06 IDとパスワード
「うわあ」
「……最悪ね」
全く同感だよ、と景の言葉に頷くと、部屋の入り口に立っていた受付らしいお姉さんが僕らに小さな紙を渡してきた。レシートみたいにペラペラで、裏側からでも表側に書かれた文字が透けて見えるやつ。そこには『23』と数字が書かれている。
「はい、では順番が来たらお呼びしますので」
「あの、これどのくらいかかりますか?」
「……申し訳ありませんが、おひとりおひとりの面会時間は清海の一存で決まっておりまして、ちょっと私の方ではわかりかねます」
えー、と声に出さないままに、どうする?、と景に視線で尋ねたら、景は遠慮なく「えー」と口に出して不満を露わにした。
「外に出てても?」
「はい。面会時間までにお戻りになっていただければ……」
「って言ってもその時間がわからないんじゃあねえ……」
ふたりでうーん、と腕を組んで首を捻っていると、部屋の外からこの待合室に、どうやらトイレにでも行ってから戻ってきたらしい”僕”が僕らの傍に通りがかった。それからその”僕”は何気ない感じで僕に声をかけた。
「『Life ID』に何番面会終了、って感じで進捗流れてるよ」
「え、ほんと?」
尋ね返すと、”僕”は頷いてスマホをポケットから取り出す。ほら、と言って僕に見せつけた画面には、開きっぱなしらしい『Life ID』のアプリ画面が表示されていて、確かに『5番面会終了』というメッセージが全体に流されている。
ありがとう、と礼を言うと、”僕”は、うん、と頷いて部屋の中に入っていく。まだ先は長そうだな、と思いながら景に尋ねる。
「外で時間潰そうか」
「そうね」
と彼女も頷いて。僕は受付のお姉さんに、じゃあちょっと出てきます、と軽く会釈して、ふたりでその部屋を後にすることにした。
”僕”が十人以上収容されていた待合室を。
*
あの駅前大型ビジョンでの放送が終わった後、すぐに各メディアにその『世界に関すること』についての情報は拡散された。とは言ってもその内容はごくシンプル。『今日から清海一成が世界の支配者になる』と、それだけ。あのビジョンによって得られた以上のことを知ることはできなかった。
街はその話題で持ちきりだった。夜暗くなる頃、目深に帽子を被った景とふたりで駅前広場に座りながら周囲の会話に耳を立てていたら、みんなその話ばかりをしていた。
反応は色々だった。信じてる人、信じてない人。面白がってる人、不安がっている人。後はCITRUS の重大発表だと思っていたら肩透かしだったってがっかりしてる人。色々いた。
そのとき僕はなんて思ってたのか、よく覚えてない。というよりもきっと、そのとき僕は自分自身が何を考えているのか、いまいちわかっていなかったんだと思う。だからそのときどうしてしばらく見ていなかった『Life ID』アプリを起動したのかも覚えていないんだけど、そこには一通、目を留めるメッセージが残っていた。
『説明が欲しい人は一成のところに来てください』
と、それに加えて、ちょっとわかりづらい地図の添付。あんまり思考が回らなくて、とりあえず景にそれを見せてみれば彼女はふたつ返事で「行きましょう」と答えたものだから、僕らはその場所へ向かうことになった。
昼前、いつもの通りの時間に景と合流して(今日くらいは、と久しぶりに早起きしてみたけれどそんな必要は一切なかった)、訪れた地図の場所。なんだかわからない、高層オフィスビル。指示の通りにその最上階のひとつ下の階にエレベーターで向かえば、『辻倉凪様 受付こちら』と書かれた張り紙に、矢印の順路誘導。なんか恥ずかしいな、と思いながらそれに従って歩いて行くと。
”僕”がたくさんいた。
「ねえ、これ美味しい?」
景の声にハッと我に返った。
何かな、と思って景の方を見てみると、彼女はその手に『期間限定 抹茶ピーチゼリー』と書かれたよくわからない飲み物……飲み物?を持っていた。小首を傾げて僕の方を見るけれど、帽子とマフラーでその顔の大部分は隠されている。
「……何そのよくわかんないの」
「新商品でしょ」
僕の答えを聞かないまま、景は僕の持つ買い物カゴにそれを入れた。「不味かったら飲んでね」との言葉とともに。ひどい話だ。僕はとりあえず水でも買っておくことにしよう。
面会は遅々として進まなかった。あたりが暗くなり始めたのはもうとっくに昔の話で、今はほとんど深夜と言ってもいい。時間潰しのついでにコンビニに寄るのも、これで二回目だ。ちなみにさっきは別のコンビニに入った。
