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天罰とフール  作者: 道詠
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第一羽目 1-1C 日常に潜む悪意

 すべてが、一瞬の出来事のように思えた。彼がこちらに向かってくる事も、瀬人の腹にずぶりとソレが入り込んでいくのも――すべて、一抹の悪夢に感じた。

「っ゛……ぁ……?」

 白い壁に背中がぶつかり、包丁がずぶずぶと瀬人の肉に侵入してくる。凶器を受け入れた瀬人の躰には、びくりっと稲妻の様な痛みが突き走った。と、同時に急激に腹部が熱を帯びて頭が熱に支配されていく。

 ――痛い。

「どう、し……て……」

 息を吸うだけで傷口が痛む。瀬人はずりずりと壁に背中を擦りながら床に崩れ落ちた。瀬人はまだ唐突な現実を受け入れられずに居る。

 否、受け入れられる筈がない。理解出来る筈もない。だけれど、目の前に横たわる現実を瀬人は見なくてはならない。

 見据えなければならないというのに――瀬人の海馬は、現在リアルを刻まず、つい昨日の思い出に夢を馳せた。



「……今日は話せたな」

 それは帰りの電車での事だ。瀬人はほくほく顔で電車に乗り、人混みに身をゆだねながら今日一日の事を振り返っていた。

『ええ、あたしは日本食が好きよ。たくわんとか白菜とか、漬物も美味しいわよね』

 ――吉倉が料理作れたら、参考に聞くんだが。俺はおふくろの味なんて知らないから、鈴が将来嫁に行く時用に今の内からそれっぽい味にしておきたい。おふくろの味ってどんなのなんだろうな。

 瀬人の中でのおふくろの味とは一体どんな意味を持つのか。そうやって物思いにふける瀬人の視界に、電車の中に見覚えのある顔が映る。

 ――あ、桜蘭だ。たまに話すけど、クラスのリア充グループの一員だし、何かの部活の全国だか世界だかの大会で優勝したっていつも表彰式出てるし、女子とも話してるし、日陰者には遠い世界の一員だな。しかし何で彼奴のノートってあんなにも綺麗なんだ。女子力高ェ。

 貸してもらったノートの字の綺麗さに唖然とした瀬人は、今でもその時の事を覚えている。そんなふうにボンヤリしていると、ある悍ましい現実に気が付いてしまった。

 それは形容し難き事実。身体の芯の底から冷えていくような現実。夢だと思っていたかった。何も信じたくなかった。果てしない衝撃と嫌悪感が、瀬人の爪先を伝う。

 電車がゴトンと揺れ、乗客たちはその揺れに身を任せる。瀬人も他の乗客たちに押され、視界が揺れた。だから、瀬人には分かってしまったのだ。

 桜蘭の表情はトイレでも我慢しているかのように辛そうだ。そして、そして――……。


 ――やっぱりアイツ痴漢に遭ってやがるーーーーーッ!?

 乗客と乗客の隙間から見えた怪しげな手付き。瀬人が引っ掛かって少し首を傾けて視線を下ろすと、やはり桜蘭の臀部には謎の恐ろしい手が伸びていた。

 ――ギョェエエエエエエエッ! しかもなんかさわさわしてやがる! 気持ち悪ィィィイイイ!?

 頭の中でキャラ崩壊を起こしつつ、瀬人は鳥肌を立てる。心なしか、血の気が引いてきた。気分は何も知らずに特定の公園の便所に入った時のようだ。実際にそれをやらかしたのは飼葉だったが。

『公園や駅のトイレって汚いだろう』

『場所によるだろ! オレは行くぜ!』

『さっさと戻ってこいよ。映画始まるぞ』

 ――ああうん、あの時は飼葉がデート誘われて、飼葉の大嫌いなホラー映画見に行くことになったからって、予行演習にその見るホラー映画に付き合わされたんだっけな。彼奴も正直に言えば、相手女子なんだから『ホラーニガテなんてカワイイ~』で済む可能性も少しぐらいあったろうに。5%ぐらい。

