其四
尤は、朝餉が喉を通らずにいた。
「尤様、どうなされました?どこかお体の調子が悪うございますか?」
「いえ、何でもありません……」
婁にはそう言うものの、様子がおかしい事など誰にでも分かる。ただ、数多といる付き人は誰も声をかけようとしなかった。
「全く、あやつらときたら……自らの仕える主が万一倒れなさる様な事があればどうするんだ。あやつらの辞書には『責任』の二文字が載っていないのか?」
「やめなさい。彼らだって自分の仕事に尽力しているのです」
「は、失礼を致しました」
婁を咎める口調はいつも通りだ。婁は頭を深々と下げ、それから直るとまた心配そうな表情を尤に見せた。
「しかし、本当に大丈夫なのでございますか?もし何かあられませば、どんなに些細でも私めをお呼びくだされ……それとも」
「?」
周りを憚り、急に声をひそめる。
「お悩み事でもお抱えでしょうか?……それも、易々と口には出し得ぬような……」
尤は目を丸くした。どうやら図星らしい。
「もし、この愚臣がお役に立てるのであれば、どうか私めにご相談くだされ。誓って秘密は守ります故……」
***
俺があいつと出会ったのは、お前があいつと会ったのと同じ場所、同じ満月の夜だった。
天峰の頂を見たい人間の男と、麓の世界を知りたい龍族の女……若い俺達はすぐに打ち解けた。あの詩も、龍族が人間と接触する事を禁忌としていたのも知った上でな。
俺はあいつに岟での生活について話して、あいつから龍族の村について聞いた。一晩じゃ語り切れなかった俺達は、ある約束を交わして別れたんだ。次の満月の夜にまた会おう、と。
それから、満月の夜が来る度に俺達は同じ場所で会った。語り尽くして話す事がなくなっても、必ずまた会う約束をした。……会う事自体が目的になっていたんだ。人間だ龍族だなんてのは最早どうでも良くなっていた。その時は本当に、次に月が満ちるのをただただ待ち焦がれていたよ。
そこまでを懐かしむ様に語ると、霣は一つ溜め息を吐いた。彼の足取りは慣れたもので、しかも霆が登った道よりも早い道があったらしく、岟の人々が起き出す前にはもう麓に辿り着いてしまった。
「これで天峰を登ったという事は俺とお前だけの秘密になる……当たり前だがな」
敢えてそれを口にするのは、霆への念押しに他ならない。霆は黙って頷き、また頭巾を被る。
結局、霣の話がそれ以上続く事はなかった。
***
「……成る程」
尤の言葉は途切れ、婁が彼女の一言一句を逃すまいと強張らせていた体から力を抜く。
「つまり……尤様は以前に禁を犯した事があると」
恐る恐る放った確認に、尤はゆっくりと頷いた。相当の覚悟を持って打ち明けたのか、膝の上に乗せた拳が少し震えている。
場所を変えて本当に正解だった。今の話を侍女の一人にでも聞かれてしまったなら、噂は瞬く間に広がっていくだろう。
「しかし、何故今頃になってその事でお悩みになられるのですか?秘密になさっていれば誰にも知られないでしょうし、何より尤様は今の今までその秘密を守り抜いて来られたのでは?」
婁の素朴な疑問を受けると、尤はうつむき、それから大きく深呼吸をした。
「……この話には続きがあります。私と彼の間には、一人……子供がいるのです」
「なっ……」
婁が目の色を変える。
「人間の子を孕むなど言語道断……禁忌の中の禁忌ではありませんか!もしもそれが曝露されたならば、尤様、貴女はもうここでは生きられませぬ!」
「……分かっています。しかし、当時は……過ちを犯したその時の私は、掟など何も気にしてはいませんでした。事の重大さに気付いたのは、子を授かったと知った時……」
顔を上げないまま、尤は一通り懺悔した。
「その子は……今も生きているのですか」
「……ええ……今朝、顔を合わせました」
絞り出す様な声。婁の頬を冷や汗が伝う。
「……その、霣という者は、どこに住んでいるのですか」
「……岟、という、この山の麓の村に住んでいると……」
「焼きましょう」
静寂。尤がその意味を理解するには、少しの時間を要した。
「今、何と……」
「焼いてしまうのです、岟の村を。霣という男も、その者の子も、村の者も、全て焼き払えば禁忌の証拠は消えてなくなる」
「どうしてそんな事を!」
「貴女を守る為です。それとも、尤様はご自分の身を滅ぼしかねない存在がいつまで見つからないかと怯えながら暮らしなさる方がお好みでしょうか」
「っ……」
反論に出ようとした尤だが、婁の言葉の前に口を塞ぐ。事態はそれ程までに深刻なのだ――綺麗事が自らを危ぶませてしまう程に。
「どうか私兵団を私にお預けくだされ。この龍婁、必ずや、ここの者に気付かれぬままに目的を達成して参ります」
「……」
また下を向いた尤は、一層震える拳を強く握った。




