上司の無実を証明したら、いちばんの裏切りになった
わたしは、尊敬する人の無実を証明した。
それが、いちばんの間違いだった。
証明してはいけなかったのだと気づいたときには、もう、すべてが遅かった。
――順を追って、話す。
*
ラング卿が追放されたと聞いたとき、わたしは書庫にいた。
手にしていたペンが、指から滑り落ちた。
インクが、書きかけの紙に黒い染みを広げていく。
わたしは、ただ、その染みを見ていた。
罪は、隣国への内通。
国の機密を、売った、と。
間違いだ。
考えるより先に、そう思った。
わたしは三年、ラング卿の下で働いた。
あの人がどれだけ国に尽くしてきたか、誰より知っている。
夜更けまで執務室の灯りは消えず、部下のしくじりさえ、自分のせいだと引き受ける人だった。
その人が、国を売る。
あるわけが、ない。
わたしは決めた。
無実を、証明する。
ラング卿を、連れ戻す。
それが、すべてのはじまりだった。
そして、すべての終わりの、はじまりでもあった。
*
追放は、その日のうちだった。
わたしが宮廷に駆けつけたときには、ラング卿はもういなかった。
弁明の機会も、別れの言葉も、なかった。
執務室に入って、わたしは足を止めた。
片付いていた。
ラング卿の机は、いつも書類の山だった。
几帳面なのに量が多すぎて、追いつかない人だった。
なのに今は、机の上に、何もない。
塵ひとつ、ない。
引き出しを開けた。
空だった。
次も、その次も、空。
私物が、一枚の紙きれも、残っていない。
背筋に、冷たいものが走った。
追放は、突然だったはずだ。
罪が露見し、捕らえられ、即日、追われた。
そういう話だった。
なのに、なぜ、こんなにきれいなのか。
まるで、いつか出ていくと、ずっと前から知っていたみたいに。
わたしは、その考えを振り払った。
考えすぎだ。
動揺しているだけだ。
そう、自分に言い聞かせた。
*
無実の証拠を探して、わたしはまず、内通の証とされた手紙を調べた。
隣国に宛てた、機密の受け渡しの指示。
差出人の名は、ラング卿。
筆跡も、あの人のものだった。
偽物だ。
誰かが真似たんだ。
そう思って、目を凝らした。
でも、違った。
ラング卿の字には、癖がある。
急いで書くと、終わりが流れる。
なのに、この手紙の字は、きれいすぎた。
一文字ずつ、ていねいに、お手本みたいに書いてある。
まるで、誰かに読ませるために、清書したみたいに。
それだけじゃ、なかった。
手紙の中身を読み返して、わたしは、もっとおかしいことに気づいた。
いつ、どこで、誰に、何を渡したか。
全部、はっきり書いてある。
日付も、場所も、相手の名前も。
なのに、この手紙は、逆だった。
いつ、どこで、誰に。
足のつくことばかりが、ていねいに並べてある。
まるで、わたしが犯人ですと、自分から名乗り出るように。
わたしは、思い出した。
ラング卿は、否認しなかった。
無実なら、黙っているはずがない人なのに。
つながってしまった。
ラング卿は、嵌められたんじゃない。
無実を訴える代わりに、自分が犯人だと分かる証拠まで、自分の手で用意していた。
罪を認めるために。
いや――罪を、引き受けるために。
わたしは、手紙を置いた。
認めたくなかった。
ラング卿は、自分から、罪をかぶったのだ。
*
答えを探して、わたしはヴェルナー卿に会いに行った。
ラング卿と、ずっと対立してきた人だ。
評議で何度もぶつかり、最後まで意見が合わなかった。
ラング卿が消えて、いちばん得をするのは、この人だ。
だから、疑っていた。
この人が、罠を仕掛けたんじゃないか、と。
ヴェルナー卿は、わたしを見るなり言った。
「ラング卿の部下か。彼の無実を、信じているんだろう」
図星だった。
「言っておくが、私は彼を陥れていない」
先に言われた。
「私と彼が、いがみ合っていたのは、宮廷中が知っている。だから、私が疑われる。お前も、そう思って、ここへ来たのだろう」
わたしは、答えられなかった。
「だが、私ではない」
ヴェルナー卿の目に、嘘の色はなかった。
「考えは、最後まで合わなかった。だが、あの男の力は本物だった。志も、本物だった。私はあの男を、敵として、誰より買っていた。あんな男を、こんな安い手で消すなど……私の誇りが、許さん」
