みは間違っていなかった。だが、晴ちゃんは更にその上をいった。私が左脚を僅かに前に出した瞬間、晴ちゃんは身体を捻りながら股の間を潜り抜けて、私の背後を取っていたのだ。

「飛び込みで水面に強く打ってたからよく確認しないとだよ。万が一ってこともあるからね~」

 晴ちゃんはそんなことを言って私のお腹を撫でる。心配してくれるのはありがたいのだけど……水着越しに晴ちゃんの柔らかな指遣いが伝わってきて、何だかこそばゆいし、くすぐったい。

「お腹は大丈夫みたいだね。じゃあこっちは――」

 晴ちゃんの指がだんだんと上の方へ移動していく。

「――は、晴ちゃん!?」

 晴ちゃんは撫でる様な手付きのまま、優しく包み込む様に指先を動かしてムニムニとそこを触る。

「ひゃっ……んっ――」

 こそばゆい感覚と、くすぐったさが合わさったせいで、思わず声が漏れてしまう。

「……飛び込みの衝撃で小さくなった?」

 だが、晴ちゃんのその言葉により、ふと、冷静さを取り戻す。

「――それは……元からだぁあああ!」

 私は胸の前で手を交差して晴ちゃんの両手を掴む。そして腰を落とし晴ちゃんの体重を背中に乗せてから、思いっきり前に身体を屈める。

 晴ちゃんは「ぎゃぁ~」と声をあげながら、四分の三回転ほどして背中から水面に落ちた。


×××


「ハァ……ハァ……」

「いや〜悠ちゃん速かったよ! デットヒートだったよ! もう一回やる?」

 競争したり、追いかけっこしたり、プロレスごっこしたり――そしてまた競争したり。水泳バカの晴ちゃんと一緒にしないでいただきたい。なんて思いつつ息を整える。

「……くっ……妹に負けてしまった……」

 ちなみに今回の競争はお兄ちゃんも参戦した。

 こちらの岸から対岸まで泳ぎ、ターンして戻ってくる。というなかなかハードな戦いだった。晴ちゃんは、私とお兄ちゃんが往路の半分を過ぎてからスタートしたが、それでも余裕で勝ってしまった。

 まあ、その結果は最初から予想出来ていたので、実質私とお兄ちゃんの一騎討ちだったけど。

 晴ちゃんに勝てないことは分かっていたが、お兄ちゃんに勝てたのは嬉しかった。水泳はまだ一応現役なのだ。大学入ってから運動してないお兄ちゃんとは違うのだよ。

「そうだ悠ちゃん!」

 晴ちゃんの体力は無尽蔵な様だ。

「向こうの洞窟の先の方に行かない?」

「洞窟の先?」

 晴ちゃんは川の上流側にある洞窟を指差す。

 それなりに疲れているけど探検なら泳ぐよりもハードじゃないから大丈夫だろう。

「オレは疲れたから上がって休んでるぞ……」

 お兄ちゃんは川から上がって腰を下ろす。

「濡れている足場は滑りやすいし、流れもあるから気をつけろよ」

「分かってるよ。じゃあ、晴ちゃん行こうか」

 私は晴ちゃんと一緒に洞窟の更にその先を探検することにした。


×××


 洞窟を超えた先は少しゴツゴツとした岩が多くなり、川の流れも真っ直ぐではなくなっていて、より自然というものを感じられる様な景色が広がっていた。

「上流はこんなふうになってたんだ」

 今までほとんど来たことがなかったので、すごく新鮮だった。

「そうだ悠ちゃん。あそこで休憩しない?」

 晴ちゃんが指差した方向に視線を移すと洞窟が見えた。

 晴ちゃんの提案はありがたかった。実を言うと私は結構体力を消耗していたのだ。慣れない足場を裸足で歩くのは結構大変だった。さっきも一回転びそうになったし。

「そうだね、結構疲れたし丁度いいかも」

 私たちは川から少し外れて洞窟に向かった。

「入り口はちょっと狭いけど、中はそれなりの広いみたいだね」

 入れるか少し心配だったが、問題なかったようだ。

 私たちは洞窟の中に入り、岩の上に腰を下ろす。

 中は日が当たらないし、すぐそこが川なので涼しかった。

 入り口から適度に風が入ってくるし、椅子代わりにしている岩はゴツゴツしているけど、冷んやりしていて気持ちいい。そして、隣には晴ちゃんがいる。洞窟の中はとても快適だった。

