07 俺はただ幸せになりてえだけなんだよ
「あー……、つっかれた……」
地底に五年くらい住んでるやる気のない人のうめきみたいな声とともに部屋の扉が開く音がした。
「おかえりー」
と僕はその方向を見ないままにそう声をかけて、代わりに今まで読んでいた電子書籍から顔を上げて、窓の外を見た。もう日が沈みかけていて、空は不思議な紫色に染まり始めていた。
「マジで疲れた……。喉痛えし眠いしロクなことがねえ……」
そんなことを言いながら、一成は僕の横に空いたソファのスペースに腰を下ろして、その後力なく僕にもたれかかってきた。一成にまとわりついて運ばれてきた外の冷気が、ふわりと顔に当たった。僕は彼の頭を左手でぐいっと押しやって、逆側に倒す。ぐお、と小さく衝撃を受けたらしい一成の声がした。
「全員終わったの?」
「いや。全部で七十六。まあ全員が全員来るわけじゃねえだろうし、こんなもんだろ」
「ふーん」
自分で聞いておいてなんだけど、割と心底どうでもいいなあ、なんて思いながら、どうも入眠の体勢に入り始めているらしく静かに呼吸を始めた一成の太ももを拳で軽く叩いた。
「寝るならベッドで寝なよ。それと風呂」
「めんどくせえ……。動きたくねえ……」
「だからこんなのやる必要ないって言ったのに」
「言われて聞くようなやつでもねえ」
なんで自分のことなのに他人事なんだ。
そんな風に思ったけれど、そのまま思いっきりブーメランが僕に突き刺さりそうだったので、言葉にせずに飲み込んだ。
兄さんの研究を利用して、上手いこと方々にわたりをつけて一成は世界の……、少なくとも一応は地球の支配者に、なったことにはなった。それで最初にやることが僕の複製人格に対する状況説明なんて無駄極まりないことなんだから、世界の支配者のくせに随分とみみっちい。
あるいは世界の方がそれ相応にみみっちいのか。
「透は?」
身体を持ち上げないままに一成は尋ねてきた。それ聞く必要ある?と僕は思ったけれど、思っても口に出さない方が会話が円滑に進む言葉というのもある。
「変わんないよ。研究室に籠りっぱなし。でもそろそろ三日くらいになるから、乗り換え近いと思う」
複製人格作成プログラムができてからの兄さんは、そりゃもう前よりもずっとひどいことになった。端的に言って、よく壊れるようになった。器質的な意味で。
複製人格の器を用意するための肉体構成技術――あまり僕はこれについて詳しくないけれど、先端技術なんてのはえてしてそんなものなんじゃないかと思う――、の応用だ。あらかじめ複数体の自分の肉体を準備しておいて、使用中の肉体が限界を迎えるたびに、最新の人格を待機中の肉体に移して、実質的に生存コスト支払いの手間をほとんど無視してひとつの自分の意識を継続して使用し続ける。
そもそも物理肉体にこだわる必要があるのか、とか、肉体を乗り換えながら単独意識を使用するより、複数意識を並列起動していた方が研究の効率性が上がるんじゃないか、とか、色々疑問に思うところはあったけれど、僕はそれに口出ししたことはない。どうせ兄さんの中ではそれなりの理由があるのだ。僕の知らない技術的効率性とか、理不尽なこだわりとか。
へえ、と一成は相槌だけを打った。多分予想通りにも予想通りすぎたからいまいちリアクションを取ることができなかったんだと思う。
それから「あ゛ー」とけだるげな声を上げて、天井を見つめるように一成は仰向けになった。僕はそれをちらりと横目で見て、もう一度電子書籍の文章が表示されたタブレットの画面に目を落とした。けれど目が滑ってしまってその内容は頭に入ってこない。とても面白いとさっきまではそう感じながら読んでいたのだけれど、どうも集中が切れてしまったらしい。
「なあ」
「寝たんじゃないの」
「俺いつ幸せになれんの」
知らないよ、と答えると、一成は、なんでだよ、と顔を片手で押さえながら情けない声を上げた。段々窓から射し込む光が薄らいできて、そろそろ部屋の電気を点けないと目が疲れてきそうだと思った。
「全然楽しくねえんだけど、世界の支配者」
「まだなってから三日でしょ」
「最初に楽しくねえもんが後から楽しくなった試しなんてあるかよ」
