其参
上へ、上へ。岩と岩とを結んだ道無き道を進む。
あの後、すっかり酒に飲まれた霣と商隊の男は寝床にも入らず眠ってしまった。霆が家を抜け出した事には気が付いていないだろう。
一晩で雲より高い天峰を登るなど不可能なのは分かっている。しかし、何かが霆の足を前に動かしていた。
もうじき満月が東の空を昇り切る。あれが西の空に沈む頃、太陽が顔を出す前には山を降りよう。大雑把な制限時間をつけ、着々と上を目指す。
***
ふと、霣は目を覚ました。こんな真夜中に起きるのは珍しい。体を起こし、頭を掻きながら窓の外に視線をやると、寝惚け眼に霞んで朧げな月が南の空に浮かんでいた。やがて景色が鮮明になり、その形も見えてくる。
「……満月、か……」
いつかの記憶を思い出す。最初に出会ったのは満月の夜で、それから満月の夜が来る度に会おうと約束した。待ち合わせの場所も、約束が途絶えた今だろうと行こうと思えば行ける筈だ。そこへの道のりはしっかりと覚えている。
美しい思い出と、しかし一抹の後悔。出会わなければ良くも悪くも全て変わっていただろう。もしもの事を考えても仕方がないが、それでも頭をよぎってしまうのだった。
そろそろやめにしよう。そう思って再び横になった霣だが、その時一つの違和感に気付いて飛び起きた。
霆がいない。
その姿はどこにも見当たらなかった。同時に眠りに落ちる前、酒に酔っていた自らの行動が蘇ってくる。
まさか。望まれぬ事態が脳裏に浮かぶと同時に、霣は家の外へと走り出していた。
***
どれだけ歩いた事だろう。山霧の中とあっては、麓にあった岟の村や空に浮かんでいた満月はおろか、自分の数歩先すら見るに叶わない。それでも、例え子供の足であろうと、一晩かければ天峰にかかっていた雲までは辿り着く事が出来た。
もう十分だ。そろそろ引き返そう。頭ではそう思っているのに、足はまだ前へ前へと動いている。誰かに操られているのかと疑える程に、霆の身体は主の言う事を聞こうとしなかった。
突然、景色が開ける。どうやら雲を抜けたらしい。登り始めた太陽へと突き出た崖の先に、何かの影が立っているのが見えた。影は明るさを増す空を見上げていたが、霆の気配に気付いたのか、ゆっくりと彼の方へ振り返る。
其角如牡牛、其翼如蝙蝠、其尾如大蛇、然其姿如人。
霆の足が止まった。今度は地面に貼り付いて動かない。相手は逆光で顔こそ良く見えないものの、明らかに彼を見据えている。そして、
「……霆?」
優しい声だった。しかし、それ以上の言葉は出てこない。沈黙の中で、太陽と、彼女の涙だけが動いていた。
やがて止まった時は、霧の中から迫る足音で解かされる。一瞬躊躇う素振りを見せた彼女だったが、すぐに崖から飛び出し、朱く染まった空へと翼をはためかせて去っていった。
次に聞こえたのは厳しい声。山を駆け上ってきたのか息を切らした霣は、一旦霆を叱りつけようと手を振り上げたが、思い直して何もせずその手を下ろした。
「父さん、あの人は……」
霆の問いに対し、彼女の飛び去った後の空をぼんやりと見つめて答える。
「……あいつは龍尤。お前の母さんだ」