 静かな時が流れる。

 そういえば……何で晴ちゃんはいつも……私にかまってくれるのかな……。

 ふとした、だけどどこか片隅で、ずっと思っていた疑問が頭によぎる。

 晴ちゃんは……私のことをどう思っているのかな……。

 私は……晴ちゃんのことを凄いと思ってる。水泳のことはもちろんそうだけど、周りと違うことを気にせずに、自分のやりたいことが出来る。晴ちゃんは……いつも私のことを引っ張っていってくれる。私に楽しい時間を沢山くれる。それに悩みなんて無さそうで……そんな晴ちゃんの姿は私にとって羨ましかった。

 少し強引で、たまに予想のつかないようなことをするけど、元気いっぱいでカッコよくて優しくて笑顔が可愛くて……。

 私にとって晴ちゃんはヒーローだ。

 だからこそ、私は晴ちゃんに追いつきたい。晴ちゃんの隣に並びたい。晴ちゃんが見せてくれる景色だけじゃなく、晴ちゃんと同じ目線から見える景色を見たい。

 でも、そう思う反面、晴ちゃんの輝きは私にとって少し眩し過ぎることもある。

 晴ちゃんは、周りと違うことを気にしない、自分のやりたいことをやる。と言っていたけど、私はそんなふうには思えないし そんなふうに行動出来ない。自分に自信がないから、仲間外れになるのが怖いから、自分を否定されるのが怖いから。私は晴ちゃんみたいになれない。

 そんな私が晴ちゃんの隣にいていいのかな……。

 私は晴ちゃんの幼なじみで……親友だと思ってる。晴ちゃんのことは大好きだし、一緒にいると楽しいしドキドキもワクワクもする。でも、だからこそ、そのことが晴ちゃんのことを縛る鎖になっているかもしれない。

 私は……晴ちゃんの何になりたいんだろうか……晴ちゃんとどうしたいのだろうか。私の本当の想いは……。

「――悠ちゃん!」

 不意に晴ちゃんに呼びかけられる。

「ごめんね……ボクの我儘に付き合わせちゃって」

 ――えっ……。

 思考を現実に引き戻されたばかりの頭は、晴ちゃんのその言葉を理解することが出来ず、私は金縛りにかかったかの様にその場で膠着してしまった。

「自分のことしか考えないで、強引にこんなことに付き合わせちゃってさ……悠ちゃんのこと全然考えられてなかった……」

「晴ちゃん、何を言って――……」

「悠ちゃん時々辛そうな顔してた……だから何か原因があるんじゃないかって。そしたら、思い当たることが沢山あって……」

 私は辛くなんて――……。

「中学生になったら学校のことが忙しくなって悠ちゃん会えないんじゃないか。とか、ボクのこと子どもっぽくて嫌いって思ってるんじゃないか。とか思ってて……だけど悠ちゃんとまた会えて、いつもと同じ様に接してくれて……だから、いつもみたいにまた一緒に遊べると思って自分勝手なことして……それで悠ちゃんを困らせて……」

 私は困ったりなんて――……。

「そもそも真っ先に川遊びなんて……変だよね。もう中学生なんだし、それに自分のことを『ボク』って言ったり……女の子っぽくない趣味だったり……変わっていくのが普通だし、変わらなきゃいけないのは分かってるけど、どうすればいいのか分からなくて……」

 変だなんて――……。

「……って、何言ってんだろうボク……ごめん悠ちゃん。変なことばかり言って……今度からはこんな我儘で自分勝手なことに付き合わせたりしないから……その……謝っても仕方ないかもしれないけど……幼なじみだから、親友だからって、悠ちゃんのこと考えずに勝手ことばかり言ってごめんね」

 晴ちゃんが謝る必要なんて――……。

「晴ちゃんが謝る必要なんてないよ。私、辛くなんかないし、困ってなんかないよ。変だって思ったりなんかしてないし、晴ちゃんと一緒にいると楽しいよ。だって晴ちゃんはいつも私のことを引っ張っていってくれるし――」