あるでしょ、いくらでも。と僕は冷静に答えたけれど、冷静じゃないらしい一成は全然話を聞いていなかったので、もう一度「うあ゛ー」と遠吠えみたいなうめきを上げた。
「俺はただ幸せになりてえだけなんだよ」
「知ってるよ」
ただ幸せになりたいって、それだけの願いのために世界を支配して、それでも何ひとつ満足できてない、めんどくさい男。僕の隣で転がってるヤツ。
五年前、親の都合で一成が海外に旅立って、”僕”の最初の複製たる僕もそれに連れていかれて、それから随分と長い間――子供にとっては、だけれど――、お互いのことを知る時間はたっぷりあったわけで、何から何まで、なんてことは言わないけれど、多少は僕も一成の考えていることを感じ取れるようにはなってきた。
こいつは『幸せになりたい』とよく口にするけれど、それは嘘でもないし、本当のことでもないと思う。結局こいつは、『意味』が欲しいんだと思う。兄さんと同じで。
思春期の間、彼はずっと『何か大きなもの』に対して漠然と憧れを持っていた。その他大勢の思春期の少年少女たちと同様に。
だからこそ、そんな彼に、生得的に備わっていた優秀な能力と、複製人格を巡る社会的な混乱はどこからどう見たって、自分の活躍のために用意されたステージに思えたのだろうけど……、現実は物語になるほど整然としてはいなかった。
何もかもが無意味すぎた。
増え続ける人類、小さな成功。彼の自意識を満たすことはできなかった。それでも大抵の人間よりは優れていた彼は、小さな成功を重ねて重ねて重ね続けて――、案外あっさりと、世界の支配者の座にまで上り詰めてしまった。
それを横で見ていた僕は、「ああ、気の毒に」と。感づかれないようにそれだけを考えていた。
『何か大きなもの』に対して彼が求めていたものはふたつ。『大いなる価値』と『それを得るに十分な説得力として機能しうる苦難』。
どちらも、存在していなかった。
一体今の社会で、誰が『世界の支配者』なんてものを気に掛けるだろう。無限分裂する自己がひしめく世界。すでに自分すらも自分自身の支配者たりえることもなく、自己が他者に支配されていることなんて、たとえ誰が口にしなくてもみな無意識に認識していた。
言ってみれば『他者の代表者』として一成の顔が知られるようになっただけ。それは例えば、夢の世界でいつも見るエキストラとか、そういう役どころに似ていた。
そして苦難なんてものはもってのほかだった。そんなのが彼に降りかかった試しはない。結局成り行きだったのだ。手を伸ばせば届くところにあった。起き抜けに鳴る目覚ましを止めるように、あるいは彼には、腰を上げたという意識すらなかったかもしれない。
だからこそ。
「どうすりゃいいんだよ……」
消え入りそうな声でそんなことを呟くようになってしまった彼に、その程度のことで絶対的な幸福が訪れるわけがないと、僕は知っていたのだ。
「そのうち良いことあるよ」
「お前それマジで言ってんのか?」
「晩御飯がカレーだったり」
ちょっと笑いながら伝えると、一成は、あー、とかうー、とか呻いた。
「……起きたら食うわ」
思考停止、みたいなニュアンスを含んだ一成の声音に、僕も何も考えないまま、はいはい、と頷く。その後しばらく一成はまた静かになって、僕は集中できないままにニュースサイトの見出しだけを流し見ながら、そういえば結局一成は風呂に入らないんだろうか、と、もしそうならさっさと僕が先に風呂に入っちゃおうかな、と思い始めた頃。
「真面目な話さ、これからどうすりゃいいと思う?」
「また人生の話?」
「そりゃなんだって言ってみりゃ人生の話だけどよ。そうじゃなくてもっと短期的な目標だよ。世界の支配者になって、それでもどうにもなんなくて、なら次はどうすんだって、そういう話」
ふうむ、と僕は口元に手をやって考える。確かに、今にいたるまで走り続けていただけで、その先の目標地点を考えていなかった。僕は思いつくままにこれからの予定を口にする。
「この世のありとあらゆる贅を堪能する。折角どうとでもできるようになったんだし」
「……だるそうだなそれ。たとえば?」
「食欲・性欲・物欲?」
げー、と心底嫌そうに、わざとらしい声を一成は上げた。
「んな俗っぽいことで救われるわけねえだろ」
世界征服だって十分俗っぽいよ。
僕は続ける。
「そうかな、やってみれば案外気分良くなるかもよ?」
