名もなき怪物のお話
生まれてこの方、笑った事が無い。
というより、何が楽しいか分からない。みんなは何が楽しくて笑うのだろう。
ねえ父さん、テレビ見て楽しいの?
ねえ母さん、その雑誌、そんなに楽しい?
ねえ兄さん、その漫画、俺はそんなに面白いとは思わなかったよ?
何も感じない、いつも無表情。俺だけが、異端者だ。
俺がほとんど表情が無いのに対して、双子の兄はとても感情豊かだ。だいたい笑っている。
それだけならいいのだが、笑わない俺のことを両親よりも心配して、ものすごく構う。幼稚園、小学校、中学校……笑わない俺の傍で、兄は笑い続けた。
俺にできないことを平然と横でする兄は、一体どんな気分なんだろう。想像しようとしたことは何度もあった。ただ、俺はいまいち人の心が分からない人間らしい。だから、兄の気持ちも、両親の心配も、周りが俺を気味悪がる理由も分からない。
ちゃんと笑えて、みんなと話せる兄の周りには、人がたくさん集まってくる。
集まった人間はみんな、笑わない俺を不思議に思うらしかった。最初は不思議がるだけ、でも時間が経つと、得体のしれない生き物を見る目に変わる。
兄は弟の俺からしても分からないほど、俺を大事にしてくれるから、みんな表立っては言わない。言わないけど、目を見れば分かる。
『怪物』
みんな、俺をそういう風に思うのだ。
そうやって、笑いもしない、人の気持ちも分からないままに、俺と兄は高校生になった。環境を変えるためとでも思ったのか、兄は電車通学の必要がある高校を選び、俺に一緒に受けようと言ってきた。断るのも面倒だったから一緒に受けた結果、2人で電車通学することになった。
電車通学して環境を変えたところで、兄のところに人が集まるのも、俺が気味悪がられるのも変わらなかった。むしろ、一般的には悪化したと言っていいだろう。俺は兄の取り巻き連中から、いじめを受けるようになった。
「お前、本当に誠司と双子かよ」
気味悪ぃな、と憎々しげに俺に向かって吐き捨てるのは、兄・誠司の取り巻きの一人だ。そんなもの、俺は物心ついた頃から考えていたというのに、今更過ぎて何を言えばいいのか分からない。
「そうらしいよ、うちの親は疑わないからね」
俺達が生まれる瞬間にはちゃんと父さんも立ち会っていたという。母さんと父さん、証人としては十分だろう。後はまあ、表情を消せば、兄と俺は全く見分けがつかないらしい。ちゃんと双子だ。
納得がいかなかったらしい彼は、しかしそれ以上追及はせず、俺を突き飛ばして教室へと戻って行った。
別に、いじめが苦だとかそういうものは一切無い。兄がほとんど常に俺の近くにいる以上、派手な動きは取り巻き連中もできないようで、言葉の暴力程度で済んでいたからだ。こういうあたり、ほとんど何も感じないのは楽なんだろうなと他人事のように思う。
……兄は、どうなんだろう。こんな醜い連中や、『怪物』と呼ぶべき人間を相手にして、おかしくはならないんだろうか。恐ろしいことに、俺達は未だ同じ部屋で寝起きしている。寝癖がついたまま、にへらと笑って挨拶をしてくる兄を、俺はいまいち理解できない。起きた瞬間から、何を笑うことがあるんだろう。本当に双子かと、誰に言われなくても思ってしまうところから、俺の1日は始まるのだ。
一度、兄にどうして俺にそんなに構うのかと聞いた事があった。確か、同じ高校を受験しないかと持ちかけられた時のことだ。苦笑いをしながら、兄は答えた。
「だって、弟なんだぜ? そりゃ構うだろ」
別に笑わなくてもいい、と付け加えた兄が、やっぱり分からなかった。
「ねえ、兄さん」
「ん?」
今は試験期間中ということで、図書館で勉強していたら、もう夜の8時になっていた。それぞれの携帯に母さんからお怒りのメールが入ったのをきっかけに急いで片づけて、帰りの電車を待っている時だった。
「兄さんは、何が楽しくて笑うの?」
「は?」
俺の質問は、兄には分からないものだったらしい。困ったような顔で俺を見ている。
「俺は、生まれつき何も楽しくないよ。だから、兄さんが笑う理由が分からない」
「……知ってるよ、それは。だけど、世の中楽しいことだらけだ、お前だって、それが分かれば――」
「分からないよ。今までも、これからも。……兄さん、」
横並びで話していたし、俺は兄の方に顔なんて向けてなかった。だから、兄はきっと俺の表情なんて見えていなかっただろう。俺がこの話を始めた時、どんな顔をしてたか、見せてあげるよ。
「俺、もう飽きたよ」
俺の浮かべていた表情に、兄が呆気にとられている間に、俺は線路へと飛び降りた。タイミング良く、電車が迫って来る。死ぬ前に、ずっと送信せずに保存しておいたメールを兄へと送った。死ぬ準備は、整った。
「じゃあね」
もう1人の怪物は、俺が嗤いながら死ぬのをただ呆然と、無表情に見送っていた。
『兄さんへ
俺が最後に聞いたのは、どうして笑うふりをするのかってことだったんだよ。
だって兄さん、誰も見てないとき、笑ってないよね?
俺がいつも作ってる表情を、兄さんは自然にするよね?
気付いてないとでも思った?
俺達は双子だよ、しかも一番すぐそばで見てたんだ。
ねえ兄さん、俺達は合わせ鏡だ。
俺は笑える、兄さんは笑えない。
小さい頃から、お互い無意識に分かってたんだろうね。
俺達は、2人とも異常だった、異端だったんだよ。
俺は本当は、何もかもが滑稽で、おかしくて仕方なかった。
だって、笑えないだけで、人を気味悪がるんだ。あれほど笑えるものは無いよ。
それに、兄さんが頑張るのも、正直滑稽だった。そこまでして人間って大切かな? 兄さん、本当は大切だなんて思ってないよね? だって俺は思ってない。
兄さんはそれでも、まともなふりをしようとして、今はまだうまくいってるね。
だけど、限界なんてすぐ来るよ。
俺の方がちょっと早かっただけだ。
分かるよ、だって双子なんだから。
耐え切れなくなったら、俺みたいにすればいい。
俺は笑って出迎えてあげるよ。
今度も、双子じゃなくていいから、兄さんと兄弟になりたいと思ってるよ。
今度こそ、ちゃんと俺達笑いあえるといいね。
それじゃあ、またね』