 そこまで言って私は気付く。

 これじゃあ私、自分勝手でわがままなだけだ。晴ちゃんの邪魔になってるかもって思っておきながら、晴ちゃんが離れてしまいそうになったら、嫌だって否定して……。

 晴ちゃんは悩んでいたんだ。変わっていくこと、変わってしまうことについて本気で考えていたんだ。そして私は晴ちゃんに謝らせてしまった。晴ちゃんのことを羨んで、悩みなんて無さそうとか勝手に決め付けて、いつも晴ちゃんに甘えてばかりで……。

「晴ちゃんごめん」

「えっ――」

「私、晴ちゃんと向き合おうとしていなかった。晴ちゃんのことをちゃんと見ていなかった。悩みなんてなさそうとか勝手に思ってた」

 こんなふうに自分のことを晴ちゃんに話すのは、初めてかもしれない。

 もしかしたら、晴ちゃんに幻滅されてしまうかもしれない。でも晴ちゃんは自分のことを話してくれた。だったら私も話すべきだ。晴ちゃんは私のことを親友だと言ってくれたんだから。


×××


 私は自分の思っていたことを包み隠さず伝えた。周りが変わっていくことを受け入れられていなかったこと。いつもと変わらない晴ちゃんと会えて嬉しかったこと。晴ちゃんの考えや姿勢が眩しく羨ましかったこと。晴ちゃんに置いて行かれることが、足枷になってしまうことが怖かったこと。晴ちゃんに感謝していること。晴ちゃんの隣に立ちたいということを。

「ボク……早とちりして悠ちゃんのこと勝手に決め付けて……」

「……私の方こそ……晴ちゃんとしっかり向き合おうとしないで……今まで自分のこと何も伝えようとしなくて……」

 少しの間沈黙が続く。

「私は……晴ちゃんと向き合おうとしないで、自分の思っていることを伝えようとしていなかった。だけど、これからはちゃんと話す。ちゃんと伝えるから」

「……ボクも……ちゃんと話すし、ちゃんと伝えるよ」

 晴ちゃんの眼が私を捉える。

「……全く変わらないものなんて無い。それは私も同じで……でも私は今日みたいに晴ちゃんと遊ぶの好きだよ。中学生になってもそれは変わらない。だからまたいつもみたいに誘ってほしいな」

 私は隣に座る晴ちゃんの眼を見てしっかりと伝える。

「ありがとう。悠ちゃん」

 晴ちゃんはいつものように笑顔で応えた。


×××


「悠ちゃん……その……少し聞きたいことがあるんだけどいいかな?」

 聞きたいこと?

 晴ちゃんの方からこうやって聞いてくるのは珍しい。互いに想いをぶつけ合ったからだろうか。

「いいよ。私に答えられることならどんどん聞いてよ」

 何にしても晴ちゃんから頼ってもらえるのは嬉しい。

「じゃあ……えっと……悠ちゃんはさ……『好き』を伝える為には……どうすればいいと思う?」

「…………えっ!」

 私は少しの間、言葉を失っていた。

 なるほど、まさか恋の相談とは……想定外だった。

 だが、それは少し考えれば予想出来ることであった。少なくとも私の前では、天真爛漫、自由奔放、傍若無人を足したような晴ちゃんが聞くのに渋ることなど、そう多くはないはずだ。加えて水泳バカとも言える晴ちゃんは、そもそも、うら若き花も恥じらう麗しのJCなのだ。恋の一つや二つあって当然だ。