わたしは、混乱した。
犯人だと思っていた人が、誰よりラング卿を惜しんでいる。
「では、なぜ、ラング卿は」
ヴェルナー卿は、しばらく黙ってから、低い声で言った。
「ひとつだけ、引っかかっていることがある」
わたしは、顔を上げた。
「あの姫君の、生まれだ」
*
姫君。
亡くなった主君から託された、まだ六つの子。
ラング卿は、その姫君を、守る立場にいた。
亡き主君が、息を引き取る間際に、託したのだという。
幼い姫君のことを、すべて任せる、と。
以来ラング卿は、宮廷の重い務めのかたわら、姫君の暮らしから将来まで、陰で背負ってきた。
もっとも、姫君の正式な後見人は、ラング卿ではない。
その上には、ヘンドリック侯がいた。
幼い姫君に代わって、国の実権を握る人だ。
ラング卿と、ヴェルナー卿は、その下で、同じ格の臣として並んでいた。
わたしには、まだ分からなかった。
ラング卿の無実を探しに来たのに、なぜ、姫君の話になるのか。
ヴェルナー卿は、構わず続けた。
「来月、姫君の継承を正式に認める評議がある。私は、その審査をする側だ。姫君が、亡き主君の正しい血筋だと、記録で確かめなければならん」
継承の、承認。
「記録を調べた。職務だ。当然のことだ。……そこで、見つけた。小さな食い違いをな」
声が、低くなった。
「生まれた日。当時の医者の記録。立ち会った者の話。ひとつずつは、些細だ。誰も気にしない。だが、並べると、ずれている。後から、辻褄を合わせたみたいに」
わたしは、息を止めていた。
「ラング卿に、話した。姫君の生まれに、不審がある。一緒に調べて、はっきりさせよう。隠れた傷があるなら、正面から正して、姫君の立場を、誰にも文句の言えないものにしよう、とな」
善意だった。
この人は、本気で姫君のためを思っている。
「あの男は、断った」
ヴェルナー卿の顔が、歪んだ。
「頑なに、だ。理由も言わず、ただ、調べるな、と。論理で語る男が、論理を捨てて、拒んだ。まるで、何かを隠すように」
わたしは、立っていられなかった。
分かってしまった。
分かりたくなかったのに。
*
その夜、わたしは記録庫に忍び込んだ。
姫君の生まれの記録を、調べた。
ヴェルナー卿の言った食い違いを、確かめたかった。
でも、すぐに壁にぶつかった。
肝心の部分が、抜き取られていた。
当時の医者の記録。
立ち会った者の名前。
それが、綴りから、なくなっていた。
抜いた跡が、新しい。
最近のことだ。
誰がやったかは、どこにも書かれていない。
こっそりと、気づかれないように、抜かれていた。
たまたまここを開いた者は、ただ、古い記録が欠けているとしか思わないだろう。
でも、わたしには、分かった。
ラング卿だ。
姫君の養育を任され、その記録に、誰にも怪しまれず手を伸ばせた人。
その記録を、消す理由を持っていた人。
そして、ちょうどこの時期に、姿を消した人。
全部に当てはまるのは、ラング卿しか、いない。
消える前に、抜いたんだ。
追放のとき、ラング卿が機密の書類を処分した、という噂は流れていた。
国を売った証拠を、隠そうとしたのだ、と。
みんな、そう思っていた。
違う。
ラング卿は、自分の罪の証拠を消したんじゃない。
その混乱に紛れて、姫君の生まれの記録を、消したんだ。
売国奴という汚名は、隠れ蓑だった。
記録を消すための、口実だった。
わたしは、抜き取られた跡を、指でなぞった。
手が、冷たかった。
ヴェルナー卿が、生まれを疑った。
評議で、いずれ掘り返される。
ラング卿は、その前に、たどれる記録を、そっと消した。
誰にも気づかれないように。
自分が罪人として消えることで、すべてを、その陰に、隠して。
でも、まだ分からない。
なぜ、そこまでするのか。
なぜ、命を懸けて、葬る。
答えは、ここにはない。
*
姫君は、ただの偽物では、なかった。
隣国の血を引く子が、この国の世継ぎに、据えられている。
決定的なものは――医者の記録も、立ち会った者の名簿も――もう、ラング卿の手で消されている。
わたしたちが知ることはできても、公の場で、姫君が偽物だと突きつけることは、もう、誰にもできない。
でも、いったい誰が、何のために。
*
端切れをいくら並べても、犯人の名までは、出てこなかった。
