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唯一奇譚  作者: little_m
2/7

狐の窓

あの夜のことは、夢のようだった。

いや、夢というより“見てはいけないものを見た”ような、現実の奥にひそむ影。それでも、唯の頭からあの店と男の顔は離れなかった。

狐の耳をしたあの男──思い出そうとすると、胸の奥がきゅっと痛んだ。


数週間が経った。

飲み会の喧噪の中で、唯は笑っていた。

口角だけを上げて、誰かの冗談にあわせて。

笑い声の輪の中にいながら、心は遠くにあった。

――居場所なんて、どこにもない。

そう思うたび、喉の奥が渇いた。

たまらず飲んで、飲んで。

気づけば足元が少し揺れていた。


唯は財布から会費を抜き、テーブルの端に置いた。

「……お先に失礼します」

誰も返事をしなかった。音楽と笑い声にかき消されて。


夜の風が肌に触れる。ふらつく足で歩き出した。

胸の奥が熱い。頬も火照っている。

街灯が滲んで見えたのは、酔いのせいだけじゃなかった。


気づけば、八坂神社の鳥居の前に立っていた。

人影はなく、風が通る音だけが響いていた。

提灯の明かりが揺れて、影が地面を流れる。

唯は空を見上げ、ため息を吐いた。


「……狐の窓」

飲み会で誰かが話していた言葉を思い出す。

“特別な指の形をつくると、目に見えないものが見える”

冗談だと思っているけれど、ふとやってみたくなった。

唯は両手を上げ、狐のかたちをつくった。

左手を裏返して、指を開いていく。

その小さな“窓”の向こうから、八坂の灯を覗いた。

ーーえーと、なんだっけ


「……けしょうのものか、ましょうのものか

──正体をあらはせ」



世界が、音を失った。

風が止み、提灯の火だけが微かに揺れる。

空気が水のように重くなり、足の下から何かが引っ張るような感覚。

目を開けたまま、夢の底に沈んでいく。


視界が戻ったとき、唯は見知らぬ場所に立っていた。

夜の八坂のようで、まるで違う。

空は赤黒く、風には血と鉄の匂いが混ざっている。

灯に照らされた路の両側に、見世物小屋が並んでいた。


「人魚の首」「死にかけの天女」「記憶を食べる子供」

そんな札を掲げた檻の中には、歪んだ姿のものたちが蠢いていた。瞳のない顔。動かぬ口。息づかいだけが生々しい。


唯は後ずさった。

檻のひとつが、ぎしりと軋んだ。

中の“何か”が、まっすぐ彼女を見ている。

――いや、見られている気がした。


逃げなきゃと思った瞬間、背中を何かが掴んだ。

「生きた人間だ!」

叫び声とともに縄が腕を縛りつける。

唯は必死にもがいたが、すぐに地面に押し倒された。


「珍しいぞ、久々の現世の娘や!」

「高く売れるぞ、祭りに出せ!」


人外たちのざわめきの中で、唯は壇上に引きずり上げられた。

照らされた灯りが眩しく、涙が滲む。

見下ろす無数の目が、冷たい。


「次の出品物──“現世の娘”!」


木槌の音が鳴った瞬間。

人混みの奥から、穏やかな声がした。


「買った」


その声を、唯は知っていた。

灯の中、男が立っていた。

金の瞳と、白い耳。

――キツネ。


彼が手をかざすと、縄がほどけて床に落ちた。

観客のざわめきが静まる。誰も逆らえない空気があった。


唯は息を切らしながら、キツネを見つめた。

男はのらりと笑い、ひとこと。


「借りは返してもらうで」


次の瞬間、灯がすべて消えた。

暗闇の中で聞こえたのは、鈴の音。

唯の意識は、深い夜に沈んでいった。

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