甘い香の守り
ふと目が覚めた。
あんな話を聞かされた後なのに、
こんな変な場所にいるというのに、
疲れが勝って、泥のように眠ってしまった。
障子の向こうから、湯のはぜる音がした。
焙じ茶の香りが、畳に滲むように広がっていく。
唯が部屋を出ていくと、
カウンターに座る狐男の背中が見えた。
昼の光に金色の毛がちらちら揺れている。
「起きたかー」
振り返らずに言う声は、昨夜よりも人間に近く聞こえた。
「……夢じゃないんですね」
「夢やったらええのになあ」
男は苦笑し、カウンターの上に何かを置いた。
光を受けて、そこに見慣れた青がのぞく。
学生証だった。
唯ははっとして思わず手を伸ばす。
そのプラスチックの縁に、指が触れた瞬間、瞬間、現実が指先に戻ってくるようだった。
「学校には行っとき。人の中で生きること忘れたらあかんで、唯」
ようやく振り返った男が、にやりと笑う。
その目の奥には、どこかいたずらっぽい光があった。
「……なんで」
「お前、財布ごと寝とったからな。色々見させてもろたよ〜」
そう言って立ち上がると、懐から小さな包みを取り出した。
薄い藍の布で包まれたお守り。
差し出された瞬間、ふわりと甘い香りが漂った。
「ぼくはキツネ。これ、持っとき」
唯は掌の上にそっとのせる。
「……これ、なんですか?」
「クズの花や。化け狸から買うてな。こういう匂いは連中が嫌う。ほんまは藤がええけど、時期やないからなぁ」
キツネは肩をすくめる。
唯はお守りを握りしめた。
掌の熱で、布の奥の花がほんのり温もる。
出口を指さし、キツネは言う。
「行きな。大学一回なんて授業ぎょうさんあるやろ」
唯は小さく息を吸い込み、学生証とお守りを胸にしまう。引き戸を開くと、朝の光が流れ込んできた。
路地の先に見慣れた京都。通りすぎる人の影が、どこか薄く、ひらひらと揺れている。声をかけたら、溶けてしまいそうなほどに。
背後から、キツネの声が落ちてきた。
「もう、見えんふりはできへんで」
唯は振り返らず、光の中へ足を踏み出した。