「そりゃ、脳と肉体がそういう風にできてりゃそうかもしれないけどよ。遠からず電脳がメイン活動領域になるだろう時代だぜ? 肉的な幸福で救われた、なんて明日にゃナンセンスになってるだろうぜ」
一日そこらで、有史以来の伝統的な欲望と幸福がナンセンスなんかになるもんかなあ。引っ掛かりを覚えたけれど、ぐだぐだこんなことで論議していても、暇つぶし以外の何物にもならない。僕らは世界のことも人間のことも、欲望のことも幸福のことも、結局は何ひとつ知らないのだから。
だから僕は建設的な別案を出した。
「じゃあさっさとつまんない世界の支配者なんてやめて、電脳入りしたらいいんじゃないの」
「電脳入りしてどうすんだよ」
「兄さんに快楽プログラム組んでもらって、五千年くらい浸って過ごせば満足するんじゃない?」
「そういうこと言ってんじゃねえんだよなあ」
わかってねえな、と言わんばかりの声色に、ちょっとイラッとした。わかってて言ってるんだよ。どうせ絶対的幸福なんて脳の具合をぐりぐりやることでしか手に入らないんじゃないのって。
音楽でも小説でも何でも、才能がある人間の複製人格を大量生産して、傑作をベルトコンベアでするみたいに生産することができるようになって。その上人間の脳の解析をどんどん進めてしまえば、いつか何の脈絡もない、それこそ薬みたいな芸術作品だって作成されてしまうだろう世の中で。
「精神的満足感の話なんだよ」
「精神的満足感、ってそれも脳の動きひとつじゃん」
「ちげーよ魂の話だよ」
「宗教でも始めたくなった?」
僕の問いかけを最後に、突然一成の返答が止まった。寝たのかな、と思った。こいつは寝つきがとてつもなく良くて、立ったままだろうが話しながらだろうが眠くなれば容赦なく寝る。
しばらく僕は手持無沙汰でタブレットを操作していたけれど、それからこの睡眠中の友人をどうしようか、と思った。結構無茶な体勢で眠っているし、起きたら身体を痛めているかもしれない。この部屋は暖房も点いているし、寒くて風邪を引くこともないと思うけれど――、窓の外を見やるとすっかり夜だった。冬の日が落ちる早さには、いつも驚かされる。街の明かりが暗闇を隠してしまっても、夜であること自体は誤魔化せない。
僕は立ち上がる。それから部屋の隅まで行って、椅子の上に畳まれた電気毛布を腕に持って戻る。それをだいぶ縮こまった体勢で横たわる一成にかける。それから電源を入れて、とりあえず一番強い温度設定にしておく。暑くなれば勝手に寝返りでも打ちながら調節するだろう。
暗くなってきたし電気でも点けようか、と思って、いやいや寝てる人間がいる部屋の電気をわざわざ点けることもないだろう嫌がらせじゃないんだから、と思い直した。窓辺に寄ってカーテンを閉めて、それでもうっすらと街の光で照らされた室内を、風呂でも入ろうか、とそんなことを考えながら少しだけ足音を殺して歩くけれど。
「なあ」
一成はまだ起きていた。ほとんど眠っているような声だった。ん、と応えて僕はその言葉の先を促す。
「透の研究、どこまで進んでんの」
疑問文にも聞こえないような、ひとりごとのようにも聞こえるような調子の言葉だった。よっぽど疲れたらしい。
「行き詰ってるみたいだよ」
と、僕は簡潔に答えた。
兄さんが僕に研究の話をしたりすることはない。何せ一応は資金提供源になっている一成に報告するようなことだってほとんどないのだ。時間の無駄だと言って。確かに僕たちが研究の細かい話を聞いたってほとんどわからないことばかりだし、妥当な判断と言えばそうなんだろうけど。
ただ僕は、一成と違って、あるいは現代人類の多くと同じようにかなり時間を持て余していたりするので、たびたび兄さんの研究資料を読み込んだりしている。それから時々、複製人格の数が多いということを見込まれて実験の軽いテスター協力も。だから、まあ一成が知りたい範囲くらいのことなら、何となくわかることもある。ちなみに脳への安定的干渉までに気絶させられた七回は、兄さんの物理肉体の乗り換え回数よりは随分少ない。
兄さんの目的は、人間が辿り着ける、それ特有の真理を発見すること。なんだか科学者というよりは哲学者や思想家、宗教家みたいな目的地だけれど、手法はやっぱり複製人格を使った技術ありきだ。