 うっかり現実逃避してしまった瀬人は、目蓋を閉じては開き、現実を再確認する。見付けてしまったものは、仕様がない。明日からクラスで気まずくなるが、桜蘭の表情を見ると何らかのプレイと言う線も消える。

 ――……ほっとけないよな。

 瀬人はすみませんと乗客を押しながら桜蘭の下へ進む。桜蘭は何も気が付いていない。瀬人はとっとと済ませる為、怪しい手、ではなく手首を掴んだ。

「嫌がってる相手にこんなことして、恥ずかしいと思わないのか。警察に突き出すぞ」

「ッ……っ……!!」

 電車が駅のホームにとまる。次降りる駅だ、と瀬人はハッとして降りる側の扉を見る。犯人はその隙を見て、バッと手を振り解き、駆け足で逃げて行った。

 ――が、学校の男ォォォォオオオオオオオオオオッ!?

 逃げて行くその後姿は誤魔化しようがない。なんと痴漢は瀬人や桜蘭と同じ学校の制服を着ていたのである。


 結局、駅を乗り過ごしてしまった瀬人は成行で桜蘭の降りる駅まで同行し、桜蘭の家が近くにある駅の改札口を通り、駅前まで来てしまった。

 まだ人がざわざわとうろついている為、瀬人達は歩きながら話をする。人気のない道までくると、巨体を縮こまらせている桜蘭がぼそりと消え入るような声で呟いた。

「……ゴメン。巻き込んだ」

「い、いや、その……」

「見なかったことにしてくれ、って言っても……駄目か」

「……なんというか、その、大変だな。イケメンってのも。いや桜蘭の場合はハンサムか」

 瀬人も動揺を隠せないのか、本題から避けるような言葉ばかりを選んでしまう。瀬人の言う通り、桜蘭の顔立ちはハンサムで凛々しい。体格も大きくガッシリしているだけあって、女性から見れば頼もしい存在だ。

「部活のセンパイなんだ。一年の頃からイヤガラセはあったんだけど、大会優勝してきてからは……」

 そこで、桜蘭は黙り込む。非常に気まずい沈黙が流れた。厳めしい顔付きは目付きの悪い瀬人同様、異性に誤解されやすい。そのせいもあり、桜蘭が黙っているだけで瀬人はビシビシとプレッシャーを感じて居た堪れなかった。

「……体育会系って大変なんだな」

「センパイは優しいひともいる。それにふざけてやってるのならよくあることだし」

「言いにくい話をすると、あの先輩だけガチっぽいと」

「……オレは嫌われてるから。だから、そういうことしてくるんだと思う」

「はあ、イヤガラセであんなヤバイことを……いや、マジでもヤバイ変態だが」

「このこと、黙っててくれないか」

 伏せ気味だった桜蘭は顔を上げ、瀬人と目を合わせて頼み込む。真摯な眼差しに瀬人は覚悟の様なものを感じ取った。

「それは構わないが、いいのかそれで。先生に言うとかは……」

「大事にしたくないんだ。先生たちはみんな、期待してくれてる。オレだって出場停止はイヤなんだ」

「信頼出来る先生なんかは居ないのか? 何も相談したらすぐことが公になるなんてことはないだろう」

 ――むしろそれはマスコミで、隠蔽しにかかるのが学校や企業と言った機関だしな。

「…………」

 桜蘭はまた顔を俯かせ、黙りこくった。消極的な否定と見た瀬人は、困ったように腕を組んで考え始める。

 ――思いっきり性格って言う弱味に漬け込まれてるな。かと言って中途半端な抑止策は相手を挑発するだけだろう。体育会系の世界なんぞ知らんこちらからすると半端じゃなく可哀想だし、なんとかしてやりたいところだが。