最後に『ID』に流れた数字は『17』。これは朝までコースかもしれないな、と思いながら、一旦帰ろうか、という提案も、僕は言い出せないでいた。
『ねー、ほんとなんだったんでしょうねあれ!』
『さあねえ。意外と本当にあの子が世界の支配者?だったりして!』
『えー、それはないですよー』
『どうかな、今はわかんないからねえ。子供だからとかそういう時代でもないでしょう? 何が起こってもおかしくないって、そういうの僕もさ、実感してるっていうか』
『うーん、そうですねー。でもやっぱりあれ大盛り上がりみたいでー。これうちの局が調査したんですけど各SNSの反応データで……』
『ありゃ、これはすごい。祭りってやつだね』
店内の有線ラジオが語り続ける言葉が、耳をすり抜けて何も考えてない頭に一瞬だけ吸収されていく。そして次に動いたときには薄らぼんやりと靄のように消えてしまう。
店の中は真っ白な室内灯に照らされて昼間みたいに明るくて、そのくせ太陽の光はひとつも射さないものだから身体が凍るように落ち着かない気分になる。静けさばかりがやけに気になって、コートの袖を握りこんだ。
「ねえ」
と、景が総菜パンを見つめながら呟いた。だけどその目は、ただその場所に向いているだけで、何か別のことについて考えているようにも見えた。
「あの人……」
「うん」
僕は相槌を打ったけれど、景はそのまま黙ってしまった。
携帯が震えた。十八番の面会が終わった。景に伝えた。僕を見ないまま頷いた。
蛍光灯の音が聞こえるような気がした。あれは一体何の音なんだろう、とすごく昔から持っているはずの疑問を、久しぶりに思い出した。
「たとえばね」
「うん」
「明日世界が滅びるとするじゃない?」
「うん」
「そうしたらあなたは、誰と一緒にいたい?」
僕はその質問に答えようとしたんだけれど。
やっぱり嘘は良くないよなって、そう思ってしまったから。
何も言えないまま、ただ俯いているだけでした。
『それじゃあこのへんで一曲いってみまっ、しょう! みなさんもうすっかりお馴染みの大人気アイドルグループCITRUS の新曲で――、』
「愛情の責任とか、考えたことある?」
景はCITRUS の名前を聞いて眉間に皺を寄せながらそんなことを言ったけれど、責任なんて、もうずっと古臭くなってしまった言葉に僕はピンと来るところもなかったから、彼女の横に並んで首を振った。
「世界、滅びないよ」
「……そうね」
『それではいってみましょうCITRUS で――、【1/6】!』
「CITRUS、そんなに嫌い?」
「全部」
景はパンを適当につかんで籠の中に入れて――たぶんあれは僕の分も含んでるんだと思う――、それからスタスタとレジの方に向かって行ってしまった。
だから僕は店の外に出た。会計を終えて景が出てくるのを待った。コンビニの前にはそんなにスペースがないものだから特に何をするでもなく店前の傘立ての横に突っ立って空を見上げていた。
そこでようやく今夜は月も星もない空だと気が付いた。道理で暗いと思った、なんてそんなことは別にこの街では実感できるほどのものでもないんだけれど。月も星も、そんなにここじゃあ強い光にならないから。
雨が降ると嫌だなあと思った。でもそんなに嫌でもないかもしれない、とも思った。景がコンビニから出てきた。ひとりだけフライドチキンを買っていた。僕も頼めばよかったかな。
「全部嫌いなの」
と彼女は言った。
「全部?」
そう、と彼女は頷いたけど、僕はそれって嘘だよなあと思った。だけど、そういう気持ちになる日があるってことはわかった。
そっかあ、と僕が頷けば、彼女もそうよ、と頷いた。
自分よりも落ち込んでる人がいると、かえって自分は冷静になれたりするものだ。
*
「よく来たな」
と一成が僕を迎えたのは翌朝の午前七時で、僕らも一成も目の下に隈を作っていた。
通された応接室は一目見て豪華、ってわけじゃなかったけど、きっと良いところなんだと思う。ソファに座ったら、あんまり沈み込んでひっくり返っちゃいそうになってしまうくらいだったから。僕はどこか落ち着きなく座る位置を調整しながら、一成の顔を見た。
やっぱり、昔の面影がある顔だよなあと思った。本人なんだから、当たり前なんだろうけど。
「で、何から聞きたい?」
再会の挨拶なんてすっ飛ばして、一成はいきなり本題に入った。それもそうだろうと思う。だって一成の傍にはずっと”僕”がついていたんだろうし、もし仮にそんなことをするつもりが多少あったとしても、二十三回もやるのは面倒だろうし、いい加減省略しようという気持ちも起きるだろう。