同一の脳を複数の環境に置いて、その外部刺激に対する反応の差異から精神活動の輪郭を浮かび上がらせる――。正体不明のものに対して、あらゆる角度から光を当ててみよう、ということみたいだ。果たしてその輪郭を画定させたところで、一体どんな風に真理に結びつけるのかは、僕にはわからないけれど。
兄さんは物理脳にこだわりがあったらしい。今となっては、それは随分古臭い考えのようにも思えるけれど。それが結果として、地球上の余剰可住面積の減少を生み出し始めた。一成の案による一部希望者への電脳領域への早期人格完全移植によってだいぶそれは緩和されていたけれど、複製人格の作成はどんどん活発になっていくし、人口増加に反して与えられる環境の多様性は乏しくなっていく。だからこそ今、研究はやや行き詰まりを見せていた。
「細かい方は何が何だかわかんないけど、環境変化の方は結構めんどくさいことになってるみたいだね。電脳領域で物理脳が置かれてるのと同じような環境をシミュレートできないか調整してるみたいだよ」
そうじゃなきゃ宇宙開拓でもするしかないよね、と冗談めかして言ったところで、ふと思い当たった。人類は宇宙に活動領域を広げる前に、電脳領域に引きこもってしまうんだ、と。もしかしたら、地球から宇宙に行くまでの間に電脳領域が広がっていたのかもしれないけれど、僕にはよくわからない。
一成がもぞ、と身体を動かした。毛布の端が揺れたのがわかるくらいには、部屋は暗くなりきってはいなかった。
「宇宙か……。宇宙、行きてえなあ……」
眠りかけの人間の言葉なんて、酔っ払いの戯言とそう変わりはない、と昔一成が言っていた。僕は今、それになるほど、と頷いている。
「いいよね、宇宙」
「今度宇宙旅行行こうぜ……。お前どこ行きたい……?」
「じゃあ月」
「安上がりだなあ……」
安上がりでもないよ。近所のテーマパークに行くのとは桁がかなり違う。
「なら一成はどこに行きたいわけ?」
「俺……? 俺はそりゃあ……」
もう一度、一成が身体を動かした。今度は毛布も音を立てて動いて、すっぽり一成の頭を覆ってしまった。一成はその毛布の下から、くぐもった声で、
「……帰りてえなあ」
世界の支配者たる僕の友人は、どこにでもいる何もない人みたいに、そんなことを呟いた。
「やっぱり家が一番?」
「……おう」
「はは」
僕はそれに気付かないふりをした。僕にはどうにもできないから。
実際のところ、一成は兄さんに多大な期待をしていると思う。もしも兄さんが「とうとう人間の真理に辿り着くまでの道筋がわかった」と言えば、きっと一成は千人だろうが万人だろうが複製を作って世界中に散らばって、それから兄さんの解析によって真理を得ることを望むだろう。道徳的妥当性なんて、全部蹴っ飛ばしてくれるような絶対的真理を。
対して僕は、何もなかった。ただ彼の最初の友達だっただけ。彼の長い長い、途方もない刹那の旅路の道連れに、たまたま選ばれただけの間に合わせの安定剤。彼が本当の安定剤を得るまでの。あるいは。
彼が、『人生は死に方で決まる』という言葉を思い出すまでの。
だから僕には、隣にいるくらいしか彼にできることはないのだけれど、それでも別にいいんだよ。別にいいんだけれど。
でも、きっと。
彼は、誰かひとりの隣にいるために、ただそれだけのために創り出された人間が、どんな気持ちでその人の隣にいるかなんてことは、きっと、ただの一度も考えたことはないのだろう。
意味に迷うことを、価値を求めることを羨ましいとは思わない。けれど、意味と価値があらかじめ定義された存在であることに、僕はどこまでまっすぐ向き合うことができているだろう。
「もう寝なよ」
返答はなかった。言うまでもなく寝こけてしまったか。それとも返すまでもないと思ったのか。
「きっと明日は良い日になるからさ」
果たして僕の口から紡がれる言葉が、どんな感情を源泉としているのか。
”僕”が溢れるこの街で、僕は僕の感情すらも未だにつかみきれないままでいた。
浅い夜に彼は眠る。カーテンを閉め切った部屋に滲むように入りこむ光は、きっと月の光でも、星の光でもない。
「おやすみ」
それでも僕は、今日も”世界の支配者”に優しい言葉をかけるのだ。