 クラスでいつものほほんとしている姿からは想像も付かないほど、今の桜蘭は委縮しきっている。瀬人はますます可哀想に見えてきた。自分だったら犯罪者相手に容赦はせず闇討ちするが、上下関係を躾けられた上に将来有望の肩書きを持った桜蘭には無理な話だろう。

「あ。じゃあ、こういうのはどうだ。証拠を握って、クラスにバラすぞと脅すとか」

「そんなこと……」

「あのな、何甘っちょろいこと言ってるんだ。相手のやってることは、犯罪行為なんだぞ? 下手に出ては向こうが調子に乗るだけだ。

バラバラ死体を作るようなストーカーと違って、向こうにはまだ失うものが色々とある。社会的地位の下落をちらつかせれば、サッと手を引っ込めていくさ」

「向こうは先輩だし、これからも部活で会うのに……」

「無傷でこの事態を解決しろって方が無理難題だ。エスカレートするより遥かに傷は浅く済む。と言うか、俺に言われたぐらいでビビって逃げ出すような男ならまだ間に合う」

「………………」

「こっちだって後味悪いのは御免だ。だが、今やらなければ後で後悔するかもしれない。御前が傷付くのは見たくないんだよ。……って、わ、悪い! 強く言い過ぎたか?」

 黙って顔を俯かせていた桜蘭は、ぼろぼろと涙を流し始める。歯を食い縛り、声もなく泣く桜蘭を見て、瀬人は慌ててハンカチとティッシュを取り出した。

 ――そういや、こうしてると枦谷の時を思い出すな。……枦谷の時と言い、人間ってホント色んな秘密を持ってるものだ。やっぱりみんな、人に言えずに一人で抱え込んでいたんだろうな。

「ごめんな。桜蘭は穏やかで優しい奴だし、あんまり相手を傷付けたくないんだな。いきなり変なこと言って、急かしたみたいで悪かった。許してくれるか?」

 瀬人は子どもを諭すような優しい口調で語りかけると、桜蘭はしゃくりを上げながら大きく首を縦にふる。ティッシュの消費ペースを考えると、ポケットティッシュが持ちそうにない。

