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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ディストピアの群像劇───罪と救済、狂気───

邯鄲の夢───おばあちゃんへ

掲載日:2026/04/04

 僕のおばあちゃんの研究所は、いつもきれいに整えられている。たくさんの研究者が祖母を慕って、研究に勤しむ。昔からそうだった。僕のおばあちゃんはいつも優しくて、誰にでもその優しさを向ける人だった。ほんとう、よくできた人だと思う。僕はそんなおばあちゃんが大好きだった。だから、最後に会いにきた。僕のおばあちゃんからみんな離れて、研究所は灰色に汚れて………それでも優しさに満ちた言葉を使うおばあちゃんが、もう、おばあちゃんじゃないから。さようなら、僕の一番大事な人。さようなら、僕の愛情の全て。


 僕は、久しぶりの実家に緊張を隠せないでいた。しょうがないだろう、実に十年ぶりぐらいだ。目の前にあるのは、木製の大きな門。かんぬきがかけられていて、それは大の大人三人がかりでも抜くのが大変なほど重たいのだ。その門に刻まれた、蓮華の文様。それは、再生や悟り、決して汚れないということを意味している。祖母が大好きな花だった。精巧に掘られたそれは、実に美しく、また、時がまるで流れていないかのような懐かしさを思い出させた。

 門の前に立つのは、この家の後継になるはずだった人物である。いや、逃げたってわけじゃないんだけど。僕の名前は、赵仁安(チャオレンアン)。暗い藍色の髪を持つ、年は二十六ほどの、立派な青年。たった今、実家に帰還しようとしているところだ。

 しかし、大声で呼んでみても、返事はない。そして、その門が開けられる様子もない。まさか、誰もいないのか。いや、それはないだろう。僕の祖母なら、引っ越しをするときは必ず便りをよこすはずだ。そしてその便りには、不必要なほどの訓戒と奨励、賛辞の言葉が膨大な量書いてあるのだ。それを読むのにはかなりの時間を要するが、あたたかい祖母の手書きの文字だったので、読まないと言う選択肢はない。なんなら、きっとどうでもいい天気の話だとか、ここから遠く離れた地の木の種類の話だったって、この僕は喜んで読み出すだろう。そして、大切なもの箱(たいせつなものばこ)にしまうのだ。その大切なもの箱さえも、僕がまだ幼かった頃に祖母が作ってくれた大切な一品なのである。

 それはそうとして、この門が開けられないとなると、はてさて一体どうしたものか。僕は悩んだ。石壁をよじ登るのが一番早い解決策だが、腐っても名家の子息がそんな野蛮なことをしてもいいのか。面子を保つというのは重要なことなのだ。昔から研究者一族として栄え、国に認められ様々な待遇を受け取ってきた僕の家は、他人から妬み僻みを受けることが少なくなかったのだ。そのときに僕を守ってくれていたのも、祖母である。祖母は孫が傷つけられることが何よりも許せなかった。僕のこととなれば、仕事中でもその役目をほっぽり出して飛んでくる、そんな人物だった。

 しかし今では落ちぶれている。この家も、昔に皇帝から与えられたものそのままを一家代々使ってきている。新しい家を建てる余裕はない。だが、当時の一級建築士が丹精込めて建てた一軒なので、もう何百年と経っているはずなのに、まだ腐食どころか雨漏りひとつない。十分な広さも兼ね備えているので、文句はなかった。むしろ、こんな立派な家に住めることを、親類一同全て誇りに思っていた。とりわけ祖母は信心深い人だったので、遥か昔のご先祖様を毎日のように拝んだ。僕もそれに付き合った。人徳に溢れた祖母がこれだけ感謝する人なら、きっととても徳を積んだ仙人みたいな人だったんだろう、なら、感謝しないのは失礼だと思った。

 昔の思い出を懐かしんでいれば、時間は過ぎていく。結局誰も現れる気配がないまま、日は傾きかけた。昔は生き生きとしていた街路樹も、今では葉が枯れ、乾燥し、それでもなお面影を残していた。後ろに振り向き、夕陽が差し込んでくる眩しい光に目を細める。昔、この道の両脇には、僕の二人の友人の家が建っていた。今でもそこには建物があったが、人影はない。ひっそりとしている。まるで、僕が一人きりみたいだ。

 斜陽が思い出を重ねてくる。たしか、いつも夕方になると、祖母が外で遊んでいた僕を呼びにいくのだ。大抵はこの三人の家の前で追いかけっこをしたり、不思議なものを持ち寄ったり、ままごとをしたりしていたので、特に祖母が苦労するようなことはなかった。そういえば、あの二人は今何をしているのだろう。僕はふと気になった。ここに今でも住んでいるのだろうか、それとも、僕のように、家を出て都市のほうで働いているのだろうか。