 少し俯き気味に私を見つめる晴ちゃん。

 何でこんなに心がモヤモヤして……って、そんなこと考えている場合じゃないよ! 頼られたんだからちゃんと答えなきゃ……えーっと『好き』を伝える為には……。

 何だかそんな晴ちゃんの姿を見ていると、消えていた心のモヤモヤが戻ってきてしまいそうであった。私は慌てて眼をそらし質問に対する答えを必死に考える。

 告白の方法はいくつかあるはずだ。手紙、電話、メール、SNS……いや、でもそれらだけでは伝わらないことも多いはず。だったらやっぱり。

「そうだね……やっぱり直接会って面と向かって言葉で伝えるのが、一番いいんじゃないかな。それが晴ちゃんらしい気がするし」

 私は自慢気に答える。残念ながらそういった経験……と言うより恋愛経験は全くないので、その言葉に大した根拠はないのだけれど。

「そっか……そうだよね。ありがとう」

 よかった……なんとか切り抜けられたみたいだ。

 私は気を落ち着けようと立ち上がり、改めてモヤモヤの原因を考えようとする。

 この気持ちは……何だろう。今まで感じていたのとは少し違うような――――。

 その時。不意に私の両手が晴ちゃんに握られる。

「悠ちゃん!」

 晴ちゃんの掌は強く熱を帯びており、その熱が伝わってくる。

「ど、どうしたの晴ちゃん!?」

「悠ちゃんは……自分の思ってることを話すって、ちゃんと伝えるって言った。ボクも……約束した……だから……ちゃんと伝える」

 心臓の鼓動がどんどん大きくなり、速度を増していく。

 晴ちゃんの双眸が私を捉える。

「悠ちゃん……ボクは……悠ちゃんのことが好き。大好き。いつからかは分からないだけどずっと大好きだったんだ」

 ――えっ。

「……迷惑かもしれないって思ったけど……でも……その……伝えたい、伝えなきゃって思ったから……」

「えっと……あの……その……」

 握られていた手が解かれる。吹き込む風が火照った身体を冷まし、正常な思考を取り戻させる。

 頭の中は、正常な思考が出来る状態になっている。

 私は……晴ちゃんから大好きだと伝えられた。それは嬉しいことだし、私も晴ちゃんのことは大好きだ。だけどそれはだだの『好き』じゃなくて……晴ちゃんは『好き』の伝え方を私に聞いた。そして『好き』を伝えた……。

 心の中でいくつもの想いが渦巻き絡み合い絶えず形を変える。揺れ動く私の心、消えない熱、葛藤。心のモヤモヤは晴れては現れ、捉えることができない。

こんな気持ちになるのは初めてだ。

「その……悠ちゃん。いきなりこんなこと言って……変だよね。おかしいよね。幼なじみで親友で女の子同士なのに……もうこんなことしないし言わない。ごめ――」

 私は晴ちゃんの言葉を聞き終える前に手を取っていた。

「晴ちゃん! ……えっと……その……わ、私は……」

 私の想いは……。

「……私も……その……」

 力の入れ方が分からず両手が震える。

「……悠ちゃん」

 私は再び晴ちゃんに抱きしめられた。

「……ごめん……ごめんね……」

 晴ちゃんの眼を見ていられた時間は僅かだった。

 その言葉の先まで聞いたらなにもかも終わってしまう。私と晴ちゃんの関係は終わってしまう。そう思ったから晴ちゃんの言葉を遮った。

 だけど、そのあと言葉が続かなかった。

 私はどうしたかったのか。

 不意に涙が滲んでくる。

 私は晴ちゃんのそんな表情を見たくなかった。晴ちゃんのそんな言葉を聞きたくなかった。私は……。

 ……いや、違う。『そう』じゃない。

 これじゃあ、さっきまでと同じだ。離れるのが嫌だから、ただわがままに相手が言っていることを否定しているだけだ。

 何で私は、田島悠はこんなにも不甲斐ないのだろうか。偉そう気持ちを伝えるには言葉が一番とか言っておきながら、自分ではそれが出来なくて。結局自分の気持ちをうまく伝えられない。

 晴ちゃんは私の涙が乾くまで、何も言わず抱きしめていてくれた。


×××


「えっと……そろそろ戻ろっか……」

 晴ちゃんのポニーテールが揺れる。

「あんまり遅いとお兄さん心配するだろうし……」

 私は……心のどこかで晴ちゃんにこうやって『好き』だって伝えられることを、望んでいたのかもしれない。そうすれば晴ちゃんの一番近くにいられるから。でも、それは怖くもあった。もし晴ちゃんが『好き』じゃなくなったら、私と晴ちゃんの関係は終わってしまうんじゃないかって。

 だから……。

 だから、なんだ! 私は何をやっているんだ! 自分の思っていることをしっかり伝えるって、ついさっき言ったばかりじゃないか! それは嘘だったのか!