「『世界の秘密』について」
「オーケーオーケー」
僕の代わりに景が答えて、一成はテーブルの傍らに置いていたファイルを手元に引き寄せた。
それからその中身をぱらり、ぱらり、とめくる。
「んー、じゃあ四ページからでいいか。『人工知能技術とは――」
「自分で勝手に読むわ」
貸して、と景が手を差し伸ばすと、助かるね、と一成はそのファイルを引き渡す。それからペットボトルのお茶を飲んだ。どうやら喋り通しだったらしく、喉を痛めているらしかった。
それから彼はソファにごろん、と長い手足を放り出して横になる。
「ま、読み終わったり質問があったりしたら言ってくれ。俺はちょっと寝る」
そう言って瞼を閉じて、十秒もしないうちに寝息が聞こえてきた。寝つきが良いのも変わってない。
隣に座る景はもうそのファイルを読み始めていて、僕もそれを隣から覗き込むようにすると、彼女は密着するように肩を寄せてきて、ファイルも僕らの中間位置に置いてくれた。こういうところは、やっぱり優しいと思う。それから機嫌も、少しは直ってきているように思えた。
それから僕はそのファイルを読み始める。一成の言った通り、四ページ目から。その出だしはこう。
『人工知能技術とは、辻倉透が開発した――』
「えぇ……」
思わず声を出してしまった。辻倉透は兄さんの名前だ。なんだか関係者が身内ばっかりだ。
だけどそれもそうか、と思った。関係者にひとり知り合いがいたら、そのまわりも自分の知り合いである可能性は当然高くなるのだし。
とにかく気にせず読み進めることにした。いちいち驚いていても始まらない。
時計の長針が一周する頃には、ファイルを読み終えた。なるほど、これじゃあ面会も時間がかかるわけだよなあ、と納得した。勝手に資料を読んでるだけでもこれなんだから、きっと一対一で会話なんてしたらもっとかかるだろう。
専門的な部分は理解のしようがなくて読み飛ばしながらになってしまったけれど、大体のことはわかった。
人工知能技術は、兄さんが――この間会った方じゃない、僕が知ってる方の兄さんだ――、が大学の研究室で開発したものであること。
その技術が大学で評価されて、最初の頃は学内でひそかに研究者の人たちなんかをコピーした人格を作って運用テストをしていたんだけれど、プロジェクト拡大で発生したヒューマンエラーでうっかりその複製人格のうちのひとつがインターネットに流出。それをきっかけに爆発的に複製人格作成技術が広まってしまったこと。
それから肉体については――、正直よくわかっていない、というのが本当のところらしい。ただ、生物系の研究者の人の複製人格も初期に作成されていたらしく、それが電脳空間で成長して、あるいは現在のような形で肉体を供給するに至ったんじゃないか、なんていうほとんど何もわかっていないような仮説が載っていた。
ぱたん、と景がファイルを閉じた。それから僕と一成の間で目線を交互させて尋ねた。
「起こしてもいいの?」
僕は、うん、と頷いて立ち上がり、寝こけている一成の肩をゆすった。ぱちり、とすぐに目を覚ます。まるでただ目を瞑っていただけみたいに。一成は昔から寝つきも寝起きも良い。
「おう、終わったか」
「終わったけれど、いくつか質問をしてもいい?」
景の問いに、構わねえ、と答えた一成はまたペットボトルを手に取って口をつけた。
「あなたが世界の支配者っていうのは、つまりこういうこと?」
「おう、二十四ページだな」
もうすっかりページ数まで覚えてしまったらしく、一成はファイルを見ないままに答える。
「これってつまり……」
「おう。まあそこに書いてある通りなんだけどよ」
二十四ぺージのタイトルは。
『IDとパスワード』
「つまるところよ、人間の脳には一定の核になる部分……って言っていいのかわかんねえけどよ。まあIDとして使える部分があるわけだ。で、透……凪の兄貴がそれを解析し切ったわけ。で、あの人はそれに対して、特定の遠隔刺激で――つまりこれがパスワードだな――、で脳を操作できるってことを発見したから――」
「つまり、人間を自由自在に操れるってこと?」
過激な結論に、けれど一成はあっさり頷く。
「ま、平たく言やあ、そういうことだ。脳のIDがわからない人間にゃあ干渉不可能だが、こっちは人格複製ソフトの大部分を管理してるしな。データベースは膨大だし、大概の人間はどうとでもできる」
「なんでそんなことを?」
これは僕の質問だった。