 僕は、十六になる年に、この家を去った。なにも、居づらくなったとか、居てはいけなくなったとかではない。むしろ逆だ。ずっと居たいから、何か成果を上げて戻ってこようと思ったのだ。ここから一歩たりとも出ず、ここで一生を終えるとなれば、それは祖母の望むところではないだろう。祖母はよく言っていた。可愛い子には旅をさせよ………、いつも僕に言い聞かせていた。失敗してもいい、だから、必ず歩みを辞めてはいかん、と。今日まで僕はそれを守ってきた。だからこそ、僕は都市で有数の権力を持つ五大組織のうちの一つに入社できたし、そこでの評価も悪くない。むしろ、今は管理職についているほど、優秀な人材だ。そしてそれを報告するために帰ってきたのだ。


 そろそろ諦めの心も湧いてきた頃、僕はふと研究所のことを思い出した。そういえば、祖母は研究者だった。僕は幼い頃から祖母に連れられ、研究所に頻繁に顔を出していた。そこでどんな研究が行われていたかは覚えていないけれど、たしか、国に任された重要なプロジェクトだった気がする。それが成功するかどうかで、国の存亡が決まるとのこと。現在、僕が住んでいる国は全く崩壊の兆しを見せていないので、多分成功したんだろう。とりあえず、ずっとこのまま無人の家の前で立ち止まっていてもしょうがない。僕は記憶を頼りに祖母の研究所へ向かった。

 すっかり辺りは橙色に染まり、眩しい光はほぼ横から来ていた。不思議なことに、どれだけ歩いても、人っ子一人会いやしない。一体なぜだろうか。疑問に思いながらも、昔辿った道を、もう一度辿った。昔、祖母に手を繋いでもらって歩いた道。あのときは、色々はしゃぎ過ぎて、迷惑をかけていたと思う。なぜか走るし、なぜか立ち止まるし、祖母の周りをぐるぐる回るし………。それでも、笑って手を引いてくれた祖母。夜に近づき空気は冷えているが、心だけはあたたかくなっていた。

 そうして、研究所に着く。白い立方体、としか言い表せないそれは、間違いなく祖母の研究所である。きっとここに祖母やみんながいるだろう。そう思って、研究所の入り口へ急ぐ。しかし、途中で足止めを喰らった。草が伸び過ぎている。一体これはどうしたことか、手入れがされていない。昔は、ちょっとでも雑草が顔を出せば、研究所の人がそれを引っこ抜いて焼却していたというのに。今考えると恐ろしいものだ。研究所にこもりきりだというのなら、何か買って行った方が良かったか。そんなふうに考えて、渋々高い草をかき分けて入り口に着く。

 昔は小綺麗で何の汚れもなかった扉。壁と同じで白い、自動で動く扉。今でもその仕組みはわかっていないけれど、それは過去に曽祖父が生み出した超科学だという。その話を面白おかしく祖母から聞かせてもらったときは、興奮で夜も眠れなくなった。それで、夜中だというのにベッドに戻らない僕を持ち上げて、僕の寝室まで運び、それでベッドの上に置いた。当時は何をされているかさっぱりわからなかったが、今考えると笑えてくる。そして、僕が眠るまで昔話などを語ってくれた。

 しかし今はその扉が半壊している。まず開きっぱなしだし、白いはずの素材が黄ばんでいる。汚れもつき放題。これはいよいよまずいかもしれない、そう思い出した。僕が家に帰らなかった十年間のうちに何があったのか、それを知りたかった。


 研究所の中はまだ明るかった。人はまだいる、ということだ。しかし、灯りの電気は切れかけ、明滅を繰り返している。そして、中も酷い有様だった。机は倒れ、椅子はもうどこにあるのかすらわからない、床には引きずった跡、割れたコップの破片、そして───何かの資料。それが気になって、持ち上げてみた。それは、報告書のようだった。記載者は赵慈蓉(チャオツーロン)。僕のおばあちゃんだ。研究についてのことらしい。僕はそれを読み始めた。



研究報告書 : 生体兵器手術とその問題点について

報告書分類 : C-43


1 概要

人体改造による生体兵器化、それによる弊害について。

実験体は最後まで抵抗の意思を見せたが、感情もより強力な反発を必要としたので、強行。問題は起こらなかった。実験体はその後、皮膚が溶解し、埋め込んだ機構が露出した。強力な薬品を多く使った副作用と考えられる。免疫抑制薬を投与することを提案する。