「泣きたいときは好きなだけ泣けよ。俺、ティッシュ買ってくるから、近くの公園かどっかに行って座ろう。話ならいくらでも聞くよ」

 瀬人は背中をぽんぽんと叩きながら、落ち着いた声で桜蘭に語り掛けた。桜蘭は返事が出来ないので、またもこっくりとクマさんの様に肯いた。


 迷った時間をダッシュで補い、温かい食べ物とティッシュを買って戻ってきた瀬人は、桜蘭の案内で近くの公園へ向かう。

 誰も居ない公園は幽霊が出て来そうなほど、不気味にしんみりと静まり返っていた。一方で、公園の外からは家族の賑やかな笑い声が聞こえてくる。

 鈴に連絡し終えた瀬人は、真顔を作りつつベンチに座っている。隣にいる桜蘭は今まで余程ストレスが溜まっていたのか、涙が止まる気配を見せない。

 少しして瀬人は携帯電話を取り出し、飼葉にメールした。内容は『一目見て笑うオモシロ画像くれ』と言う簡素なものだ。

 数分後、何故か瀬人の予想を遥かに超えた量でどっさりと画像が届いてくる。最後のメールには『どやぁ……?』と言う内容がきたので、『嫌がらせ乙』とだけ返しておいた。

「ははっ」

 画像を見ていると、内容はどれもくだらないが、気分が落ち込んだ時に見ると気軽に笑えて丁度良い。瀬人はその中でも身内ネタの学校の先生を選ぶ。

 桜蘭が瀬人の笑い声にこちらを見てきたので、瀬人は何も言わずに携帯画面を見せる。ぶふっと噴き出した音が聞こえ、瀬人はニヤリと口端を吊り上げた。

「これとかどうだ?」

 その後、瀬人は桜蘭の涙が止まるまで、桜蘭を笑わせた。一緒に動画や画像を見ている間に桜蘭も落ち着いたのか、笑顔が見られるようになってきた。

「もう冷めたけど、食うか?」

 瀬人はコンビニで買った肉まんを差し出す。桜蘭が遠慮するので、「腹、空いてないのか」と聞くと「……ハラへった」と気恥ずかしそうに答え、お腹の音を大きく鳴らした。

 桜蘭が肉まんをぺろりと平らげている間に、瀬人は公園にある自動販売機で暖かい飲み物を買ってくる。

「甘いの好きなんだったよな」

 瀬人はココアの缶を投げて渡す。桜蘭はクマの様な手で缶をキャッチした。片手で格好良く受け止めたので、瀬人は軽く口笛を吹く。瀬人は高確率で落とすし、ゴミ箱に投げても入らないタイプだ。

「班一緒になったとき、女子と何度か話してたが、本当に甘いの好きなんだな」

 鈴が買って来て余らせたココアを処分しようとした時を思い出し、瀬人は苦笑する。このココアは、あの時の瀬人には甘ったるくて飲めやしなかった。

『鈴、いつまでも置いてるなら俺が飲むぞ。スペースの邪魔だ』

『うん、いいよー』

『……うえぇ。よくこんなの飲めるな。俺は飲めないから、やっぱ御前が飲んで処分してくれ』

『はーい。この甘ったるいのがおいしいのにな~』

『甘いもの食べすぎて、黄色いクマになっても知らないぞ? いつのまにか蜂蜜両手にベトベトつけてたりしてな』

『セトのいじわるー!』

「……ありがとう。色々と、ごめん」

「気にするな。御前自身の問題なのに、俺も口が過ぎた。すまなかったな」

「いや……うれしかった。人の優しさって、沁みるな」

「少しでも力になれたのなら、よかった。あんまり一人で溜め込み過ぎるなよ。あの先輩だって、誰も止めてくれる人がいなかったから、ああなってしまったのかもしれないしな」