ただ、ひとつだけ、たどれる糸があった。
当時、姫君を「まちがいなく亡き主君の御子だ」と保証した者が、いる。
その者の名を、ヴェルナー卿が、古い記録から探り当てた。
ヘンドリック侯。
姫君の、後見人。
国の実権を握る、あの男だ。
わたしとヴェルナー卿は、顔を見合わせた。
よそから来た赤子を、亡き主君の御子だと、誰にも疑わせずに通せた者。
それも、隣国から子を運び込めるほど、向こうに通じた者。
二つとも満たすのは、ヘンドリック侯しか、いない。
そこまで考えて、わたしは、おそろしい絵に行き着いた。
あの男は、隣国と通じていたのだ。
本物の世継ぎが死んだとき、隣国から赤子を取り寄せ、偽物の姫君として立てた。
継承を安定させる、という顔をして。
血のつながらない姫君は、あの男にとって、都合のいい人形だった。
生まれの秘密を握るのは、自分だけ。
暴くぞと脅せば、姫君は一生、言いなりになる。
そして、その先にあるもの。
隣国の血を引く姫君を玉座に座らせ、操り、いずれこの国を、まるごと隣国へ渡す。
あの男は、その見返りに、望むものを手にする。
姫君は、国を乗っ取るために、送り込まれた駒だった。
ラング卿は、それに、気づいたんだ。
ふつうなら、見限ってもよかった。
敵国の血を引く、偽物の世継ぎ。
国にとっては、危ういだけの存在だ。
でも、ラング卿は、そうしなかった。
あの子に、罪はない。
企みは潰す。
けれど、子は守る。
ラング卿は、そう決めたんだ。
でも、告発は、できなかった。
ヘンドリック侯の罪を暴くことは、姫君が偽物だと暴くこと。
同じ、ひとつのことだった。
あの男を裁く刃は、そのまま、姫君を斬る。
黒幕を倒すことと、姫君を守ることが、両立しなかった。
だから、ラング卿は、別の道を選んだ。
ヘンドリック侯が姫君を縛る、その鎖。
生まれの証拠そのものを、自分が罪人になる混乱に紛れて、消した。
証拠がなければ、あの男はもう、姫君を脅せない。
鎖は、断たれた。
たった一人で。
罪人の名を着て。
誰にも告げず。
*
それでも、ヴェルナー卿の顔は、晴れなかった。
「鎖は断たれた。だが、ヘンドリックは、まだそこにいる」
その通りだった。
証拠が消えても、あの男は、真実を知っている。
生きている限り、また別のやり方で、手を伸ばしてくるだろう。
「退けるだけでは、足りん」
ヴェルナー卿の声は、固かった。
「あの男が生きているかぎり、姫君は危うい。……消えてもらわねばならん。完全に」
「でも、生まれの件では、裁けません」
「ああ。それで裁けば、姫君が死ぬ」
わたしたちは、黙り込んだ。
黒幕は、そこにいる。
倒したい。
でも、倒すための刃が、姫君に向いている。
*
手がかりは、ずっと、目の前にあった。
ラング卿に着せられた、内通の手紙。
わたしは、もう一度、それを読み返した。
筆跡が作り物なのは、分かっていた。
でも、引っかかったのは、別のところだった。
手紙には、隣国の相手の名も、受け渡しの手口も、こまかく書かれていた。
でっち上げにしては、正確すぎた。
ありもしない内通を仕立てるなら、こんなに具体的には書けない。
この手紙を書いた人間は、隣国の内情を、本当に知っている。
ただの作り話では、ない。
わたしの背に、冷たいものが走った。
わたしは、その引っかかりを、ヴェルナー卿に話した。
ヴェルナー卿は、しばらく考えてから、口を開いた。
「……実は、私も、別のことで、引っかかっていた」
声が、低かった。
「ラング卿が、消える前のことだ。一度だけ、私に、奇妙なことを言った。ヘンドリック侯の、まわりの金の動きが、おかしい、とな。当時は、対立する相手の、ただの当てこすりだと思った。聞き流した。……だが、今になって、思い出す」
ラング卿は、気づいていたのだ。
ヘンドリック侯の、何かに。
でも、確かめる前に、消えなければならなかった。
だから、疑いだけを、ヴェルナー卿に、ぽつりと、残していた。
二つの引っかかりが、ひとつを指していた。
わたしたちは、調べはじめた。
ヴェルナー卿が、後見人を補佐する立場を使って、ヘンドリック侯の手元を探った。
国庫の出入り。
領地の収支。
届け出のない、金の流れ。
最初は、何も出なかった。
あの男は、巧妙だった。