ここまでの体制を作り上げるのには、結構な苦労が伴ったみたいだ。研究の中心を一成と面識のある兄さんが担っていたとはいえ、その環境を整るのを担当していたのは一成みたいだったから。四十ページ以降から『これまでの経緯』といった感じで年表のようなものが載っていたけれど、そこに至るまでの理由は述べられていなかった。
一成はけだるげに肩に手を当てて、首をほぐしながら、何気なく答えた。
「世界征服したくなったから」
「……は?」
「そんだけ」
「ねえ、増えた人間が街に溢れてないのはどうして?」
僕があっけに取られている間に、景が質問を変えてしまう。一成は、「あれ、どっかに書いてなかったっけ」とファイルを勢いよくめくった後、「書いてねえや」とファイルを閉じて、それから答える。
「減ってっから」
「……減ってる?」
「元々人工知能は電脳スペースで動かしてるもんだったわけだ。そいつらが電脳に帰っても不思議じゃねえだろ?」
「それって……!」
「肉体を、捨ててるってこと?」
そうそう、と一成は軽い調子で言う。実際のところ、もうこの説明をするのも十何回、あるいは二十何回目なのだから、彼には気負うところも特にないのだろう。
「透はあんまりそのへん気に入ってねえみたいだけどな。あいつとしては物理的な肉体がないと思考の方向性にズレが生じるから――、ってよ」
「思考の方向性?」
とりあえず僕は一成の言葉をオウム返しみたいに口にしたけれど、実のところその言葉に特別引っ掛かりを感じたわけでもなかった。それよりも、兄さんがどういう目的、というよりもゴールを設定して研究をしているのか、ということが気になったのだ。
その意を汲んでくれたらしく、一成は答えてくれる。
「透が目指してんのは人間が求めるべき真理の探究だぜ」
「真理……?」
「まあつまりさ、人間の脳を解析して、答えを探すんだと。ID とパスワードのもうひとつ先の領域らしくて、あいつはそのシミュレート用に複製人格なんてシステムを開発したらしいんだけど――、まあ、その実験道具の時点でぶっとんだもんができちまったって感じだな。こんなとこか? まだ質問あるか?」
僕はパンクしそうな――、というよりも穴が空いてしまったように風通しのよくなった頭ではこれ以上何を質問するかを思い浮かべることもできず、景に視線を向けた。すると景もどうやら似たような状態らしく、目が合って、僕らふたりは頷き合った。
「うん、大体わかったよ。ありがと」
「いーよ別に、友達だしな。まあわかんねえことあったらまた聞きにこい。一応事前連絡くれりゃあ時間取っからよ」
友達。
その言葉に僕は一瞬考え込んでしまったけれど、きっと考え込んでしまうのはよくないことだと思ったので、すぐにその思考を拭い去った。
うん、と頷くと一成は立ち上がって、応接室の扉を開けてくれる。僕らはその扉をくぐって外に出ようとして。
「あ」
と僕は思い出して足を止めた。
「んだよ、どうした?」
「聞き忘れてたや、いい?」
「おう」
ちょっと不思議そうな顔で頷く一成に僕はちょっと笑ってこう尋ねた。
「元気にしてた?」
一成は一瞬目を丸くして、それからすぐに、にっ、と昔よく見た挑戦的な笑みを見せた。
「ま、それなりだな」
その答えに、「そっか、よかった」と僕は返した。それから景とふたりで、今度こそ扉をくぐった。
廊下をわたって、エレベーターを下って、一階ロビーを抜けてようやくビルの外に出た。
もう時刻は午前八時過ぎ。冬といってもすっかり朝日は昇っていて、清潔めいた冷たい光が空から降っていた。僕は一度肩を上下させて、こわばった身体をほぐした。一成との面会が終わって、すっきりしたような、むしろ肩の荷が重くなったような。
「あなたの友達って」
僕の隣、景が顔をこちらに向けないまま呟いた。
「結構、悪い人みたいね」
僕はその言葉に、頷くか頷くまいか迷った。話のスケールが大きいというか、時代の変動についていけてないというか、そんな感じで上手くそれを自分の中に受け入れることができなかったけれど、確かに一成のやってることはかなりメチャクチャなように思えた。
人を思いのままに操るなんて、そんなこと。
けど案外、そんなことみんな――。
「それからね、凪」
また、顔をこちらに向けないまま、景が呟いた。
「別に、誰にでも優しくする必要ってないのよ」
と。その言葉に、ちょっとだけ心当たりがあったものだから、僕はどう答えたらいいものか、また迷ってしまって。
難しいよなあ、それ、って。そんな思いを込めて、苦笑いをした。