幻燈堂
――水の底から浮かび上がるような感覚。
まぶたの裏を、柔らかな灯りが撫でた。
唯はゆっくりと目を開けた。
見知らぬ天井。
木の梁に吊るされた白い提灯が、ふわりと呼吸しているように揺れている。
身体を起こそうとすると、手のひらにざらりとした畳の感触。
見渡せば、古い茶屋のような造りの部屋だった。
障子の向こうでは、風鈴がちりんと鳴っている。
夢だろうか――そう思ったが、頭の奥がじんと痛んだ。酔いの残りにしては、現実感がありすぎた。
障子の向こうから、かすかな足音がした。
畳を滑るような、軽い音。
唯が息を呑む間もなく、すっと障子が開いた。
「起きたか」
白金の耳が、揺れた。
ゆるやかな着物姿の男が、湯気の立つ湯呑を片手に立っていた。
金の瞳が、灯に溶ける――狐。
唯は咄嗟に身を引いた。
背中が壁にぶつかる。
「ここ、どこ……?」
声がかすれる。
男は肩をすくめた。
「うちの店や。よう来たな、現世の娘」
「店……?」
「“幻燈堂”。見える者と、見られん者が交わる場所や」
男は窓の外をちらりと見た。
外の景色は、夜とも昼ともつかない。
赤と金のあいだの空が、ゆらゆらと揺れている。
通りには灯籠の列が続き、その中を、影のような人々が静かに歩いていた。
彼は湯呑を卓に置き、扇をぱたんと閉じた。
「死ぬとこやったで。あのままやったら、今頃骨も残っとらんよ」
唯は言葉を失った。昨夜の、あの見世物小屋のざわめきが蘇る。
「……助けてくれたの?」
「買うたんや。お前は今、うちのもんや」
さらりとした声に、冗談の気配はなかった。
唯は震える手を見つめた。
「どうして……こんなことになったんやろ」
狐男の目が細くなった。
「“狐の窓”を覗いたんやろ」
唯ははっとした。
「……あれのせい、なの?」
「せや。人の目には見えんものを、無理やり見ようとしたんや。その瞬間、お前の目はこっちの世界と繋がってしもた」
男は扇の先で自分のこめかみを軽く叩く。
「一度見たら戻れん。今のお前は、“見える者”や」
唯の心臓がどくんと鳴った。
「見える者は、見られる者にもなる」
男の声が低くなる。
「こっち側のやつらは、光のようなもんを嗅ぎつける。放っとけば、あっという間に喰われるで」
唯は言葉を失い、息を呑んだ。
男は小さく笑った。
「まあ、落ち着き。命は取らん。借りは働いて返せばええ」
「……働く?働くって……なにをすれば?」
「うちの店を手伝うんや。ここは“魂の商い処”。人でも妖でも、何かを失くしたもんがやって来る。まあ、掃除でも、客の世話でも。ぼちぼち覚えたらええ。人手が足りてないねん。仕事はいっぱいあんで」
男が湯呑を差し出した。
「まあ、飲み。現世の酒でやられた体には、こっちの茶が効く」
唯はおそるおそる受け取った。
茶の香りは、どこか懐かしい。胸の奥に滲むような甘さがあった。
狐男の耳が、頭上でふわりと揺れた。
灯りの中で金色に光る毛並みが、夢のように綺麗だった。
「唯」
教えてもないのに男が名前を呼んだ。
「お前の見る世界は、これから少しずつ変わるで」
その声は、風の音よりも静かだった。
唯はただ、頷くしかなかった。