実験体に限りがある。今後も極めて慎重に研究は行わなければならない。


2 実験体についての詳細

被験体-一は拒絶反応を起こし死亡した。もとより肉体的に貧弱であったため、VGE-二八には耐えられなかったと推察できる。

被験体-二は保留。まだ結果が出ていない。今のところ順調に適応が進んでいる。目立った反応はなく、このままいけば成功するものと思われる。

被験体-三は──────



 なんなんだ、これは。初めて見た。もう見る気が起きない。この報告書はなんと紙二十枚程度にまとめられている。そして、倫理的におかしい。まさか、僕の祖母がこんな研究をしていたというのか。いや、そんなはずはない。僕はさらに探索を続けることにした。

 また研究報告書を見つけた。今度は手書きだった。それも間違いなく祖母の筆跡。内容は、倫理問題と兵器、だった。祖母は、この研究に少なからず反対していたようだった。

 そしてさらに見つけた報告書。それは、祖母の手によるものではなかったが、同じ研究内容に関して書かれていたので、読んでみることにした。そこには、一番適合した被験体-三七について書かれていた。最もおとなしく、最も理性を保ったまま、手術は完了したらしい。だが、人間らしい慈悲深い行動は見られなくなったそうだ。


 それ以降、祖母の研究資料───それも、あの生体兵器に関しての───は見つからなくなった。それ以外の、感情再起や再生医療などの資料は膨大だったが、その生体兵器に関しては、日付が三年前から更新されていなかった。


 研究所の奥へ進むほど、空気は重く、湿り気を帯びていった。肺に入るたび、わずかに粘りつくような感覚がある。それに混じって人の気配を感じるようになっていった。確かに何かがいる。足を進めるたびに、記憶が浮かび上がる。ここは、治療室の近くだ。僕が怪我をしたとき、祖母に抱えられて運ばれた場所。膝を擦りむいたとき、白衣の人たちが優しく手当てをしてくれた。泣き止むまで、祖母がずっとそばにいてくれた。……違う。今は、そんなことを思い出している場合じゃない。

 誰か、いるはずだ。僕は歩調を速めた。長い廊下を抜け、いくつもの部屋を横切る。どこも荒れ果てているのに、奥へ進むほど、逆に使われている痕跡が鮮明に残っている。そして、辿り着いた。研究所の最奥。重厚な鉄扉で閉ざされていたはずの場所。

 昔、一度だけ近づいたことがある。そのとき、祖母は顔色を変えて僕を引き止めた。───ここは駄目だよ、仁安。まだ早い。もっと勉強してからじゃないと入れられないよ───。あのときの手の強さを、今でも覚えている。だが、目の前にあるはずの扉はもうそこにはなかった。正確に言えば、開け放たれている。閉じるという機能そのものを忘れてしまったかのように、ぽっかりと口を開けている。奥から、かすかな音がした。呼吸のような、機械音のような、耳に触る音。僕は、一度だけ息を整えた。

 大丈夫だ、一歩踏み出せる。そう言い聞かせて、足を踏み入れる。研究室の中は、妙に明るかった。壊れかけた照明が明滅し、白い光を断続的に撒き散らしている。そのたびに、室内の様子が途切れ途切れに浮かび上がった。千切れかけた配線。剥き出しの機材。倒れた台。引きずられたような跡。そして、部屋の中央に「それ」はいた。

 最初、それが何なのか分からなかった。人の形をしている。だが、均整が崩れている。皮膚の下で何かが脈打ち、ところどころで異質な機構が露出している。呼吸に合わせて、わずかに音が鳴る。僕は、立ち止まった。足が動かない。それでも───目を逸らせなかった。「それ」が、ゆっくりとこちらを向く。そして、ひどく聞き慣れた声で、まるで僕がお出かけから戻ってきた時のように、こう言った。

「───仁安、おかえり。」


 僕はそれが真実だと信じたくなかった。これは、悪夢なんだと思いたかった。でも、絶対に違う。悪夢だったとしても、ここまで心を抉る恐怖と拒絶は生み出せないだろう。───これは正真正銘、現実なのだ。

「………どうしたんだい、そんなふうに固まって。返事もできないほど嬉しいかの?久しぶりだのう、仁安。いつ帰ってくるのか心待ちにしていたのよ。」

 冗談を言うようにそれは笑って見せた。いや、"それ"ではない。………"祖母"である。僕は何も言えず、ただそこに立ちすくんだ。祖母は、もう人間ではない体をゆっくりと動かし、研究室の中の机に向かった。途中、何かが軋むような音がした。