「……先生に相談してみるよ」

「それがいい。一人では光が見えないことも、一緒に考えてくれるひとがいたら、それだけで光を信じられるようになる。きっと、どうにかなるさ」

 瀬人はぽんっと桜蘭の肩を叩く。凛々しい顔付きの桜蘭は力強く肯いた。

「先生についてもらって、一度、サシで話し合ってみる」

「腹を割って話し合うってことか。応援してる。頑張れよ」

「いろいろ、迷惑かけて、ごめん。こんな夜遅くまで、付き合わせたみたいで」

「抱え込んでる奴をほっとくほど、まだ道を外れちゃいないさ。何時だったか、ノート貸してもらった恩もあるしな」

 瀬人が笑いながら言うと、桜蘭もほんのりと笑った。少し元気が出てきたようで、瀬人もほっとする。

「ところで……俺は見なかったことにしておいたほうがいいか?」

「できるなら……」

「分かった。俺は何も知らなくていいんだな。それじゃあ、腹も空いただろうし家に帰るか。あ、それとも家まで送ってったほうがいいか?」

 お節介を焼く瀬人に桜蘭は苦笑いで首を横にふる。瀬人は「そっか。それじゃあ、また学校でな」と挨拶をして背を向けて去って行った。


「……疲れた。なんだろう、どっとエネルギー持ってかれたな……」

 少し離れた所で、瀬人は疲れた様に溜息を吐く。首をぐりんと回すと、コキコキと音が鳴った。

 何時もとは異なる神経を使ったせいか、妙な疲れが体に残っている。瀬人は堪らず上を見上げた。

 夜空には幾つかの星々が瞬いている。雲のない夜空だ。月の光を見ていると、何となく気分も落ち着いてくる。

「あのまま苦しいって言えずにいたことを思えば、安いものか」

 夜風が鎖骨を撫で上げていく。優しい風に包まれながら、瀬人は自然と笑っていた。

「桜蘭の奴もよく分からん先輩も、何とかなるといいな。悲しいことも苦しいこともみんな乗り越えて、みんなが笑って過ごせるようになりますように」

『セト、笹と短冊もらってきたよー!』

『誰からだ? 後でお礼しに行かないと』

『高森のじっちゃんのとこー! ねえねえ、早速飾って短冊におねがいごとしようよ~』

『片付けるのは誰だと思ってるんだ……』

『ふふん、そう盛り下がること言わないの~。セトはどんなおねがいごとにする?』

『世界平和』

『ぷっ! セトってばマジメ~』

『冗談だ。争いは消えない。だから、同じ叶わない願い事なら、違うのにする』

『どんなの?』

『……教えない。さっきみたいに笑うだろ、どうせ』

『ふふっ、ってことはそういう部類なんだ~? ……セトがいいこに育ってくれてよかった。おれ、セトのこと大好きだよ。セトは?』

『何処のカップルだ』

『えへへ~。言いたくなかったら、おねがいごと、おねーさんに教えなさい』

『……がんばってる人たちが、みんな笑って幸福に暮らせますように』

『…………ぷっ、ぶはははははっ!! あはっ、あははははははっ!!』

『うるせェ!! 人がどんな願い事しようが自分の勝手だろ! 笑うな!』

『ぷぷっ、セトってば耳までまっかっか~!』

『もう知らん! 俺は晩飯作らないからな!』

『え~!? セトのごはんがいーいー!』

『黙れ!』

『うー……そだ! ね、セト、セト!』

『………………』

『セトが世界中のみーんなのコトを願うなら、おれはセトのコト書いてあげるね!』

『……。あげる、って何だよ。俺は頼んでなんかない』

『やっとこっち見てくれた~。いいじゃん、おれも好きなように願うよ』

『……好きにしろ』

『うん、好きにするね』

『…………どうせなら、家族全員って付け加えておけ』

『もっちろん! おねーちゃんもセトもおれも、家族3人元気に過ごせますようにってね!』

『………………』

 背中を向けている瀬人の表情が鈴には透けて見えて、この不器用な弟はと内心鈴はにやにや笑う。

『おとうとよー!!』

 むずむずと心の嬉しさを隠し切れなくなった鈴は、とびっきりの笑顔を浮かべて瀬人の背中に飛び付いた。

 そんな七夕の月の出来事を思い出し、瀬人はふっとうっすら微笑む。瀬人の世界は残酷になってしまったけれど、あの日の自分も今の自分も変わっていないものが在る。

「……あのバカは、いつも教えてくれるんだな」

 自分に大切な事を。瀬人は手のひらを見下ろし、大事そうにそっとそれを握りしめる。それが何なのかは、ずっと鈴が教えてくれている。だから、瀬人は見失わずに済む。

「……まだ、勉強してるかな」

 携帯電話を開き、瀬人はたまには恥ずかしいことも言ってやろうかと電話をかける。だが、電話は通じなかった。こんな事もあるよなと思いつつ、少し気落ちした瀬人は漸く大変な事に気が付いた。

「……あれ、駅までの道って……? オーラントー……もう居ないよな、そりゃ……」

 瀬人はがくっと首を落とし、とぼとぼと歩き出す。辺りは真っ暗闇に染まっていて、近くにあった看板には『変質者注意!』と書かれている。それを見た瀬人は、思わず口に出してしまっていた。