帳簿は、きれいに整っていた。
でも、わたしたちは、あきらめなかった。
行き止まりにぶつかるたび、別の道を探した。
やがて、ほころびが、見えた。
使い道の書かれていない、大きな金。
それが、何度も、国の外へ、流れていた。
たどっていくと、行き着く先は、ひとつ。
隣国だった。
さらに掘ると、人の影が見えてきた。
夜、ひそかに出入りする使者。
隣国の、密偵。
交わされていたのは、金だけじゃなかった。
国の守りの要。
兵の配置。
城の、弱いところ。
ヘンドリック侯は、隣国と、通じていた。
ただ機密を売るだけでは、なかった。
わたしたちが推し量っていた企みは、絵空事では、なかったのだ。
金の流れも、密偵の影も、すべてが、それを裏づけていた。
あの男が国を売り、玉座を狙っていることを示す、確かな証拠が、いま、わたしたちの手にあった。
そして、もうひとつ、見えたことがある。
ラング卿に着せられた、内通の罪。
あの男は、自分が本当にやっていた売国を、そのままラング卿になすりつけていた。
だから、すらすらと筋書きが書けたのだ。
着せられた罪が、犯人を、指していた。
反逆。
いちばん重い罪。
追放では、すまない。
*
わたしたちは、つかんだものを、動かぬ証拠に、固めた。
隣国とのやり取りの跡。
金の流れ。
密会の記録。
誰にも、言い逃れのできないところまで、積み上げた。
そして、評議の場で、突きつけた。
ヘンドリック侯は、上座にいた。
いつもの、余裕のある顔で。
生まれの秘密という鎖を、握っているつもりで。
ヴェルナー卿が、証拠を読み上げた。
隣国との内通。
玉座を狙う、反逆の企み。
ヘンドリック侯の顔から、余裕が消えた。
あの男は、必死に、考えていたはずだ。
姫君の生まれを、持ち出せば。
あの子が偽物だと、暴けば。
この場を、ひっくり返せると。
でも、できなかった。
証拠は、ラング卿が消した。
今さら姫君を偽物だと言っても、証明できない。
それどころか、偽物の世継ぎを立てた張本人として、自分の首が、さらに絞まるだけ。
ヘンドリック侯は、何も言えなかった。
あの男は、勝ったつもりで、ずっと前に、負けていたのだ。
罪人の名を着て消えた、ラング卿ただ一人に。
*
ヘンドリック侯は、反逆の罪で、処刑された。
姫君の生まれは、ついに、表に出なかった。
誰も、あの子が偽物だとは、知らない。
あの子自身も、知らない。
ヴェルナー卿が、新しい後見人になった。
かつて姫君の生まれを正そうとした人が、今度は、その秘密ごと、あの子を守る側に立った。
あの子の、すぐそばで。
二度と、誰にも、人形になどさせないように。
ラング卿が断ち切った鎖の先を。
わたしたちが、引き継いだ。
ヘンドリック侯は、隣国の手先の、ひとりにすぎなかった。
あの子を駒として送り込んだ、隣国そのものは、まだ、国境の向こうにある。
いつか、また手を伸ばしてくるだろう。
この子を取り戻そうとして。
あるいは、別のやり方で、この国を狙って。
でも、この子は、もう、あの国のものじゃない。
どこで生まれたとしても、この国で育った、この国の子だ。
ラング卿が、命を懸けて、そう決めた。
だから、渡さない。
ラング卿が始めた戦いを、ここから、わたしたちが続けていく。
*
姫君のところを訪ねると、駆け寄ってきた。
「ねえ、ラング卿は、いつ帰ってくるの?」
胸が、締めつけられた。
この子は、何も知らない。
自分の生まれも。
ラング卿が、なぜ消えたかも。
ただ、いなくなった人を、待っている。
「……遠いお役目に、行かれたのです」
嘘だった。
「すぐには、帰れないところへ」
「そっか」
姫君は、少し寂しそうに笑って、足もとの花に、しゃがみこんだ。
「ねえ、この花の名前、知ってる?」
無邪気な声だった。
「いいえ。教えてください」
嬉しそうに、花の名前を教えてくれる。
その横顔を見ながら、思う。
これから先、何度でも、この子に嘘をつくのだろう。
自分を本物の姫君だと、信じていられるように。
ラング卿が、罪人の名を着て、たった一人で守ったもの。
それが、今、ここで、花の名前を覚えて、笑っている。
誰にも知られず、この子を守り続けること。
それだけが、消えたあの人へ、できることだった。




