其六
霆が目を覚ました時、見えた窓の外は薄暗かった。日暮れまで寝ていたのかと思ったのも束の間、彼の朦朧とした意識は耳をつんざく様な悲鳴で叩き起こされる。家に飛び込んで来た霣の顔は見た事がない程に真っ青だった。
「……父さん……?」
「霆、今すぐ隠れろ。今すぐにだ」
すぐに霆を抱え上げ、家の中を見渡す。奥にあった空樽が目に付くや否やそこに駆け寄り、訳も分からず抵抗する彼を中へ押し入れた。その間にも悲鳴は数を増し、少しずつ近くなってくる。
「何を……」
「良いか霆、何があってもここから出るな。音を立てるな。誰に呼ばれても返事するな……無論、その声が俺のものだったとしてもだ。分かったか」
余りの気迫に、霆は頷く事しか出来なかった。霣によって樽に蓋がされ、外の景色は何も見えなくなる。
「……最後にもう一つだけ約束してくれ」
暗闇の外から、先程とは違う霣の声が聞こえた。
「これから何があろうと、どんな結末を迎えようとも、自分の生まれた事を後悔しないで欲しい。……俺がいなくともお前は大丈夫だ」
そして一人分の足音が離れていく。霆は自分の上にある蓋を押し退けて飛び出したくなったが、体は殆ど本能的に霣との約束を守っていた。
***
「見つかりませんねぇ、半人子の秌霆君とやら……もう黄昏時は過ぎちゃいましたよ」
戈に付いた血を振って落としながら戔が呟く。そこから滴っていたであろう跡は、遡れば赤黒く濡れた塊まで続いていた。
「さっさと大人しく殺されてくれないかなぁ。おーい、秌霆くーん」
「呼ばれてのこのこと出て来る訳がないだろう」
ごん、と鈍い音が鳴る。隣を歩いていた佩が戟の柄で戔の頭を叩いたのだ。
「痛……だったらどうすれば良いんですか」
「さっきの連中に案内でもさせれば良かったんだ。なのにお前が出会い頭に首を刎ねるから……」
「説教は御免ですよ。それに他の奴等も見て下さい。ほら、あそこなんてもう遊んでますから」
文句言いたげな戔が指差す先で、数人の龍族兵が円を作って高笑いを上げていた。その中央には人間の男女がいて、震えながら武器を構えて互いに向けている。
「あーあ、楽しそうだなぁ。俺もやりたいなぁ」
子供の様で物騒な我儘を垂れる戔に呆れ、佩は溜め息を吐いた。しかしすぐに思い直して自分の名案に軽く頷く。
「ならば次に見付けた人間から有力な情報でも得られたなら、そいつの事は好きにして良いとしよう」
「本当ですか!?よーし、誰かいないかなぁ」
途端に戔は元気を出した。余りにも単純で扱い易い。
「おっ、見ぃ付けた」
明かりも灯さず駆けて行く人影が一つ。戔は翼を広げて飛び上がった。
「地を這う人間如きが、天翔ける龍族から逃れられると思ったかぁ!?」
そしてその人影目掛けて急降下し、彼女の頭上すれすれを越えて眼前に着地する。一瞬の出来事だった。
「やあ、こんばんは人間さん。ちょぉっと訊きたい事があるんだけど」
腰が砕けて尻餅をついた彼女と目線を合わせようと屈み、若干の狂気が混じった笑顔で問いかける。彼女は逃げようにも叫ぼうにも体が言う事を聞かず、まるで仰向けになった虫の如く、ただ出鱈目に四肢をばたつかせた。よく見ると失禁もしている。
「あのー、もしもーし?」
「い、あ、あ……あう……」
試しに顔を近付けてみると微かにそんな声が聞こえた。恐怖の余り言葉すら失ってしまったようだ。
「うーん、駄目だなこりゃ。情報の前に会話が成立しないや」
そうして戈を振りかぶった所を、後ろから佩に止められる。
「ちょっと、何するんですか!」
「まだ殺してはいけない。相手が喋れなくとも情報は得られる」
佩は戔を押し退けて彼女の前に座り込んだ。戟を自分から少し遠くに放り、淡々と話し始める。
「秌霆という者を知っているな」
彼女は何度も首を縦に振った。
「知っているんだな。ならば彼の家を教えてくれ。俺達はそれさえ知れれば十分だ」
頼み込む事も、命令をする事もなく言う。すると彼女は力の上手く入らない手を何とかして持ち上げ、中途半端に形を作った指で一軒の家を指した。
「そうか、あれが秌霆の家なんだな。……助かった。礼を言おう」
軽く頭を下げ、戟を手に取って立ち上がる。それから佩は感心している様子の戔の方を向いた。
「流石ですねぇ」
「お前がせめてこれ位は出来れば俺も楽になるんだが……まあ、兎に角約束は約束だ」
「約束……という事は?」
「この人間を好きにして良いという事だ」
「やったぁ!」
無邪気に喜ぶ戔を前にして、彼女がひい、と獣のように鳴く。これで戔は暫く彼女と戯れているだろう。独りになった佩は教えられた家を目指して歩き出した。後ろから聞こえる悲鳴と笑い声が段々小さくなっていく。
辿り着いた場所には明かりどころか人の気配すらなく、代わりに荒らされた後が散見していた。もう既に殺されたのかとも思ったが、誰も首級を挙げていない事からその可能性は否定される。寧ろ隠れている方が確率は高い筈だ。
「秌霆はいるか。ここにいるなら返事してくれ」
当然ながら反応はない。こういう時、荒らしを嫌う佩は普段なら出口を塞いで根競べでもするのだが、此度ばかりは話が違う。悠長に待っていられる暇などないのだ。
急がなければ。少しの焦りを覚えながら、彼は暗い家の中へと足を踏み入れた。