「……桜蘭の奴、大丈夫かな」

 瀬人の脳味噌は鶏に引けをとらない。それから数分後、携帯電話の初期着信音が鳴り響いて、瀬人はやっぱりなと思う自分に苦笑した。

「すまん。今、邪魔か?」

『ううん。セトが帰ってくるまで待ってるから、はやく帰っておいで』

「悪い。早く帰れると思うが、眠くなったら気にせず寝てくれ」

『気にしないで。いつもはセトがおれの帰りを待っててくれるでしょう?』

「夜更かしは肌に悪いんだろう?」

『ハハ、セトが気になるんだったら寝ますけど?』

「ずっと顔合わせてるんだ。今更肌が荒れようと気にならないな」

『そいつはありがたいです、我が弟クンは女性の味方でいらっしゃる』

「それでいて褒めたほうがいいんだろ? ナンパ上手のイタリア人を見習えと」

『褒められてイヤがるひねくれちゃんはそういないでしょう!』

 芝居がかった彼女の語り口を聞きながら、瀬人は何でもないような雑談を彼女と交わす。

「それもそうか。なあ、今何してる?」

『いま? えっとね――』

 早く家に帰りたくなって、瀬人は足早に歩を進める。聞き慣れた家族の声を耳にしていると、見知らぬ道も先の見えない暗闇も暖かく見えて、単純だなと瀬人は自分でも笑ってしまった。

 ――今日も何事もない、退屈な一日だった。

「それがいいんだ」

『うん、そうだね』

 瀬人はもう一度笑った。瀬人にとっての世界は、何時だって愛おしい。何故ならそれは、鈴が瀬人に手を差し伸べてくれた日から始まったのだ。


 翌日。


 瀬人は何時もの様に学校の帰りにスーパーへ寄り、家に帰宅する。扉を開けて、玄関の中に入り、革靴を脱いで揃え――そこで、違和感が目に付いた。

「……靴の……跡……?」

 玄関から先、階段へと続く道には何故か点々とした汚れが付着している。その形は人の足跡に見えた。

 息を呑んだ瀬人は、じわりじわりと差し迫ってくる嫌な予感を胸に抱え、突然走り出す。彼はそのまま階段を二段飛ばしで懸け上がり、バンッとリビングへの扉を開け放った。

「…………」

 ごとんと音を立てて、スーパーの袋が床に落ちた。袋の中には、牛乳やもやし、チーズ、それにとっても甘そうなサツマイモが見える。

 瀬人は、静かに瞳孔を見開き、呆然と唇を開いた。立ち尽くす瀬人に、来訪者が振り向く。

 白に近い灰色の髪に澄んだ光を灯す紫色の眸。右手には銀光りする刃。丹念に砥がれたソレは、瀬人の包丁だった。

 すべてが、一瞬の出来事のように思えた。彼がこちらに向かってくる事も、瀬人の腹にずぶりとソレが入り込んでいくのも――すべて、一抹の悪夢に感じた。

「っ゛……ぁ……?」

 白い壁に背中がぶつかり、包丁がずぶずぶと瀬人の肉に侵入してくる。凶器を受け入れた瀬人の躰には、びくりっと稲妻の様な痛みが突き走った。と、同時に急激に腹部が熱を帯びて頭が熱に支配されていく。

 ――痛い。

「どう、し……て……」

 息を吸うだけで傷口が痛む。瀬人はずりずりと壁に背中を擦りながら床に崩れ落ちた。瀬人はまだ唐突な現実を受け入れられずに居る。

 否、受け入れられる筈がない。理解出来る筈もない。だけれど、目の前に横たわる現実を瀬人は見なくてはならない。

 そこにいたのは、もうひとりの自分、桜山瀬人だ。顔の造詣、髪や目の色、どれをとっても同じに見える。紛れもなく――目の前で己を見下ろしているのは、自分だ。

 彼は、無表情だった。頬に飛び散った血液を拭う事もせず、包丁を手放した手を下ろし、無慈悲に瀬人を見下ろしている。

 彼の向こうから、無造作に放り捨てられた手が見えた。その手は雪のように白く細い。瀬人は、自分の脇腹を見た。何時の間にか自分は脇腹に手を触っていて、手を離して手の平を見てみると、べったりと血が張り付いている。

