狐の窓
あの夜のことは、夢のようだった。
いや、夢というより“見てはいけないものを見た”ような、現実の奥にひそむ影。それでも、唯の頭からあの店と男の顔は離れなかった。
狐の耳をしたあの男──思い出そうとすると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
数週間が経った。
飲み会の喧噪の中で、唯は笑っていた。
口角だけを上げて、誰かの冗談にあわせて。
笑い声の輪の中にいながら、心は遠くにあった。
――居場所なんて、どこにもない。
そう思うたび、喉の奥が渇いた。
たまらず飲んで、飲んで。
気づけば足元が少し揺れていた。
唯は財布から会費を抜き、テーブルの端に置いた。
「……お先に失礼します」
誰も返事をしなかった。音楽と笑い声にかき消されて。
夜の風が肌に触れる。ふらつく足で歩き出した。
胸の奥が熱い。頬も火照っている。
街灯が滲んで見えたのは、酔いのせいだけじゃなかった。
気づけば、八坂神社の鳥居の前に立っていた。
人影はなく、風が通る音だけが響いていた。
提灯の明かりが揺れて、影が地面を流れる。
唯は空を見上げ、ため息を吐いた。
「……狐の窓」
飲み会で誰かが話していた言葉を思い出す。
“特別な指の形をつくると、目に見えないものが見える”
冗談だと思っているけれど、ふとやってみたくなった。
唯は両手を上げ、狐のかたちをつくった。
左手を裏返して、指を開いていく。
その小さな“窓”の向こうから、八坂の灯を覗いた。
ーーえーと、なんだっけ
「……けしょうのものか、ましょうのものか
──正体をあらはせ」
世界が、音を失った。
風が止み、提灯の火だけが微かに揺れる。
空気が水のように重くなり、足の下から何かが引っ張るような感覚。
目を開けたまま、夢の底に沈んでいく。
視界が戻ったとき、唯は見知らぬ場所に立っていた。
夜の八坂のようで、まるで違う。
空は赤黒く、風には血と鉄の匂いが混ざっている。
灯に照らされた路の両側に、見世物小屋が並んでいた。
「人魚の首」「死にかけの天女」「記憶を食べる子供」
そんな札を掲げた檻の中には、歪んだ姿のものたちが蠢いていた。瞳のない顔。動かぬ口。息づかいだけが生々しい。
唯は後ずさった。
檻のひとつが、ぎしりと軋んだ。
中の“何か”が、まっすぐ彼女を見ている。
――いや、見られている気がした。
逃げなきゃと思った瞬間、背中を何かが掴んだ。
「生きた人間だ!」
叫び声とともに縄が腕を縛りつける。
唯は必死にもがいたが、すぐに地面に押し倒された。
「珍しいぞ、久々の現世の娘や!」
「高く売れるぞ、祭りに出せ!」
人外たちのざわめきの中で、唯は壇上に引きずり上げられた。
照らされた灯りが眩しく、涙が滲む。
見下ろす無数の目が、冷たい。
「次の出品物──“現世の娘”!」
木槌の音が鳴った瞬間。
人混みの奥から、穏やかな声がした。
「買った」
その声を、唯は知っていた。
灯の中、男が立っていた。
金の瞳と、白い耳。
――キツネ。
彼が手をかざすと、縄がほどけて床に落ちた。
観客のざわめきが静まる。誰も逆らえない空気があった。
唯は息を切らしながら、キツネを見つめた。
男はのらりと笑い、ひとこと。
「借りは返してもらうで」
次の瞬間、灯がすべて消えた。
暗闇の中で聞こえたのは、鈴の音。
唯の意識は、深い夜に沈んでいった。