 私は……このままじゃ嫌だ。

 次から次へと湧き上がるモヤモヤが残るのは嫌だ。結局気持ちを伝えられないまま終わるのは嫌だ。すれ違ったままなのは嫌だ。

 だから。

「……晴ちゃん……その……なんというか……手……つながない?」

 私は晴ちゃんの方に手を伸ばす。

 晴ちゃんはいつもと変わらぬ笑顔で手を伸ばす。

 これは……私の気持ちを伝える最後のチャンスかもしれない。

「……私は恋とか愛とか……それが何なのかまだよく分かってない。だから私は……」

 私を捉える晴ちゃんの双眸が僅かに揺れる。

「私は、晴ちゃんの想いに応えられるか分からない。だけど……だからこそ!」

 ……もう迷わない。私は――。

 私は晴ちゃんの指をなぞる様に自身の指に絡ませる。

 もう眼を逸らしたりなんてしない。私は――。

「私は……晴ちゃんの隣にいたい。ずっと一緒にいたい。晴ちゃんの色々な表情が見たい。晴ちゃんの笑顔が見たい。困ったことがあったら助けになりたい。私は晴ちゃんの一番がいい!」

 私は誰かを好きになるということがよく分からなかった。初恋の記憶も無かった。だけどたぶんそれは違ったんだ。

「晴ちゃんは変じゃない。おかしくなんかない。だってわたしもずっと前から晴ちゃんのこと好きだったから」

 女の子同士がどうとか、そうじゃなくて私は晴ちゃんが、藤咲晴のことが好きなんだ。

「私はもう迷わない。私は晴ちゃんのことが好きだ! 大好きだよ! ハル!」

 晴ちゃんは少しずつその表情を変えていく。驚きから、少し涙を浮かべた表情、そしてとびっきりの笑顔で私の手を包み込む様に自身の指を絡ませて手をつなぐ。

 晴ちゃんの笑顔は、今までで一番、可愛いくてカッコよくて綺麗で優しかった。

 いつの間にか、私の心のモヤモヤはドキドキへと変わっていた。

 私は、ほんの少しだけ強く、晴ちゃんと繋ぐ手に力を入れる。

 晴ちゃんは、それに応える様に私の手を握り返す。

 繋いだ手から晴ちゃんのドキドキが伝わり、私のドキドキを混ざり合う。

「ボクは……悠ちゃんのことが好き。優しくて真面目で時々熱くて、不器用なボクをいつも助けてくれて、癖っ毛が可愛いくて、真剣な顔がカッコよくて、たまに見せる笑顔がまぶしくて――」

 晴ちゃんは握っていた手を指先まで一本一本なぞりながら解き、優しく包み込む様に私の背中に手を回す。私も同じ様に晴ちゃんを抱きしめる。

 私の頬に晴ちゃんの髪が触れる。そして、それと同時に、全身に何か柔らかな感覚が広がり、かすかに甘い香りが鼻腔を撫でる。

 胸やお腹に伝わる柔らかな感触は、強く熱を帯びており、その熱は全身を包み込む。

 たった二枚の布越しに伝わる心臓の鼓動が加速し共鳴し混ざり合い、次第に一つの大きな波に変わる。

「好き……大好き……ユウ」

 耳元で囁く様に伝えられるその言葉は、熱く身体の芯を溶かす様で。熱く、ただ熱く、燃え上がる様な熱によって思考が掻き消され、脳の裏側までその全てが熱く燃え上がる白で埋め尽くしていく。

 初めてのその感覚は、怖いと感じることはなく、とても心地の良いものだった。私はその感覚に身を委ねた――。


×××


「……えっと……そろそろ行こっか、ハル……ちゃん……」

「……呼び方戻ってるよ。ユウ……ちゃん」

「……は、晴ちゃん。やっぱり呼び方はいつも通りにしようよ。なんか慣れないというか……恥ずかしいというか……」

「……そ、そうだね……いきなり変えるのはなんか恥ずかしいし……」

 この洞窟から出ればいつもに戻る。だけど――。

「だけど……出る前に一回だけ呼んでほしいなー……なんて」

「……心読まれてるみたいで恥ずかしいんだけど……」

だから、いつもの夏の日に戻るんじゃなくて。

「それじゃあ……行こうか……ハル」

「うん。行こう……ユウ」

 いつもの夏の日を始めるために。

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