 べとべととした血液は意外にも粘着質で、指と指の合間からとろとろと滴り落ちているように見えるのに、瀬人の手の平は真っ赤だった。ぬめって手の平の赤が消えない。

 赤い、赤い、赤い、ドロドロとした不健康な血。瀬人がぼんやりしていると、彼はゆっくりと階段へ後ずさっていく。

 その姿勢は瀬人の最後の力を警戒してのものだったが、瀬人はどうにかする気力も発想も湧き上がってこなかった。

 ――俺は、負け犬だ。

 瀬人は広くなった視界の中に、鈴を見付ける。鈴はフローリングの床に倒れ込んでいて、ぼんやりとした瞳でこちらを見ていた。

 投げ出された両手は、ぴくりとも動かない。犯人以外の人物が視界に現れたと分かっている筈なのに、彼女は動いてくれない。少し見上げれば、そこに見慣れた弟の顔があると言うのに。

 ――こんなときなのに、一矢報いてやろうとか、仇をとってやろうとか、そういう熱い思いが、出てこない。助けを呼べばたすかるかもしれないのに、どうしてだか、うごきたくない。このまま、なんだかねむってしまいたい……。

 うとうとと目蓋が下りそうになってくる瀬人は、鈴に手を伸ばす。すぐそこに居るのに、姉は遠かった。あのときと、同じだ。

 鈴の目蓋は上がっていて、瞳は開いているのに、鈴は瀬人に焦点を合わせない。人形の様な眼で、見えない何かを見ているように。

 視界から、彼の姿が消えた。光の幅はだんだんと狭まっていく。暖かい希望が、血と共に抜け落ちていく。気が付けば、ずいぶんと肌寒い。

 鈴の唇がぽそぽそと動いた。かすかに吐き出される息と声にならない言霊が、瀬人の意識を現実に縫い留める。

『……のゴハン、もう……たべられないなぁ……』

 鈴はゆるやかに弧をえがいて、静かに瞼を閉じた。優しい口元に、瀬人は笑いたくて、涙が出そうになった。

 ――ごめんな。また、たすけられなくて。ゆるして。ごめんなさい。おねえちゃん。

「……ごめ……な…………れ、なく……て……」

 瀬人はぴりぴりと痙攣し出す手を必死で伸ばし、泣き笑いの表情で、鈴の手を掴もうとする。震えきった瀬人の指先が、あと数センチのところで、止まった。

 包丁の柄が床に擦れ、身体は横向きに倒れかかる。ばさっと放り出された両腕は軽く宙を舞うが、重力によってすぐに床へと打ち落とされた。

 それを見ていた彼は、いや、瀬人が彼女に手を伸ばそうとしたせいで、動けなくなってしまった彼は、棒立ちになって突っ立っていた。

 少しして、嗚咽の漏れる音が聞こえてくる。堪え切れないとばかりに、彼は喉をふるわせる。

「……っ……うっ、ううっ……! もっ、もうっ、いやだッ……! こんなの、なんで、どうして、俺っ……嫌だ、嫌だ、もう、やりたくないッ……!!」

 両肩が怯えるように震える。激情が心臓から暴発するように流れ出す。行き場を失くした怒りが、己の体内で暴れ狂う。

 ぎりぎりと歯を噛み締め、彼は腕をふって壁に拳を打ち付けた。ゴンッと強い衝撃、それに痺れが拳に伝わる。

「ちくしょうっ! チクショウチクショウチクショウッ、チクショウッ!!」

 叫んだ。喉を大きく震わせ、憎悪を吐き出すように。ゴンッ、ゴンッ、ゴンッと壁を叩きつける拳は皮が剥け、血が滲んで白い壁に赤い飛沫を付けるまで続いた。


「どうしてッ――どうして俺がやらないといけないんだッ!」




ここまで読んでくださって、ありがとうございました!

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