「わしはな、ここで研究をしていた。そなたが帰ってくるまで、ずっとな。途中で研究員はみんないなくなってしまったが、それでも止めようとは思わなかった。いつかそなたが帰ってきた時のために、研究を完成させておきたくてのう。さて、見てくりゃせんか?わしの研究成果じゃ。」

 祖母は、僕に向かって研究録を渡してきた。それは祖母の字だった。その事実もまた、僕の心を抉るのには十分だった。その研究録の一ページ目から、僕は吐き気を覚えた。人間を人間として扱っていない。倫理観が欠如している。全てを実験に使い、実験体を素材として扱う。こんなものが許されていいのか。

「………こ、これは、何なの………?」

「人間という枠組みから外れ、仙人になるための研究資料、というところかの。そして、わしはそれを完成させた。それはそなた、たった一人の孫のために行った研究よ。わしの孫には、尊い人生を送ってほしいのさ。」

 全く悪意のない、純粋な愛から生まれた歪な研究。そして、今わかった。被験体-三七は、祖母のことだ。最も人間的外見を保持したが、人間性を欠如した実験体。そうなってしまった祖母は、僕にその手術を受けさそうとしてくる。だけど、もうわかった。

「………蓮華の花。」

 それは、再生や純粋、そして………煩悩からの解放。祖母は言っていた。蓮華の花は、悟りを開くなどの意味があるんだ………、人間として、正しく生きて、正しく死ぬ、それが一番なのだと。祖母は蓮華の花が好きだった。庭の池には、いつも美しい薄桃色が広がっていた。だから、僕は分かった。もう、この人はおばあちゃんじゃない。仙人だろうが何だろうが、僕のおばあちゃんは人間であることをやめようなんてしなかった。

「………おばあちゃん、聞いてほしいんだ。」

「ほう、何かね?何でもいいぞ、わしはそなたの声を聞けるだけでも嬉しいからの。」

 思い詰めた表情を僕がしても、目の前の実験体-三七は表情を変えない。出会った時の微笑みから、一切変わっていない。けれど、その表情は、祖母が僕の頭を撫でていた時のものと同じだった。

「僕は、おばあちゃんが大好きです。ずっと昔からそうでした。」

 その言葉を聞いて、祖母は顔を明るくした。昔からずっと変わっていない。おばあちゃんは、僕が大好きというと、決まってこんな顔をした。やっぱり、この人は僕のおばあちゃんなんだ。いくら変わってしまっても、やっぱり僕のおばあちゃんなんだ。でも───。

「だから、僕はその手術を受けられません。僕に永遠なんて必要ないんです。」

 かすかに喉が痛む。熱いものが込み上げるが、それを押し留めた。───僕のおばあちゃんはいつだって優しかった。今のこの誘いも、全部僕のことを思ってのことだろう。世界の禁忌に触れるかもしれない、人間の寿命延長、不老不死の研究を行ったのは、僕が先に死んでほしくないからだと思う。

「おばあちゃん、僕はいい仕事に就きました。特に不自由のない生活を送っています。都市はいろんな人がいて、友達もできたんですよ。」

 こんな形で言いたくなかった。本当は、温かい屋敷の中で、机を囲んで話したかった。───僕が好きだったおばあちゃん。いつだって愛情をいっぱいにして接してくれた、大切な大切なおばあちゃん。だから、もう、お別れをしないと。僕は人間として、孫として、そろそろ巣立ちを迎えなきゃいけない。もう、おばあちゃんが僕のために身を傷つけないように。

「だから、もう大丈夫です。僕は、おばあちゃんの助けがなくても、生きていけます。今までありがとう。僕はおばあちゃんが大好きでした。さようなら、僕の大切な人………。」

 固まったまま動けなくなったおばあちゃんを背に、僕は実験室から出る。つう、と目から涙が溢れた。後ろで、おばあちゃんが泣いている。

「仁安……仁安………行かないでおくれ………」

 ごめんね、おばあちゃん。親不孝者でごめんね。もう、振り返れないんだ。振り返ったら、誰も望んでいない終わりになってしまうから。


 おばあちゃんの声がだんだん遠くなっていく。外の光が見えてくる。僕は泣いている。もうおばあちゃんが僕にとらわれないように、僕は研究所の扉を塞いだ。もう、過去の温かみを失った研究所からは、何の音も聞こえてこない。ふと、柔らかな風が吹いた。それは、太陽の匂いであり───なつかしい、祖母の匂いだった。

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